神様 2
ともさんは聴診器をはずすと顔を上げた。
そうしてリキの耳を掻いてやりながら静かに口を開いた。
「リキが元気のない理由には年齢の事もあるのでしょう。
しかしおそらくは、心臓の不調が一番大きな原因なのではないかと思います。
聴診器を当てると心臓の左側から大きな雑音が聞こえます」
「前の病院では緑内障だと言われました。
リキは目が見えないので歩けないし。
それで元気も無いのかと思ってました。
違うんですか?」
夫さんの方がしゃがれた声で、少し不信を伺わせる様子を見せた。
「篠田さん。
おっしゃる通りリキは緑内障も発症しています。
視力がまだあるのかどうか。
対光反射と威嚇瞬き反応を調べてみました。
視覚の状態を調べる簡単な検査です。
・・・どうやらリキはもう目が見えていないようですね」
リキは茶色の柴犬で、見るからに年降りた老犬だった。
何事かを深く考え続けているのか。
あるいは犬なりの思考すら歳月の彼方に置き忘れてしまったのか。
折った前足に顎を乗せ。
息を吸い。
息を吐き。
ただ置物のようにじいっと横たわっていた。
顔は半ば白くなり、表情はおだやかそうに見える。
だが両目が異様に膨らんでつきだしている。
いわゆる牛眼という症状で、散大した瞳孔のせいで目が緑色に見える。
これは進行した緑内障で見られる症状だった。
おそらく視力を失ってからずいぶん時間がたっているに違いない。
「お話では何年も目薬をつけていたそうですね」
ともさんはリキの耳の裏を掻き続けていた。
「ええ。
緑内障の目薬を」
篠田さんの声がかすれている。
「緑内障の治療を始めた頃は、おそらく心臓には問題がなかったのでしょう。
当時は結構元気だったでしょう?」
やはりリキは身動き一つせず、少し浅めの呼吸を繰り返している。
「ええ。
先生のおっしゃる通りです。
あの頃は目が悪いのに元気いっぱいで、朝夕の散歩にも出かけていました。
考えてみるとこの半年ばかりで急に衰えた気がします。
私も家内もこのところ自分の体のことやら色々ありまして。
正直リキにまで気が回らず可哀想なことをしました」
篠田さんの表情はなんだか苦しそうな様子になってしまった。
「大丈夫。
リキはそんなことちゃんと分かってますよ。
ほら、さっきからリキの耳の裏を掻いてますけど、じいっと静かにしているでしょう。
視力を失った犬は恐怖心から、落ち着きが無くなって触るとびくびくしたりします。
すぐに攻撃的になることも多いのです。
だけどほら、私はリキとは初めて会ったのにどうです。
こうしておとなしく診察させてくれたじゃないですか。
リキは篠田さんと奥様の気持ちが良く分かっているんですよ。
犬は人の心を推し測ることのできる稀有な動物です。
こんな真似は猿にもできないんですよ」
ともさんがそう言うとリキは軽くしっぽを振った。
ともさんの代弁に感謝するような、それは実にタイムリーな動作だった。
電話に出るため篠田さんが席を外し、お連れ合いがお茶出しの為に部屋を出た。
そこで僕は小声でともさんに聞いてみた。
「リキが分かっているって本当ですか」
「嘘だよ」
ともさんはあっさりと肩を竦めて見せた。
「エッ。
だってこの犬、ともさんの解説の後。
さもそうだと言わんばかりにしっぽを振りましたよ」
リキは時々耳をぴくぴくと此方に向けていたが、やはりじっとしたままだった。
「偶然だろ。
触ってもじっとしていたんでな。
口からでまかせってやつだよ。
篠田さんと奥さんの気持ちが少しでも軽くなればと思ってね。
嘘も方便さ。
パイよ。
それにそんなことおふたりともご承知の事と思うぞ」
ともさんはさらっと言ってのけた。
なるほどと思った。
けれども、スキッパーと日頃やり取りしているせいか、少し釈然としない気もした。
「あっ。
リキが笑ってる」
「んっ」
ともさんは片方の眉をつり上げてリキを見た。
「嘘ですよ」
僕もさらっと言ってみた。
ともさんが苦笑して僕に顔向けた時、リキが再び尻尾を振った。
その後持参の心電計でリキの心電図を取り、検査のための血液を採取した。
本当は胸部のレントゲンを撮って、心肥大の評価も行うべきだった。
しかしリキが来院できない以上、これは端折ることにした。
この時代超音波診断機は、我々の業界でまだまだ一般的とは言えなかった。
ともさんが今後のことも含めて少し話をした後、診察代を頂く段でそれは起きた。
ともさんがカルテを書き終え今日の診察料金を告げたときだった。
「往診までしていただいて、その程度の額でよろしいのですか」
篠田さんは心の底から驚いた様子だった。
ともさんは明らかに虚をつかれたようだった。
内心の狼狽を一瞬で押し隠したのはさすがと言うべきか。
「はあ。
当院の規定に従った料金ですが」
ともさんはことさらゆっくりとした口調で愛想笑いを浮かべた。
似合わないことしきりだった。
ともさんは以前から、診療料金が安いと言われることをなぜか異常に恐れていた。
おおよその見当はついていたが、本当の理由は未だによく分からない。
僕もあえてともさんに尋ねたことはない。
機材をとりまとめ玄関先で、辞去の挨拶をしようとした時にそれは起きた。
いい加減ビクついていたともさんに、さらなる重い一撃が襲いかかったのだ。
その刹那の情景は第三者的には正直見ものだった。
「田山先生は貧乏人の神様です」
篠田さんはそう言うと傍らのお連れ合いと一緒に手を合わせて深々と頭を下げたのだった。
ともさんの顔面はたちまち蒼白になり、剃り残したひげがドットの様に浮き上がった。
冬だと言うのに、額には玉のような汗が噴き出した。
ともさんは心なしよろめいたようでもあった。
「検査の結果を拝見した上で、後ほどこちらの先生に薬を届けさせます。
それでは今日はこれで失礼いたします」
ともさんはいっそ冷たくも感じられる口調でそう告げたが語尾が震えていた。
いつもならためになる無駄話のひとくさりもあるところだった。
だがともさんはそのままあっさり踵を返した。
僕は何も言わずに一礼すると、先に歩き始めたともさんの後を追った。
「ともさん、左右の手足が同時に出てますよ」
僕は小声でともさんの手足が協調動作に不都合を生じていることを指摘した。
ともさんは立ち止まると肩を落とし、暗い声で精神の疲弊を訴えた。
「車の運転、頼んだぜ。
俺はな。
・・・なんだか疲れたよ」
「は、はい。
ラジャー、です」
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