あいつ 5

 「加納先生、始めるよ」

処置台の上には、鎮静剤を注射されて動きの止まったあいつが横たわっていた。

ともさんは、先端に留置針の外筒を取り付けた生理食塩水入りの注射器手にしていた。

ポリエチレンでできた針ほどの太さの外筒をペニスの先端から差しいれた。

そうしてゆっくりと静かに尿道の洗浄=フラッシュを始めた。

いつもならば少しの抵抗の後に、すっと注射器の内筒が押される。

それは尿道に詰まった結晶が洗い流される証だった。

専門的には尿道の閉塞が解除された言える状態だった。

ところが今回はどうも巧くいかない。

「駄目だな。

生食が入っていかない。

まんま逆流してきてるな」

それでもともさんはあくまで冷静だ。

ともさんはしばらくの間フラッシュを続けたが尿道の再疎通は叶わなかった。

これでは尿道カテーテルの挿入と留置ができない。

「やはり入らんな。

膨大部の奥で詰まってるんだろう。

切るか」

ともさんは独り言のように考えを口にした。

今ともさんの頭の中では現状で考えられる方法論の取捨選択が行われている。

利害得失を考えた上での最良解が導き出されようとしていた。

「とりあえず膀胱穿刺で減圧して様子見って訳にはいきませんか」

まるで自分が手術を受ける当事者であるかの様に、僕は心臓の動悸を高め指先を震わせていた。

「尿閉が起きてからの時間経過が、ちと長いな。

触診して分かるだろ?

この膀胱の大きさと張り具合からするとアトニーも起きてるな。

この分じゃ中で結構出血もしてるはずだよ。

にゃんたは苦しむし命を落とす可能性も高い」

「手術だけは何とか成りませんか」

僕は必死の思いで懇願し、ともさんのお慈悲に縋った。

ともさんは怪訝そうな顔で僕を見た。

いつもなら、やたらと切りましょう切りましょうと、手術をせがむ僕なのだ。

それをむしろたしなめる側に回るのがともさんだったからだ。

「加納先生。

にゃんたさんの事を心配して下さってありがとうございます。

でも、とも先生が手術とおしゃるのなら、手術をしていただきます。

とも先生どうぞよろしくお願いします」

るいさんは再び目に涙をため、声を震わせながらも凛とした表情を僕らに向けた。

健気で儚げでおまけに美しかった。


『違うんだよ~。

お嬢ちゃん~。

尿道瘻の設置術には去勢がもれなくセットになってるんだよ~。

去勢しちまったらにゃんたが喧嘩しなくなっちまうかも知れねぇ~じゃねぇ~か~。

そうなったらイージーな儲けが不意になっちまうんだよ~。

にゃんたはうちの優秀なテロ担当エージェントなんだよ~』


 僕はこの内心の叫びを恥じた。

 恥じましたよ?

 ええ、恥じましたとも。

 恥じましたけどね。

 目の前が真っ暗になっていくのを止めることはできませんでしたね。

 

関連診療まで含めればだよ。

とも動物病院の売り上げの、実に19.17パーセントが失われようとしていたんだぜ。

そりゃ、あいつがもたらしてくれるマッチポンプ的祝祭が、永遠に続くとは思っていなかったさ。

けれどもだけどそれでも、とも動物病院の経理担当としてはですヨ。

嘘偽りのない、まっ正直な貧乏人の了見としてはですヨ。

目先の確かな利益だけがただひたすらに愛おしかったんス。


 「加納先生。

ここはお前さんまでが涙ぐむところじゃなかろう。

ぼんやりしてないで、手術の準備を始めるよ。

るいさん。

それではこれから緊急手術を始めます。

手順はさっきお話しした通りです。

手術が終わりましたらすぐお電話差し上げますからね。

お家でしばらくお待ちください」

ともさんは任せておきなさいと胸を叩いた。

 ともさんはるいさんを見送った後僕に囁いた。

「パイよ。

特別に膀胱の穿刺減圧やらせてあげるからね。

あれ、元気ないね。

それじゃ、ここらで一発造瘻術もやらせてあげよう。

そろそろと思ってたんだけどね。

調度いい機会だしさ。

ただし、るいさんには内緒だよ」

「ほ、ほんとうですか。

ありがとうございます。

僕、一生懸命やりますから。

手順はもちろん頭に入ってます!」

「少しは元気出たか?

でもどうしてさっきは、あんなに手術に反対したんだ。

いつものパイなら大喜びで賛成するところなのに」

ともさんはこの手術の結果がとも動物病院に招くかもしれない事態を、全く理解していなかった。

ともさんは正真正銘、本物の善人だったのかもしれない。

 朝(あした)に令して暮れに改むるではないが、我ながら現金なものだ。

尿道瘻設置の手術をやらせてもらえるとなればだ。

なんだか急にお金の問題などどうでもよい事のように思えてきた。

考えがコロッと変わった。

「ともさんはご存じなくてもよいことです。

いつか宝くじにでも当たったらお話しします。

さあ、とっととオペに掛かりましょう。

一刻も早くるいさんを安心させて差し上げねば」


『どうせあいつが活躍を始める前と同じ状況になるだけだし。

どうころんでも貧乏な病院であることに違いはないのだし。

薬屋さんには牛丼並盛接待でもしてまた支払いを待ってもらおう。

・・・だし』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る