第2話 大敗、そして手紙

天文二十三年(一五五四年)八月 若狭国 後瀬山城 武田氏館


 俺がこの世界に『戻って』きてから二年が過ぎた。お陰で俺も自らの足で歩けるようになっている。


「若様。どうかなさったのですか。俯いて浮かない顔をして」


 俺の傅役である熊谷伝左衛門直澄がこちらを伺いながらそう告げた。伝左衛門は若狭武田の四老の一角、宿老の熊谷氏の出だ。


 現当主である熊谷直之の嫡男に当たるとのこと。俺よりも十五は年上だろう。しかし、背はそれほど高くなく二十手前にしては小柄な優しそうな男であった。


 いや、伝左衛門——長いので今後は伝左と呼ぶことにする——が小柄なのではない。この時代の日本人が小柄なのだ。おそらくは食生活の問題だろう。


 俺が無言で呆けていると伝左は何も言わず、ただただ俺のことを待ってくれた。

 最も信頼できる家臣の子だからと父上が引き立てたのだ。そんな伝左に一言、ムスッとした顔でこう伝えた。


「いや、別に」


 まさか転生したのが若狭の武田だったとは。そう告げることも出来ず、俺は言葉を濁した。

 何故どちらにも内藤が居るのだ。それだけではない、山県もこちらに居るのだ。山県孫三郎と山県源内が。


 向こうは名高き武田四天王、こちらは聞いたことのなかった武田四老である。

 向こうは甲斐や信濃を手中に収め、五十万石を超える大大名だ。対して我が若狭武田は若狭一国の八万石ほど。


 しかも甲斐武田とは違い、領地も家臣が安定しておらんのだ。どういうことかと言うと、守護である我ら武田家に対し、敵対心がめらめらということだ。


 辛うじて小浜は抑えてあるものの、それだけに過ぎん。祖父や父が動かせるのなぞ、良くて三万石、兵数にして五百とかだろう。他は国人衆を従えねばならん。


 自分で治めている直轄領は若狭の半分にも満たないのだ。甲斐の武田は一致団結しているのに、こちらは家中の統制すら取れていない。溜息しか出んわ。


 そして最悪なことに若狭武田氏は確か一五七〇年には朝倉に追われ既に若狭から追い出されていた筈。


 つまり、俺に残された猶予は残り十五年もないということになる。これは一年も無駄にすることは出来ないぞ。

 だと言うのに俺は未だ数えで三歳。何もすることが出来ない。ああ、歯痒い。


 こんな意気消沈な俺を見かねた伝左がどうにかご機嫌を取ろうと思案しながら右往左往していたところ、一人の騎馬武者が居城である後瀬山城に飛び込んできた。背中には母衣を背負い、ところどころ矢も刺さっている。


「御注進! 御注進でございまする!」


 ただ一騎、必死の形相で駆け込んできたところから察するに、どうやら良くない報告のようだ。

 伝左もそれを察したのだろう。俺に「失礼しまする」と一言、断りを入れてから武者の後を追った。


 どうせ、敗走の報だろう。そう思って庭の石に腰掛け、伝左が戻ってくるのを待つ。すると、庭にまで響く大きな声が屋内から漏れてきた。


「お味方、総崩れにございまする!!」

「なんと!」


 騎馬武者の報を聞いて驚きの声も上がる。俺としてはさもありなんという気持ちだ。

 さて、今回の派兵について少し考えてみる。


 どうやら細川晴元の要請で祖父である武田信豊が重臣である逸見昌経を丹波国に出兵させた。そして三好と戦になり、これに敗れたらしい。ただの負けではない。大敗だ。


 三好方の武将はあの松永だったとか。と言っても、松永弾正ではなく弟の松永(備前守)長頼ではあるが。

 どちらにしても負けたのだから、兄弟揃って戦上手なのだろう。いや、若狭武田が弱いだけかもしれない。


 一番の原因は三好を侮っていたことだと俺は考えている。俺は三好筑前守が日本の副王と称されることを知っている。未来から来ているからな。筑前守はそこまで上り詰めるのだ。しかし、他の人間から見たら違う。


 所詮三好は将軍足利家の家臣である管領細川家の家臣。足利からすれば家臣の家臣つまり陪臣でしかないのだ。それが歯向かってきた。まあ、我々は侮るし引くに引けないわな。


 素直な意見を言うならお祖父様には派兵しないで欲しかった。足利義輝がいくら息子の嫁の兄とは言え、俺の伯父とは言え勝ち目のない戦に加わるのは馬鹿げている。義侠心ではなく実利で兵を出すべきだったのだ。


 この後、若狭は内乱が多発するだろう。無能な君主に従う国衆はそう多くない。親子で争い、兄弟で争い、主従で争う。逸見昌経もお祖父やお父上を恨むだろうな。そして俺まで恨むのだ。


