第2話

 どれくらい時間が経ったか。一時間か。一日か。一週間は経っていまい。いや今となってはそれにすら確信が持てないでいる。この部屋には時計がないし、身体は何の生理的欲求も寄こしてこないのだ。相変わらず妙にふわふわした気分だ、と高木は思う。

 高木はそうやって、黙って、テーブルの上の資料、己の転生先候補を一枚一枚見比べては、「ううむ」などと唸り、また黙りこむ。エージェントはといえばその端正な顔面にニコニコ笑みを浮かべているだけである。何も言わない。この女。すこぶる顔のいい女。本当に、心の底から笑っているのか、単にそういうジェスチャをしているだけなのか。そのような疑念が高木のなかに生まれる。まあそれはいいのだ。転生だ。しかしあれだ、どうにもこうにも、こうも前回と同じような世界、同じような人生だと、いまいち決めてに欠けるというか。またあの、何の変わり映えもしない毎日を、今度は上手くいけば、もっと長い間過ごすことになるのだ。それだけでも気が重い。またあの暮らしか。何者にもなれず、ただ上の言う通りに動く毎日。どうにもこうにも、灰色の日々。心は弾力を失い、やがて何も感じなくなり、歳を取り、死ぬのだ。嫌だな。それは嫌だ。どうせならこう、なにかこう、

「そのですね、転生、ということなので、その、何と言いますか」

「ええ」

「なんというか、やっぱりもうちょっと新しいことに挑戦してみたいというか」

「ええ、ええ、なるほど」

 と、エージェントは深く相槌を打つ。

「分かりますかね? 俺の言いたいこと」

「えっ?」

「えっ?」

 分かってないんかい。しばし沈黙が流れる。高木は軽く咳ばらいをし、意を決して話を続ける。

「……つまりですね、なんというか、せっかくの転生、それも異世界転生じゃないですか? なのでですね、例えば、例えばですよ? 例えば、私がその、どこぞの剣士だったりですとか。あるいは勇者だったりですとか。その子孫だとか。そういうのに転生するとか。えー、その、なんだ、例えば剣と魔法とか、それでその、冒険するとか……」

「……ああ! なるほど、そういうことでしたか」

 エージェントの顔がパッと明るくなる。つられて高木も笑う。以心伝心、ようやく相手と通じ合えたのだ。

「分かりますかね?! 私の言いたいこと」

「ええ、ええ。分かります」

「いやー、よかった!」

「つまり、勇者なりなんなり、特別な、高貴な生まれに転生して」

「そう! そういうやつです!」

「生まれつき特に苦労することなく何か特別な能力なり才能なりを授かったりして」

「えっ?」

「幼少の折りからその才気を遺憾なく発揮して周囲の人間をやたらめったら畏れさせ」

「えっ、えっ?」

「気が付けば天才だの勇者だの賢者だのと持て囃されて」

「あの、そのですね」

「なんか知らんけど綺麗な顔面の女の子だ、エルフだ、王女様だとお近づきになって」

「いや、その……」

「そういうのですよね?」

 端正な顔面を湛えたエージェントは表情ひとつ崩さずそのような毒を吐くものだから、高木は自らの浅い腹の内をぐさりぐさりと鋭利な刃物で抉られたような気がしてもう居た堪れない。いや確かにそういった、男の子の、あるいはオッサンの、キャバクラ接待のような、都合の良い、欲望まみれの、浅ァい願望を含まないことも無いとは言い切れないが俺だってそれなりに社会を経験して挫折もしているのだ、現実がそのように甘くないことだって分かっているつもりだし、必要な努力、特に修行パートについてはみっちり気合を入れてこなすつもりさえあるのに。どうしてこうも顔のいい女に詰られなくてはならないのだ。あるいはこれはその筋にとってはご褒美なのかもしれないがあいにく俺にはそのような性癖はないのだ。なんだ、少しくらい次の人生に希望を語っただけではないか。ああ、それにして、このエージェント。無性に良い顔面をしているな。畜生め。


「いやまあ、あるにはあるんですけどねえ。そういうところも」

 エージェントがあっさりと告げる。

「そうですよね……やっぱり甘、えっ?」

「えっ?」

「いや、あるんですか?! そういうの」

「ええ。あるにはあるんですけどねえ」

「じゃ、じゃあ紹介してくださいよ、それ」

「ただ……」

「ただ……?」

「倍率が、ですね」

 そういうとエージェントが端末を操作する。

「例えばですね、これ。こういうの。ぴったりですよね? 剣と魔法。冒険。ダンジョン。モンスター」

 端末を再び高木のほうへ向けつつ、エージェントが言う。画面に顔を引っつける勢いで高木が身を乗り出す。画面に開かれたウィンドウでは、翼を広げたドラゴンがこれ見よがしに炎を吐き散らかしている。これこれ、こういうのでいいんだよ。高木は何度も頷き、

