4話 あなただけ見つめてる④ 蒼と黒と水と……

仮病を初めて使って学校を休んだ日。

家に居ても、何か落ち着かなくて、外へ出た。

河川敷にあるベンチに座り、僕は呆然と川を見ていた。

天気予報では午後から雨が降るらしいが、今はそれを予期させないほど清々しい晴れだ。

僕の心はどんよりとした雲が続いているのに。

何とも言えない心地でいた。

僕には静かな平穏を過ごす——それは植物のように呼吸をして、ひっそりと暮らすことが、僕にとっての生きる目的でもあった。

ところがどっこい。僕には見えてしまった。

——凄まじき漆黒の翼を。

それだけではなかった。

閑散とした河川敷。二匹の雀がチュンチュンと啼く光景がなんとも微笑ましい。

それが僕がいつも見ていたはずの街の姿だったはずだ。


——二匹の雀を飲み込もうとする蒼い影。

蒼い影の特徴を言うと、狼に似ている。犬とは言えない鋭い牙が口から出ていて、今にも食い千切りそうな気配がある。体に皮膚と言う概念はなく、体が水のように流動的でさながら波うちを思わせる。何かで読んだ本から、そいつの体の特徴にあった名詞をとってこれからそいつを”滄浪”とでも呼ぼうか。名がある方が、この異常に早く慣れそうな気がしたからだ。

滄浪が僕のことに気づいたようだ。

僕のことをじっと見つめている。僕の腹の内でも探ろうとでもしているのか。

未知の生き物との邂逅。

これほど緊張感が漂うことがあるだろうか。研究者がとんでもないものを見つけた時の感動とは、嬉しさよりも興奮よりも先に、常識が覆るかもしれない緊張感なのだと、何かで見たことがあるが、まさしくそれに近いことだった。

滄浪はそっぽを向き、足元にいる雀に唾を掛けた。

雀の様子が可笑しい。何かに違和感を感じたのか、雀の一匹が気もそぞろになると、突然口から細かな泡を吹いてバタリを倒れた。そして体が膨張を始めて、破水を始めた。それはまるで溺死したように。

僕には鳥の表情は分からない。

隣にいた鳥が後退して、すぐさま空を飛んだ姿を見て、ようやっとそいつの恐ろしさを感じさせられることになった。

死んだ雀が溺死したのは奴の仕業である、と。

……滄浪がこちらへと近づいてくる。

何をしようにも手段は無い。逃げようとしても恐らく奴ならば、僕の想像を超えることをやってのけて見せるのだろう。

あれ? 確かに焦っているのだが、不思議と落ち着いてもいた。

「…………」

滄浪は足を止めた。そして何かを見つめる。

見つめる先は僕ではない。

もっと別の何かであり、目線としては僕の背後——振り返ると、そこには制服姿の萌芽がいた。

あれだけ獣の風格を見せていた滄浪が、負け犬のように怯えると、その見ているものに遠吠えしながら川の中へと飛び込んでいった。

水のように体が流動だからか、川と同化したようだ。

もう姿は見えなくなっていた。

その時だけは、僕は滄浪と同じ気持ちだった。


蠢く黒い翼は今も顕在している。

力が衰えることを見せず、主を守る——萌芽の体躯を覆い尽くす鎧のようである。

天気が曇り始めて、ふいに僕の鼻先に水が落ちた瞬間、一気に雨が降り始めた。

萌芽は僕の元へ駆けつけて、自分と僕に傘をさした。

「濡れちゃうよ! 大丈夫?」

いつものように話しかけてくれる萌芽。

だからこそ、この翼が不気味であり、僕の心に罪悪感が芽生えるのだ。

彼女には見えていないようだが。

「ああ、うん。ありがと」

「なんで今日、学校に来なかったの?」

「……へへ。気分が乗らんくてな」

本当はお前のせいだ、とは口が裂けても言えない。

風も強くなって、雨が肌に突き刺さり、僕の体に寒さを覚えさせる。

「もう帰ろう? ほんとに風邪ひいちゃう。仭君には狭いかもだけど、一緒に入ろ」

僕がベンチから立ち上がった時、何故か横から来る雨がなくなった。

傘が雨を弾いているから、止んだのではない。

目の前に現れた黒い翼が、僕に降りかかる雨を防いだのだ。

唖然とした僕の背中に、萌芽は愉悦に満ちた顔で「それじゃ行こうか」、と言った。

彼女の歩幅に合わせて、僕が歩くと、漆黒の翼も動き始めた。

まるで胎動しているかのような生命を翼から感じる。何十枚何百枚もの羽から重なって構成されているのが観察できる。

「どこを見てるの?」

「いや、何でもない。今日は気が回らないだけだ」

「それダメでしょ。やっぱり早く家に帰らなきゃ」

「ああ、行こうか」

雨が被らないように翼は僕のための傘になった。

この翼は萌芽の意志を反応しているのか?

