ジョディの災難 1

 北風の強い冬の夜のことだった。

「もう定時になったし病院を閉めようか」

スキッパーにお伺いを立てた矢先のことだった。

スキッパーはヒーターの前に陣取って、気持ち良さそうにうつらうつらしていた。

それでも僕の声は届いていたのだろう。

気のない様子で尻尾を軽く振って見せた。

ともさんはと言えば椅子の上で胡座をかき、つまらなそうに新聞を読んでいた。

 

 「先生、うちのジョディちゃんの手が大変なんです」

四十がらみの夫婦者らしき男女が、かなりあわてた様子で病院に飛び込んできた。

ふたりの後から、十歳くらいの小柄な少女が後を追って入ってきた。

少女は寒さでそうなったというより、心配のあまりだろうか。

強張った表情を小さな顔に張り付けて、微かに震えていた。

「こちらは初めての方ですね。

カルテを作りながらお話を聞きましょう」

ともさんは新聞を丁寧に畳んでから立ち上がった。

新しいカルテの綴りを取り出して僕に渡し、自分は診察台の前に立った。

こんな時、どんなに飼い主さんが焦っていても、ともさんは決してあわてない。

動作がキビキビと倍速になるだけだ。

僕はお連れのご婦人から、新規クライアントと患畜の基礎情報聴取を始めた。

これは代診の仕事だ。

 ともさんに促されて、少し長めの髪に神経質そうな目をした長身の男性が前に出た。

三人が家族なら男性は少女の父親だろう。

男性は胸に抱いていたシーズーの右前肢に触れながら早口で説明を始めた。

「きょう会社から帰ったら、ジョディの右足がこんなに腫れていて。

おまけにひどく痛がっていたんです」

なるほど、あらためて良く見ると、シーズーの右前足が変だった。

人なら手首に当たる部位から先が、左と比べるとかなり腫れあがって、グローブの様になっていた。

「昨日から今日に掛けて何か思い当たる節はありますか」

ともさんはじっと患部を観察しながら尋ねた。

「昨夜は気づきませんでした。

今朝もこんな風に腫れあがっているということはありませんでした。

足を捻ったり、うっかり踏んだなんてこともないはずですし。

うちの奴はずっと家に居るのですぐに分かったはずなんですが。

いつもぼんやりしていて」

長身の男性、つまり夫は、僕がお話ししてるご婦人、つまり妻を、非難がましい目で睨み付けた。

ご婦人はおとなしそうな人だった。

消え入りそうな声で「スミマセン」と一言発して頭を下げ、そのまま目を伏せた。

その「スミマセン」の一言はいらない一言だと思った。

何よりその一言が誰に向かった一言なのかが、僕には良く分からなかった。

ふたりの後からついてきた少女は娘さんだろう。

母親の様子を見てさっきとは違ったきつい表情を父親に向けた。

夫婦関係と親子関係が透けて見えるような寸劇だった。

 「そうですか、まあそれはそれで良いでしょう。

ちょっと触ってみますね」

ともさんはジョディの右前肢に手を伸ばしそっと触れた。

そして肩から先端に向けて少しずつ撫でるようにしながら探っていった。

腫れ上がった手掌部の付け根である手根部に触ると、ジョディは痛そうな声を上げて啼いた。

「ああ、ジョディ。

ここが痛いんだね」

男性は悲鳴に狼狽え、顔を歪めるとジョディを抱きしめた。

「加納先生、ジョディを保定して。

さあちょっとジョディをお借りしますよ」

ともさんは飼い主さんの前では、当然のことながら僕のことをパイとは呼ばない。

「はい」

僕は所定の記載を終えたカルテを診察台の隅に置き、男性からジョディを受け取った。

僕は診察台の上でジョディの首に左の二の腕を絡めた。

そうしてちょうど羽交い締めのような要領でジョディの体を固定した。

首が締まらない程度の力でジョディを胸に抱き、右の上腕を緩やかに握ってともさんの方に突きだした。

「上出来」

これはともさんの僕への誉め言葉。

「そっと優しくね」

これは飼い主さんへの配慮。

