あいつ 5
涙さんはまた泣いていた。
初対面の時と同様に。
るいさんが胸に抱え込んだバスケットの中にはにゃんたが詰まっていた。
ところが今度は、鋭い眼差しをこちらに向けるどころか。
どんよりとしたいかにも健康に不都合がありげな表情で固まっていた。
「昼過ぎからあまり元気がなかったのです。
八時を過ぎてからはトイレにしゃがみっぱなしでうなり声をあげて力むのです。
だけどうんちもおしっこも出なくて。
これは大変って、すぐに連れてきたのです。
けれども誰もいらっしゃらなくって」
涙さんの目と鼻は真っ赤だった。
今とは違って携帯もスマホもない時代だった。
病院の中はすっかり冷え切っていた。
急いで暖房を入れて診察台の上にバスケットを乗せた。
満ち足りたほろ酔い気分は一瞬で消えた。
ともさんと僕は先を争うように白衣を身に纏った。
異常を察知したスキッパーも慌てて奥から飛び出してきた。
ともさんはあいつをバスケットから抱き上げると診察台の上にそっと乗せた。
真っ先に下腹部の触診を行い尻尾を持ち上げて局所を観察した。
「尿閉だ。
パイよ、鎮静かけて一応カテーテル留置の準備をしといて。
俺はフラッシュの用意をする」
僕は速やかに鎮静剤の注射をすると奥に引っ込んだ。
ロッカーから尿道カテーテル留置用施術セットの滅菌パックを取り出した。
ともさんは診察室でフラッシュに使う機材を揃えながら涙さんに説明を始めていた。
「にゃんたは今おしっこが出なくて苦しんでいます。
膀胱にできた砂粒より更に細かい結晶の粒が、ペニスの先端近くの尿道を詰まらせたのです。
猫の尿道はペニスの元より先の方が細いのですが、その細くなった部分に結晶の粒が詰まったのです。
それでおしっこが出なくなりました。
これからその結晶を水の圧力で洗い流してやります。
フラッシュと言いますがこれが巧くいけば、またおしっこが出るようになります。
出始めたおしっこを分析してみて、またすぐに詰まりそうなら。
今加納先生が準備している管をペニスの先から膀胱まで入れます。
そのまま管のはじを皮膚に縫いつけて何日か様子を見ることに成ります。
フラッシュが巧くいかずカテーテルも入らない。
そんな最悪の事態に到った場合。
尿道をペニスの先端から太い部分まで切り開いて、尿道瘻というものをこしらえる手術をします。
術後、外見は雌のようになってしまいますが、こうすればおしっこ詰まりは起き難くなります。
おしっこは出るようになりますが、今度は膀胱炎になり易くなってしまいます。
尿道瘻の設置はどうしてもカテーテルが入らない時。
最後の最後に取る手段です」
これはともさんの特技の一つなのだけれどね。
ともさんが病状や処置の説明を飼い主さんに始める。
すると皆さんほぼ例外なく、ほっとしたような安心顔になる。
僕の説明ではこうはいかない。
時として飼い主さんが猛烈に不安そうな顔をなさる。
ここでもまた。
ともさんと僕の臨床獣医師としての格の差を自覚させられることしきりだ。
ともさんの説明を聞いて、涙さんも落ち着ちつきを取り戻した。
時々せぐりあげながらもぽつりぽつりと質問を始めていた。
人格に厚みがあるせいなのか。
専門に対する揺るぎのない自信がそうさせるのか。
ともさんが飼い主さんから寄せられる信頼度の高さ。
それは、ともさんが獣医師としてのライトスタッフを持っている。
そのことの何より確かな証になっていたろう。
僕は今でもそう思っている。
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