まだ謎が多い……。

「やっぱりずっと考え事してる」

強雨になったせいで川が増水している。それを跨ぐように橋が掛けられていて、僕と萌芽はそこを歩いていた。その時、萌芽から言われたのだ。

「そうじゃない。ただ慣れないことをしてるだけだ」

「良かったら、私に教えてほしいな」

純真無垢にそうやって聞いてくる萌芽に申し訳なくなった。

もう何を隠す必要がある。

互いの恥ずかしいことを知っている仲であるのに、今更何を思い悩んでる?

もう悩んでいたことを全部話そう。

きっといつもみたいにラフな感じになるはずだ。

……黒い翼やそれにまつわることは覗いて。


僕は萌芽に告げた。

——萌芽が告白された場面を見て、変な気持ちになっていたこと。

——萌芽がなんで告白をずっと断っているのか。

——それを機に、ちょっと避けていたこと。そのための今日の仮病だったこと。

全部。


萌芽はじっと僕の話を聞いていた。

聞き終えた後、大きなため息をついて、ほっと胸を撫で下ろす姿勢をした。

「良かったぁ……。私、なんか嫌なことしちゃったのかなと思ってて」

「むしろ嫌われるのは僕だ。なんか、避けちゃって」

「ううん。ちゃんと聞けて良かった。なら、お礼に私も教えたげる」

「何を、だ?」

「私がずっと断ってる理由」

何故か、僕は生唾を飲み込んだ。

けれど萌芽はあっけらかんとしていて。

「聞いてるんでしょ。『ずっと好きな人がいる』って言うのは」

僕は黙ってて聞き入る。

「ほんとだよ」

胸の鼓動が高鳴った。

やたら心臓の音がうるさい。

「———」

萌芽の口が開こうとした時である。


ニャー‼‼


猫の鳴き声が聞こえた。

この強雨をも一瞬でも掻き消す猫の……悲鳴。

僕が反応して、萌芽が遅れて反応した。

橋の下を覗いてみると、この前の黒猫が川の中に落っこちて溺れかけていた。

流れが急だから、猫の行方は橋の下を通り過ぎていく。

僕の体は脳よりも早く動いていた。

「仭君⁉」

僕は川に沿って走った。

常に視界には、増水した川の流れに抗えないでいる黒猫を捉えている。

走りながら、猫の救助に使えないか見るが、RPGでもない限りそんなものが都合よく存在する訳が無い。自分の体が雨に打たれて冷え切っているのに、内から湧き上がる気持ちが抑えられない。


——生物の命を、助けなければ。


義務にも似た使命感が支配していた。

萌芽が後ろから何か声を掛けているようだが、何を言ってるかは聞こえない。

いよいよ猫が水の中へ体が沈んでいこうとしていた。

その瞬間、僕は川の中へ飛び込んだ。

洪水とも言える脅威に、躊躇無く飛び込み、僕は潜ろうと藻掻いた。

黒猫の意識が朦朧としているように見える。

早急に拾い上げて、水面から猫だけ息が出来るように持ち上げる。僕はその後に続いた。

壁に設置された取っ手を掴もうとするが、やはり自然の脅威に抗うことは人には出来ないようで、掴んでも体が流れに持っていかれる。

萌芽の姿が見上げると見えたので、僕は体に残った力を振り絞って、腕に抱えた猫を道の方へと投げた。

萌芽がそれを視認して、宙に浮かぶ猫に駆け寄り、受け止めた。

それを見たのを僕が確認した。

自分の身に受けるこの激流もそうだが、冷え切った体に力が無くなり、意識を途切れさせようとする激流にも飲み込まれそうになる。

ああ……なんか死にそうだな。

浮力が効かなくなって、僕の体は水中に引きずり込まれた。


朦朧とする意識。

このまま水の中へ落ちていく。

この人生に未練が無いかと言われれば、最後に萌芽が何を言おうとしたのか、御幸の馬鹿が何をしているのか、気になった。

僕の意識が、切れそうな糸のようにか細くなったその時。

僕の手を引く何かが居た。


手を触れられた……それは手であって、人間のような温かみは無かった。

生温い感触が、不思議と心地よかった。

最後に耳元に囁いた。


——見ぃつけた。


聞いたことのない声だが、何故か懐かしく感じられた。

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