「ええ、そうです! そうそう、こんな感じのやつです!」

「でね、例えばね、この世界の勇者職とか、あるいはそれに近いような職業。その求人枠なんですけど」

 エージェントがその世界の求人画面を、下へ下へスクロールしていく。高木は食い入るように画面を見続けている。おや、どうしたことか。ないぞ、あれが。

「ええと、すいません、私が見逃しましたかね?」高木は確認する。

「ない、ですね」とエージェントが返す。

「ない、とはどういった……」

「求人が」

「えっ?」

「……例えばなんですが、そもそも高貴な生まれって、どうですか高木さん? そこいらにうじゃうじゃいるようなイメージですかね?」

「いや、それは……」

「ですよね。少ないんですよね。求人自体が」

「あー……」

 エージェントが端末の画面を再び自身の側へと戻す。

「そうですね、この世界の勇者なんですが、前回募集があったのが……2979年前」

「にっ……」

「あっ、その時の募集要項が残ってますね」

「え、ええ」

「えー、応募に際し必須の条件として、前々前世までの間に勇者・剣士・戦士・魔法使いその他類する職業での経験が最低でも計100年以上」

「100年……」

「加えて、魔王無いしそれに準ずる対象の討伐経験。高木さん、ございます?」

「いや……」

「ですよね。あ、これなんかどうですか? 千名規模の部下を率いてのダンジョン攻略もしくはゴブリン・オークの軍勢ないしドラゴンの討伐経験。ございますか?」

「……前世ではないですね」

「ですよね」

「ちなみに、私のそれ以前って、どうなんですかね?」

「どう、とは」

「その、前々世とか、それ以前とか。もしかして、そういう世界にいた経験とか……」

「ないです」

「……」

「ないです」

 念を押すようにエージェントが告げる。

「……あの、すいませんでした……」

「参考までに、高木さんの場合ですが……前々世が小作人。前々前世が……馬ですね」

「馬」

「馬。あの、四脚の。走る」

「や、それは分かりますが……」

「あっ、でもこうして見るとちょっと高木さんに面影ありますね、ほら」

 エージェントが再び端末の画面を高木に見せて寄こす。画面の中、一番表に立ち上げられたウィンドウで、荷物を担いだ、貧相な見た目の馬が、大層詰まらなそうな眼つきで、こちらをじいっと見ている。ああ、これか。これが俺か。似ているとはどのあたりのことなのだ。顔か。目つきか。あるいは見た目、体躯、立ち振る舞い全てか。畜生。馬鹿にしやがって。

「あの、もう、結構です……」高木は、椅子に深くもたれ掛かり、画面から顔を背ける。

「そうですか? 結構可愛いと思いますけど」

 エージェントが再び端末を手元を引き戻そうとする。ちらりと。何かが高木の目に入る。高木はがばりと、凄い勢いでテーブルの上に身を乗り出し、その端末の両端をがしりと掴む。

「あっ、ちょっと困ります、高木さん」

 そのまま端末をひったくる。貧相な馬が表示されたウィンドウを退ける。その下の、求人一覧の画面が表示される。確かここに見えたような。あっ。これ。これだ。

「あの、これ」高木はその画面を指さしてエージェントに見せつける。

「もうっ、何ですか、こういうのは、ほんとに駄目なんですからね……あっ」

「みっ、未経験可、アットホームな異世界です、仲間募集中、剣と魔法の世界で……これ、これとかはどうなんですか?! 俺でも行けるんですかね?!」

 高木は再び身を乗り出し、エージェントへと迫る。エージェントは端正な顔面にやや困惑の表情を浮かべつつ、高木が乗り出した分、後ろへ仰け反って距離を取る。

「あー……まあ、行ける、といえば行けますけど……うーん」

 なんとも煮え切らない反応だ。しかしここで食い下がる訳にもいかない。漸く見つけた、異世界らしい異世界。その入口なのだ。もう、あんな、毎日パソコンに向かい、上から降ってくる何ともよくわからない要求や度重なる仕様変更、炎上するプロジェクト、遅延するスケジュールをカバーするべく行われる長時間労働、会議会議会議。あんなものを何十年とやるなぞまっぴらごめんだ。転生するのだ。俺は今度こそやる、やるぞ。俺が、ファーストペンギンだ。

「あの、これ、ここ。俺、この世界に行きたいです! 駄目ですか?! お願いします! 自分やれます! 行かせてください!」

「あー……」

 エージェントは本当に美しい顔で、困ったように笑っている。

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