5話 あなただけ見つめてる⑥ 天使降臨

喉からせり上がる液体。

何だか滑っとしている気がする。それに泥の味がして、そしてゴミ溜めみたいな匂いが口に充満している。

胃が動いている。それらを吐き出せと命じている。

吐き出した途端、意識が目覚める。

突然引っ掻かれた痛みが顔中に走る。じわじわと痛さが熱になって皮膚に襲い掛かる。

何事か、と瞼を開いたとき、こちらを見下ろすように見つめる黒猫の姿が視界に入った。


……——僕は瞼を開けた。

最悪の目覚めだった。

溺れ死ぬはずだった僕——日高仭。

屋根が合って、背中が少々窮屈だ。

どうやらベンチの上で寝そべっていたようだ。

ぬるりと僕の顔を覗く萌芽の顔。泣きべそ掻いたようで、目元がとても赤い。

「仭君……大丈夫?」

僕は、コクリと頷いた。

泣き始めた萌芽を他所に黒猫が去ろうとする。

助けてやったのに、無礼講だな。

キャッツならぬ、彼奴のせめてもの優しさが、あの引っ掻きなのだろう。

早く目覚めろ、この間抜け。まるでそう主張するかのように。

僕は大丈夫、そう適当に答えた。

「良かったあ、ほんとに無事で」

雨はすっかり止んでいた。

彼女の言葉がトリガーとなり、黒き翼が僕を包み込むように抱き締めようとする。

畏怖すら覚えるそれに、僕の体が強張った。


——黒い翼がふと、停止した。


「……?」

「痛っ!」

と、萌芽は肩を抑えて声を上げた。

「なんか、右肩だけずっと重いんだけど何なんだろ」

僕は驚愕し、そして信じられない光景に、心を持っていかれた。


——人間の形をした、翼を生やしたそれ。

それが黒い翼を手で掴み上げ、僕へ向かないようにしていた。


それは一体なんの存在なのだろうか。

それは果たして生物なのだろうか。

それはやはり、死にかけた僕を迎えに来たのだろうか。

それは幻覚なのだろうか。

それは僕に視線をずっと送り続けている。

それは自身の存在を見せつけるかの如く、僕の瞳を奪っていた。


僕はそれを見たことがあった。そんな気がした。


それは特徴を言えば、真っ白だった。

輪郭も危うく溶けているように見える。矛盾した表現を使うが、透き通っていて不透明である。そう、硝子を見ているかのようだ。

それの衣装は、ウェディングドレスみたいな感じがして、裾の部分が風船のように膨らんでいる。

人形のような目鼻立ちがくっきりとした顔。

絵画の美女性が、額から飛び出してきたような人だ。

そして極めつけは、頭上に浮かぶ光輪である。

それから連想されることは、僕の中では一つしかない。


——天使。


僕はポツリ、と発した。

その時、白い天使が笑ったように見えたのは気のせいだろうか。

だが、黒い翼から手を離した。

きっとそうだ。

萌芽が肩を回して、軽くなったアピールをしている。


知りたくも無かったこと。

僕の見解は正しかった。

黒い翼は萌芽の物だった。

まだ謎は多いが、恐らく合っている。

後は萌芽を強姦未遂しようとした奴らに、何故黒い翼が生えたのかを探るだけだ。


『僕が教えてあげようか』


白い天使はそう言って笑った。

僕は上の空を見上げた。

白い天使は居なくなっていた。

刹那、僕の脳にある——海馬に情報が刻み込まれていく。


〈夜に咲く花の園で待っているよ〉


確かに聞こえたその言葉を、僕は心の中で繰り返し詠唱する。

僕の挙動が怪しかったか、萌芽は訊ねた。

「仭君?」

「えっ? ああ、うん。どうした?」

「いや、ごめん。何でもないよ」

黒い翼が僕を威嚇するように、大きく翻した。


幻覚であってもいい。

僕の精神が捻じれて、そのせいでこんなのが見えているのかもしれない。

絵空事でもいい。

でも構わない。


ただこの現実は、僕の胸をどこか躍らせていた。

植物のように静かな生活を求めていた僕が壊れて瞬間だった。

黒猫はその始まりを告げるように、ニャー! と叫びを上げたのだった。

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