第15話 その感情の名は恐怖
最初に婚約者の話を聞かされた時、ドロテーヌはママに抗議した。
「許嫁? なによそれ! あたしの将来を勝手に決めないで!」
「何を言っているんだ。相手はあのクローズ家の三男、アルベール君だぞ? どこに不満がある? ――さあ、馬車に乗ろう。お屋敷に行くぞ」
けど、全然取り合ってくれなかった。パパは優秀なお姉ちゃんに付きっきりだし、ママだってこんな調子だ。おまけに、そのお姉ちゃんも昔みたいに構ってくれなくなった。
誰も、ドロテーヌのことなんか気にしていないのだ。どうでもいいと思っているに決まってる。
「お前の将来の為なんだ。分かってくれ、ドロテーヌ」
嘘つき! 嘘つき嘘つき嘘つき!
「知らないっ! なんにも分かってないのはそっちでしょっ!」
ドロテーヌは、ママの手を払いのけてグーでお腹を殴る。
「ぐふっ!」
「ぁ…………」
うずくまるママを見てちょっとだけ罪悪感を感じるが、それでも彼女の怒りは収まらない。
「いっ、家出してやるんだからっ!」
「ま、待ってくれ……!」
「待たない! バカっ! 死んじゃえっ!」
ドロテーヌはそう言い捨てる。そして、馬車へ乗らずにその場から一目散に逃げだした。
「ドロテーーーーーーヌっ!」
背後でママの呼ぶ声がしたけど、聞こえないフリをする。
「聞こえない聞こえない聞こえないっ!」
ママもパパもどうせ、大事なのはお姉ちゃんだけなんだ。ドロテーヌのことは厄介者だとしか思ってないから、遠くへ追い出そうとしているに違いない。
――それなら、こっちから家出してやる。
ドロテーヌは、ただひたすらに走った。
「ドロテーーーーーーヌッ!」
でも、ママはありえないくらい足が早い。
「捕まえたぞ! 追いかけっこは終わりだ!」
「きゃああああああああああああああっ?!」
逃げたくても逃げられない。どこへ行こうと、結局その後すぐに連れ戻されてしまう。
どんなに喚いても、ママの言いなりになるしかないのだ。ドロテーヌには、それが一番腹立たしかった。
*
ママを説得出来ないなら、初対面で暴れて婚約破棄させればいい。
クローズ家の屋敷に到着したドロテーヌは、次の作戦に移った。
「あんたがアルベール・クローズ?」
「ええと、どちら様ですか?」
「先にあたしの質問に答えなさいよ!」
「……そうですよね。失礼しました。――貴女の言う通り、僕がアルベール・クローズです」
「ふぅん」
目の前の、弱そうなコイツが婚約者。
はっきり言ってムカつくし、物凄くいけすかない奴だと思った。
ずっとヘラヘラしてて気持ち悪いし、見下されてる感じがするし、とにかく不気味だ。
本当に最悪。
こんな奴のことを褒めるだなんて、ママは何も分かってない。
魔法の天才だからって、何だって言うの?!
みんな死んじゃえ!
*
アルベールをぶっ飛ばして、その場から逃げ出して、それからしばらくの間の記憶がない。
気づくとドロテーヌは、見知らぬ部屋に寝かされていた。
それも、アルベールと二人きりで。
ほっぺたも痛いし、その上誘拐までされて、悪いことばかりである。
「全部あんたのせいよっ!」
ドロテーヌは、ひたすらアルベールに怒りをぶつけた。
でも……。
「いい加減にしろっ! 元はといえば、君が勝手に屋敷の外へ出ようとしたからこうなったんだろうッ!」
初めてぶたれた。
初めて目線を合わせて怒られた。
初めてあんな風に力強く抱きしめられた。
やる事が滅茶苦茶すぎるけど、アルはちゃんと自分に向き合ってくれている気がした。
その瞬間から、ドロテーヌの心は揺れ動き続けている。
アルは辛い経験をいっぱいしていて、そのせいで躊躇いなく人を殺せてしまう危ない子で、それでも許嫁の自分には優しくしてくれて……。
もう、何が何だか分からなくなってしまった。
――ただそれでも、一つだけはっきりしていることがある。
「この先、何があるか分からない。ドロテは僕の後ろに隠れてて」
「な、なによもう! あたしより後に生まれたくせに、仕切っちゃって……!」
「………………」
アルと一緒に居ると、ドキドキするのだ。
命の危険なのに、アルの不気味な笑顔が脳裏にこびり付いて離れない。
震えや冷や汗が止まらなくなって、足がすくむ。
苦しくて呼吸が上手く出来ない。
「なんなのよ……っ!」
恋をしてしまったのだとしか考えられなかった。
ドロテーヌは、あれほど拒否し続けていた婚約者に、アルベール・クローズに、恋をしてしまったのだ。
もうアルにぶたれたくないと思うのも、怒鳴られたくないと思うのも、きっと好きになってしまったせい。
本当に最悪。これじゃあ、結局ママの言った通りだ。
「……ドロテ?」
「ひっ?!」
「顔色が悪いけど大丈夫? 先に進むのが怖いの?」
「ば、ばかっ! こ、このあたしがそんな程度で怖がるはずないでしょっ!」
「でも、僕のことは怖いってさっき――」
「うるさいっ! 全部あんたのせいよっ!」
ドロテーヌは、アルの背中をポカポカと殴る。
「あ?」
「もうっ、ばかばかばかっ!」
「見つかっちゃうから、ちょっと静かにしてて」
「なによ! なんなのよもうっ……!」
自分だけ涼しい顔しちゃってムカツく!
怒りと、不安。そして、胸の高鳴り。
ドロテーヌは、アルのことしか考えられなくなっていた。
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