第4話
ギタークラブの方は相変わらず部員二名のままで、秋が過ぎ、京都らしい寒い冬を迎えようとしていた。そして、その年最後の金曜日のこと。
「あのさ、中村くん、曲を作ったんだけど、聞いてくれるかな」
金剛寺さんが自分から新曲を発表するのは、初めてだった。
「はい、どうぞ」
と僕が言うと、金剛寺さんは前置きなく歌い始めた。
ボクは きの~う
ボクは 失恋した
とってもショックさ
だけど だけど……
恋にやぶれた男が一人
便器にしゃがんで泣いている
「……こんなんだけど」
じつにわかりやすい曲で、これから話を聞いてほしいというサインでもある。
「え、まさか、金剛寺さん、失恋したんですか?」
「ああ、じつはそうなんだ。そうなんだよ」
話によると、金剛寺さんはギター教室で一緒になる女性にかれこれ二年も想いを寄せていたのだという。
「歳は二八で、看護婦さんで、秋吉久美子みたいなキレイな人でね」
そして先週の日曜日、金剛寺さんとその女性と何人かでフォークピクニックに行くことになった。
「その日のために、僕はいろいろ頑張って準備したね。散髪したり、下着をはき替えたり、スーツ買ったり」
「あの、ピクニックにスーツで行ったんですか?」
「ああ、新品さ」
それから、みんなでギターを弾きながらサンドイッチを食べて、肩を組んで歌って、その帰り道、金剛寺さんは意中の彼女のクルマに乗せてもらうという幸運をつかんだ。しかも二人きり。金剛寺さんは決意した。いま告白するしかないと。
「好きです! ボクとつきあってください」
すると、彼女はハンドルを握りながら無言で首を振ったという。
「いやあ、三時間の帰り道なのに、その五分目で告白しちゃったからね。重かったよ。残りの二時間五五分が」
「……はあ、そうですか」
さて、失恋はどうでもよいのだが、それをきっかけに、金剛寺さんはある決断をしたのだった。
翌週の火曜のこと。社科研は毎週火曜日に活動していたが、こちらも部員は増えないまま週一回の地道な活動を続けていた。
いつもと違う火曜日だ。普段は昼から小屋で寝ている金剛寺さんが、その日は姿がなかった。時間になってぼちぼちメンバーは集まったが、金剛寺さんは一向に現れない。
「えっ、金ちゃん? いるはずよ」
霧子さんは、駐輪場で金剛寺さんのバイクを見たという。
「じゃ、僕が探してきます」
僕には心当たりがあった。失恋から立ち直れぬまま半分死んだようになっていた彼が行くところは、あそこしかない。
「金剛寺さ~ん、いますか?」
案の定、金剛寺さんは講堂の裏でギターを弾いていた。
「どうしたんですか、ミーティング始まりますよ」
金剛寺さんは、僕に目を合わせようとしなかった。
「久しぶりだね。ここで弾くのも懐かしいよ」
冬の寒い日だった。冷たい風が吹き抜けて、ギターを弾く指がかじかんで動いていない。
「じつはね、中村くん」
「はい?」
金剛寺さんは神妙な顔で遠くを見詰めている。この能面のような顔付きは、いつも何かの前兆だ。
「東京にいこうと思う」
「旅行ですか」
「いや」
金剛寺さんは少しムッとした。
「上京だよ。社科研やめるし、大学もやめる。やっとさ、ギターに自分の人生を賭けてみようって気になったんだ。だったら、こんなところにいても駄目だと思うんだ。やっぱり東京に出て本格的に勉強しないとね」
これは冗談ではなかった。この人は、冗談といえばヘタなダジャレしか言えない。どうやら本気でプロのシンガソングライターになる気だ。
「今日みんなにも言うよ。上京するから社科研もやめるって」
「もう決めたんですか」
「ああ、決めた」
僕らはお互い無言のまま、社科研小屋へ戻った。
中に入ると、みんな席について待っていた。
「そいじゃ、始めるか」
「ちょっと待ってください」
金剛寺さんは立ったまま言った。
「なに、また新曲か?」
「それともまた失恋?」
「いえ。本日のミーティングをもって、わたくし金剛寺は社科研をやめさせてもらいます」
「へえ~、なんで?」
霧子さんはいつもの調子だが、他の人たちは驚いている。
「東京に出ようと思うんです」
「なるほどね」
霧子さんは声だけで驚いた。石下さんは笑いをこらえていた。他の人たちは唖然とした。
「そんで、いつ行くの?」
「なるべく早く出ます。もう大学に来るつもりはないから」
「じゃ、一週間以内?」
「え、まあ、そんなくらいかな」
金剛寺さんは上京する日を勝手に決められたようで、ちょっと困った顔をした。
張り詰めた空気のまま沈黙が続いた。五分たって、ようやくリーダーが発言した。
「そうか、よし」
