あいつ 6
代診にとって手術をやらせてもらえると言うのは、それはもう大変なことだった。
院長にしてみれば、未熟者の手を借りずとも手術はできる。
外回りの雑用を代診に任せ、自分は手術に専念すれば良い。
そうすれば訳の分からない失敗はおきないし仕事もはかどる。
院長が教育熱心で代診に好意的ならば、手術を任せてもらえる機会も多くなる。
いくら座学に熱心でも、手術ばかりは場数を踏まなければ上達は望めない。
代診があまり手術をさせてもらえないと技術を学べないし身にも付かない。
手技が未熟なままでは、やはりいつまで経っても手術を任せてもらえない。
何処かの時点で院長が、代診に手術を任せるリスクを取らない限り、そんな堂々巡りに陥ってしまう。
手術を任せてもらうには腕を上げなければならない。
だが、腕が上がらなければ手術を任せてもらえないのだ。
代診としてはこのループから抜けるのは容易ではない。
院長の立場に立ってみれば、経験不足の代診に手術をやらせてみました。
ところが運悪く失敗してしまいました“テヘペロ”では済まされない。
もしそれがフォローの利かない。
取り返しのつかない失敗であれば、当然責任問題となる。
代診の失敗だとしても、その責任は事実上病院と院長が負わなければならない。
クライアントへのお詫びや説明に窮して、こじれにこじれた揚げ句訴訟にでもなってしまえば詰みだ。
多大な金銭的喪失と予期せぬ信用の失墜にみまわれることは必定だ。
そのことを踏まえれば、院長としては慎重にならざるを得ない。
実は手術に限らず、代診へ日常の診療を任せるに当たっても事情は同じだ。
だが、リスクが心配でいつまでも代診に手術や診察をやらせない。
そんな状況はナンセンスだ。
代診には不満がたまるし、第一にそれでは労働力として代診を置いている意味がない。
代診は臨床の諸技術を学ぶ為の修業と思うからこそ、薄給と長時間労働に耐える。
労働基準法の番外地である真っ黒クロスケな動物病院と言う現場で、寝食を忘れて働ける。
だからただブラックなだけの動物病院は、代診に実のある修業を積ませなければ早晩見限られることに成る。
業界で悪い噂が立てば新たな代診、安価で使い出のある労働力の補充は困難になる。
当たり前である。
代診の多くは将来的に自分も開業したいと考えている国家試験に合格した有資格者なのだ。
手っ取り早く経験を積み知識を蓄える。
出来得る限り短時間で効率良く獣医師としての腕を磨きたい。
それは歴代の代診共通の切なる願いだ。
その願いを踏みにじるような動物病院は、年に二千人もいない新卒獣医師を新たに雇うことは叶わない。
公務員に成ったり企業に職を求める堅実な獣医師を差し引けば、小動物診療に進む人間の数などたかが知れている。
ある意味小動物診療の世界は新卒獣医師にとっては売り手市場なのだ。
代診という身分はあくまで修業中のそれである。
就職した社会人というより、まだ修学途上の学生という気分の方が強い場合が多い。
現にこの僕がそうだった。
多くの獣医仲間に尋ねても、代診時代の意識は皆似たり寄ったりだ。
院長は研究室の教授みたいなものだった。
仕事だって雑用を含めて、学校時代と大差が違いがあるようには思えなかった。
院長と代診というのは、実は大きな錯覚と誤解で成り立っている関係性だった。
大学の研究室的なノリは院長と代診の共同幻想に過ぎない。
けれどもそしたノリは、双方にとって何かと都合が良かったのだと思う。
僕がとも動物病院で修行していた昭和は、真に牧歌的時代だったのだと思う。
雇用被雇用の線引きは、法を無視してあえてうやむやにされた。
なんとなれば、代診のしでかした失敗の責任は全面的に院長が被った。
そのかわり院長は格安で、学位持ちの有資格者をこき使うことができたのだ。
昭和当時の実情をわきまえぬ正論をあえて語ればこうなる。
代診は獣医師免許を持って仕事をし対価を受け取っている以上、自らの失敗は自ら責任を負わなければならない。
同様に院長は有資格者に責任ある仕事をさせる以上、その責任に見合った額の報酬を支払うべきだった。
でもそれはあくまで、昭和時代の業界に限定して考えて見れば、実情から外れた正論に過ぎないと言えよう。
代診は修業年限が短い(長くて三四年)ので、昇給による財政的負担の心配があまりない。
あの当時、社会保険や健康保険の加入すらしていない。
それが代診の実体だったろう。
僕自身昭和の代診だったが、とも動物病院に居る頃ですら厚生年金はおろか国民年金にも加入していなかった。
健康保険については父の扶養家族として登録されていたはずだ。
ありていに言えば法的にはただのプー太郎と言うのが、僕の代診としての社会的身分だった。
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