「うん、これは縛創ですね」

ともさんは頷きながらご主人ににっこりと笑いかけた。

「ばくそう・・・ですか?」

ご主人が聞きなれない言葉を耳にして、ひどく不安そうな表情をともさんに向けた。

ともさんは、外科用の先の尖ったはさみと止血鉗子を用意すると、僕に簡潔な指示を出した。

「縛縄を切る。

ちょっと痛がるかもしれないからしっかり保定してくれ」

ともさんはジョディの手根部の被毛を掻き分け何かを鉗子でつまむと、素早くはさみを入れた。

ジョディは一声啼いただけで格別の抵抗もせず、健気にもぱたぱたと尻尾を振って、保定している僕の腕を舐めようとした。

鉗子の先には切れて一本のひも状になった輪ゴムがつままれていた。

「輪ゴムですか」

ご主人は怪訝そうな声で言った。

「そうです。

輪ゴムです。

どういう訳か手首のすこし上に輪ゴムが巻き付いて、皮膚を破るほどに食い込んでしまったんですね。

それで足の先の血の巡りが悪くなって、こうして膨れてしまった訳です。

こういう傷を縛創と言うのですが・・・」

ともさんがそこまで説明しかけると、ご主人が話を遮りまるで詰問するかのように口を開いた。

「どうしてそのようなことが起きるんですか」

「まあ、原因で多いのは子供のいたずらとかですけど・・・」

ご主人はまたもやともさんの話を遮って、今度は娘さんの方を振り返りざま声をあらげた。

「あすか。

お前がやったのか」

今までジョディを心配そうに見ていた少女は、父親からうけた突然の詰問に一瞬驚いたようだった。

だがすぐにきっぱりと自分に掛かった嫌疑を否定した。

「私は知らない」

「お前以外に誰が居る」

色を成して怒気をあげる父親を制して、ともさんは落着きなさいと自分に注意を向けさせた。

「まあ待ってください。

お嬢ちゃんは左利き?」

大柄なともさんが少し身をかがめて、寅さんスマイルで娘さんに尋ねた。

「いいえ、私は右利きです」

娘さんは、しっかりとともさんの方を見て、物怖じしないはっきりとした口調で答えた。年の割には聡明そうな少女だった。

「そうですか。

お父さん。

娘さんが犯人と決めつけるのは無理があるようですよ。

お父さんも右利きですか。

そうしたら、ジョディをだっこしてもし輪ゴムをはめるなら、右と左どちらの足がやり易いか、試しにご自分でやってみてください」

 僕がジョディを御主人に手渡すと、少し困惑気味ながら自分の左手でまず左足を掴み、次に右足を掴んだ。

「左足のほうがやり易そうですね」

「と言うことは、お嬢さんがもし犯人だとすればいかがです?

お嬢さんは右利きなのですから、今お父さんがご自分で確認されてお分かりの通り、輪ゴムが右の足にはまっていては不自然ではありませんか」

父親は自分のあまりに短兵急な態度を恥じたのか、心持ち目を伏せてそれ以上何かを言い募ろうとはしなかった。

驚いたことに父親は、その場ですぐ娘さんに謝ろうとはしなかった。

娘さんは憮然とした様子で、怒りのこもった眼差しを父親に向けた。

しかしそれでも直接声に出して抗議をすることは無かった。

 終始印象的だったのはむしろ母親の方だった。

ことの一部始終を近くで見ていたのにも関わらず、父親を諫めるでも娘さんに声をかけるでもなく。

じっと俯いたままひとり沈黙を守り通した。

「さあ、加納先生。

ジョディに抗生剤と消炎剤の注射をするから準備して」

ともさんは僕に治療の指示をすると、不安げな親子の方を向いて、にこやかに話しかけた。

僕はその時、三人の不安の理由はそれぞれ違う。

それこそ三者三様の別々のものではないかと、ふと思った。

「痛みが取れて化膿さえしなければ、心配はいらないと思いますよ。

じき腫れも引きますし、この程度なら傷を縫う必要も無いでしょう。

経過を見ますから、また明日来てくださいね」


 



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