リーダーはガバッと立ち上がった。みんなはリーダーに注目した。
「皆、我らが金剛寺が夢を追って上京するのだ。その勇気ある決意を称えて、いまから壮行会を開こうではないか」
「待って下さい、そんな大袈裟なもんじゃないですから」
「まあまあ、そう遠慮しないで。やるぞ、いまから追い出しコンパだ!」
「賛成、賛成」
「じゃ、どこでする? この小屋は寒いよな。焼き鳥屋に行くか?」
「あたし、お金ない」
「俺も、俺も」
ということで、ゴミ溜めのような金剛寺さんの部屋に六人が入って壮行会となった。
その夜は、僕たちの夜だった。みんなで朝まで語り明かし、金剛寺さんと先輩たちの想い出話に涙が出るほど笑った。特に強烈だった話は、自殺少年のケンカ話と早食いカレー事件である。
「しかしね、この部屋にくると、いつも思い出すんだな」
リーダーはしみじみしてから話し始めた。
「あれはいつだっけ? 金剛寺の友達の家出少年が来たのは」
「二年前ですね。大変でしたよ、あの時」
話によると、二年前のその日、金剛寺さんの田舎の同級生がこの部屋に転がり込んできたという。彼女にフラれたうえに親とケンカしたとかで、強い自殺願望があった。
リーダーと石下さんは一升ビンを持って、その彼を励ましに行ったのだった。励ましに行ったはずが、リーダーは悪酔いして暴れ回り、石下さんは酔い潰れて何度も吐いた。金剛寺さんは、友達と先輩の仲を取り持つので大変だった。
やがて石下さんに急性アルコール中毒の気配が出てきたので、金剛寺さんは石下さんを担いで近所の病院へ走った。たいしたことはなかったから石下さんを病院に置いて、金剛寺さんは部屋に戻った。リーダーが心配だったのである。
「いや~な予感が的中したね。アパートに戻って、部屋のドアを開けたらさ、もう大変、リーダーと僕の友達が殴り合いのケンカしてるの」
二人が対面して一時間あまりのことだったという。
「それでリーダーが壁にケリ入れて、ぶち破った足がはさまって抜けなくなってね。助けろコラッて騒いでるの、大変だったよ。というかコントかよ」
その時の穴に、現在はさだまさしの写真パネルが掛かっていた。
「ケンカの原因は何だったんですか?」
と、僕は聞く。
「何だったっけ?」
「たしか、すんごい下らないことだったよな。それは覚えてる」
「僕は覚えてるけど、言えないな」
後に聞いたところによると、ジッポーのライターのことを、家出少年くんがチンポーのライターというダジャレを言ったところ、リーダーがあまりにも詰まらないから謝罪しろと説教を始めたのがきっかけだったらしい。
「ドンドンの早食いカレーは、いつだったっけ、金ちゃん」
「ちょうど一年前ですね」
「あのね、中村くん、S大近くのカレー屋でね」
S大近くのカレー屋といえば、味はたいしたことないが、超大盛カレーを三十分以内で食べるとタダになるという特典だけがウリの店である。S大の運動部連中が次々に挑戦していたが、成功率は二十パーセント以下だった。ただし、勝者には額入りの写真を店内に飾られる栄光が与えられるため、挑戦者はあとを経たなかった。
「僕もやったんだよ。超大盛りカレー」
金剛寺さんはニヤリと笑った。
「僕の場合は、お金がなくてやむにやまれず行ったんだけどね。それで、店に向かう時にリーダーとバッタリ会ってさ。大盛りカレーに挑戦しますって言うと、リーダーが『ちょっと待て』って僕を止めたのよ。『応援にみんなを呼ぶぞ。電話まわすから、そこで待機』ってね」
「そんで、ものの十分で全員が集まったのね。すごい結集力」
「あの時の金ちゃん、計量前のボクサーみたいやった」
「うん、かなり準備していったから」
注文するなり、見るだけで倒れそうになるくらいのバケツみたいな器のカレーが出てきたという。店のオヤジがタイマーのスイッチ押すと、金剛寺さんはすさまじい勢いで掻き込んだ。けっこう調子が良かったので、店のオヤジが心配してずっとこちらを見ていた。
金剛寺さんはどんどん食べて、見る見るうちにカレーがなくなっていったが、それでも三十分はやはりきつかった。あと一分というところで、まだ少々残っていたのである。一粒でも残したらオヤジは許さない。とにかく口に入れなければならない。頑張れ、頑張れ、と無責任な声援が飛ぶ。声援に目で答えながら食い続ける金剛寺さん。もう食べるというより、流し込むっていう様子だった。そして、あと三秒という時点になっても、皿にまだ数粒残っていた。オヤジがニヤリと微笑んで、金剛寺さんの敗北は決定的になったその時……。
「その時、どうしたんですか?」
「リーダーがね」