 残念ではあるが、お祖父様は有能ではないようだ。そのツケが巡り巡って滅亡へ向かってしまったのだろう。連歌に現を抜かし過ぎなのだ。


 どうしよう。このままだと滅亡まっしぐらだ。どこかで対策を練らなければ。しかし、何が出来ると言うのだろうか。三歳の稚児に。この身体では弓引くことすら出来ぬと言うのに。

 

 ただ幸いなことに、伝手だけは豊富にあるのが若狭武田である。まず、先程の話からも分かる通り、俺の母親は将軍足利家の妹である。つまり、俺の伯父は第十三代目の征夷大将軍である足利義輝なのだ。


 そして祖母は名君と呼ばれた六角定頼の娘だ。六角定頼は残念ながら亡くなってしまったが、息子の義賢も暗愚ではない。頼りになる存在である。公家にも伝手はある。


 関白。そして太政大臣であった近衛尚通の次男に曾祖父にあたる武田元光の娘が嫁いでいる。お祖父の妹だ。確か今は久我家を継いでいるはずだ。


 近衛という摂家には劣るが清華家も十分な家格だと思う。しかも源氏長者だと言う。今は家督を息子。つまり父の従弟が継いでいるようだ。公家とも良好な関係を築くことが出来るだろう。


 残念なことなのは三好氏とは敵対関係にあることである。そうなってしまった。なので、三好やら松永やらが若狭に攻めてくるのには困りものだ。これは防がねばならない。いや、いっそ傘下に加わるのも有りだ。


 そうなると俺に出来ることは、この武田の伝手の中から誰かに粉をかけ、俺の仲間にしなければならない。武田家のではなく、俺の仲間である。俺を補佐する人材、いや人財は必要だ。


 伝左と歩きながら考えを纏めていく。有能な家臣でかつ、冷遇されている人物か。

 まだ見出されていない人物を重用するか。それとも既に有能な人物と仲良くするか。


 六角家の蒲生は有能だと聞く。彼らとは仲良くしたいがまだ難しいだろう。足利に仕えている細川藤孝も同じだ。他に誰か居たか。そこで閃く。


「伝左衛門、文を書け。そして、それを届けてきてくれ」

「は、文でございますか?」


 そこで、俺はある人物に白羽の矢を立てた。有能で、俺を補佐してくれるであろう人物に。

 善は急げと伝左に文を認めさせた。俺はまだ字が書けない。この時代の日本語は癖が強すぎる。読むことすら難しい。同じ日本語なのに。


「大伯母上に文を書いて送って欲しい」

「牧さま、にございますな。承知仕りました。して、文の内容は?」

「一度、遊びに来て色々と話を伺いたいと」


 大伯母上である牧の方だ。つまり、祖父である武田信豊の姉にあたる。先程の久我家に嫁いだ娘の姉だ。嫁ぎ先は明智。そう、あの明智十兵衛光秀の母なのだ。


 いや、なんかおかしいなと思っていたんだよ。史実では俺の父の姉ということになっているが、それだと今でも二十六、七である。十兵衛と同い年になってしまうではないか。これでは辻褄が合わない。


 だが、実際は父ではなく祖父の姉だった。どこかで資料が錯綜してしまったのだろう。

 昔のことだし、致し方ないことだ。悲しいかな、戦国時代の女性の情報はそう多く残っていない。

 

 ここで俺は明智十兵衛を口説く。彼が味方になってくれたらどれだけ心強いことだろうか。

 こうしている間にも若狭武田を取り巻く状況は刻一刻と悪化している。どうも重臣である粟屋が燻り始めているのだ。逸見もこの戦で主君の武田に猜疑心を抱くだろう。


 祖父と父の仲も次第に悪くなっており、俺も気が気ではない。

 なんで若狭の武田なのか。今でも悔やまれる。ああ、これが甲斐の武田だったらなぁ。


【補足】


本作品は、安芸武田氏は甲斐武田氏5代武田信光の時代の1221年に起こった承久の乱の戦功によって鎌倉幕府より安芸守護に任じられたことから始まる。


若狭武田氏は安芸武田氏4代武田信繁の嫡男である武田信栄が、室町幕府第6代将軍・足利義教の命を受けて1440年に一色義貫を誅殺した功績により若狭守護職を任命されたことによって始まる。


という説をもとに、甲斐武田の傍流の安芸武田の傍流の若狭武田と位置付けております。


・―・―・―・―・―・―・

【現在の状況】


武田孫犬丸 三歳(数え年)


家臣:熊谷伝左衛門

装備:なし

地位:若狭武田家嫡男

領地:なし

特産:なし

推奨:なし

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