「リーダーが、どうしたんですか?」
「ふふっ」
霧子さんは懐かしそうに語った。
「金ちゃんの鼻の穴にその米粒を押し込んだの。それでクリア。他の知らない客までこっち見て笑ってるの。面白かった」
「それで、すぐあとに店のオヤジが記念写真を撮りますって来たんだ」
「この前まで掛かってたわよね。あの、金ちゃんが鼻の穴の米粒を押さえながらいやいやVサインしてる写真」
「あれは、恥さらしでしたね。あそこの客はうちの学生ばっかですもん」
「はは、そうだよ」
先輩たちは声をそろえて笑った。
「そうだ金ちゃん、一曲聴かせてよ。とうぶん聴けなくなるじゃん」
「えっ、歌うんですか、それじゃあ……」
金剛寺さんはおもむろにギターをとって弾き始めた。この時歌ったのは、たしか『ともだち』というこれまた単純なタイトルの曲だった。
ともだちは 大事だね
ほんとに大事だね
君が泣きたい時は
君の涙を拾ってくれる
心の中が 心の中が
明るくなっていく
歌い終わってから、金剛寺さんが言った。
「あの、せっかくですから、みんなで歌いませんか」
金剛寺さんが『なごり雪』を弾き始めると、みんな金剛寺さんの歌声につられて歌い出した。旨い人もヘタな人もドラ声の人も一緒になって歌った。みんな気持ち良く歌っている。これが金剛寺さんの理想とする仲間なのかと思った。
しばらくして、ドンドンと部屋まで揺れるような強い音がした。ドアを叩く音である。こんな時間に来客だろうか。
みんな無視して歌っていたので、僕が出た。
ドアを開けると、おでこの広いおじさんが直立不動でこちらを睨んでいた。
「うるさい、いいかげんにしろ!」
たしかにこの時、深夜一時だった。
「すみません、すみません」
僕は謝るしかなく。
「あの、大家さんですか」
「となりの住人だがね。わしは明日、早番なんだよ」
「ほんとにすみません」
「たくっ、いつもやられちゃ、たまらんよ」
しかし、僕は言い返した。
「すいません、でも、今日が最後なんで。今夜は特別なんです。いま、金剛寺さんのお別れパーティやってるんです。金剛寺さんが上京するんで……」
「……ああ、そう」
となりの住人は戸を閉めずに帰っていった。感じの悪い人だな、と思いつつ僕はドアを閉めた。
すると、すぐにまたドンドとドアを叩く音がした。開けると、またさっきのおじさんが立っていた。
「飲みなよ」
ウイスキーのボトルを僕に差し出した。
「今晩、しっかり騒ぎな」
おじさんはニカッと笑った。
「はい」
僕はボトルを手に、大きく頷いた。
そうして、四畳半の六人は朝まで歌い騒ぎ暴れたのだった。気がつくと、空が青くなっていて、小鳥がチュンチュン鳴いていた。
最後の別れの時である。アパートの前に六人が並んだ。
「がんばれよ、金ちゃん」
と、石下さんは金剛寺さんの背中を叩いた。
「金剛寺、今度会うときは、紅白歌合戦だな」
と、リーダーも言った。
「十年は帰ってくるな。錦かかげるまで帰ってくるな」
と、日頃から無口なせいでこの小説でもなかなか出番がなかった紙野さんが、強い調子で言った。
僕は、ギターと片道キップだけ持った金剛寺さんが列車に乗り込む姿を想像した。その時の金剛寺さんは僕が見たこともないほど勇ましく、カッコ良かった。
ところが、五日後、大学の食堂で……。
「あれっ?」
金剛寺さんがカツカレーを食べていた。僕と目が合うと、皿で顔を隠したが、あの七三分けとじじくさいジャンパーは、間違いなく金剛寺さんである。
「……中村くん、やあ」
中村くん、やあ、などと言っている場合ではない。
「どうしたんですか?」
「いや、その、じつはね、あの時、決心はしてなかったんだ。親にさ、東京に出ようかなってほのめかしたら、頼むからそれだけはやめてくれ、ちゃんと考え直しなさい、家のことも考えてくれって言われてさ。やっぱ親のスネをかじってる身分だからね」
と、頭をかいた。
「いや、もう、五日間、隠れてるのは辛かったよ」
上京を断念したことを言うに言えず、ずっと自分の部屋に隠れていたという。
「あれ? 金ちゃん」
霧子さんが入ってきた。
「なに? まだいたの」
それからその日いっぱい、金剛寺さんは社科研の人たちと会うたびにそんなセリフを言われたそうである。
上京の件に関しては一笑したが、金剛寺さんはプライドを深く傷付けられただけでなく、隠れていた五日間はちょうど試験期間で、早くも留年が決まるというおまけ付きであった。
まことに哀れなオチである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます