第六話:混乱
鼓動が耳の奥でうるさい。
こめかみから頬を伝い首へ流れていく汗は気温のせいだろうか。
ふらりと立ち上がると膝からベンチへスマホが落ちた。
「な、なんで……時雨くんが……」
「え?」
何故。どうして。頭の中で繰り返しながら時雨くんへ駆け寄る。
「だって、ここ帰り道」
「かえりみち……」
バイトしてたの? 知らなか……。いや違う、どこからバイトが出てきた? それはさっき東雲が言っていたことで時雨くんのことじゃない。
「五十嵐くんは? あの子もしかして彼女?」
「……」
「いるなら教えてくれればよかったのに~」
僕には何の力もないけど向けられた悪意は、嫌な視線や笑みは感じる。
分かってるよ。
そんなの僕に特化した力なんかじゃない。
ないけど!
「……櫂、そこ離れて」
「東雲、ち、違う」
時雨くんから嫌な感じはしない。
何も、いつもと同じだよ。最初から今まで、ずっとそんなのないよ。
普通に見える人を祓うこともある。この前東雲と二人で行った現場もそうだった。あの人からは嫌なものは感じなかった。
でも、だけど、それでも。
「え、と? 五十嵐くん?」
「待って東雲、ちょっと話を」
相手は怪異だ。人間じゃない。
東雲たちは人間からそれを外に引き出して祓う。
繋がっているらしい怪異と悪意をちょん切るイメージとかなんとか。
怪異が引き剝がされた人間は意識を手放す。
僕はもう何度も見てきた。
怪異から解放された人間は少しの間放心状態だったり腑抜けたりするけれど、大半がすぐに日常へ戻っていく。
そう、ちゃんとわかっている。
なのに僕はどうして東雲から時雨くんを隠そうとしているんだろう。
別に祓うのなんて、なんかちょっとエイッて。なんか知らんけどエイッてやったら終わりだ。
なのに、理解しているのに、行動が伴わない。
混乱とはこういうことか。
「早く! アンタ巻き込むわよ!」
「あ、あの、しのの……」
東雲の腰が低くなる。それは臨戦態勢に入ったことを意味している。
なのに僕の意識は東雲ではなく背後、時雨くんよりもっと奥へ向いた。
人影がこちらに近づいてくる。
な、に? なんか今――
「時雨くん!」
「えっうわっ!」
頬にちりっと静電気みたいな痛みを感じて、何故だろう、立っていることが危ない気がした。
その瞬間、僕は時雨くんの体を覆うようにして地面へ転がる。
「……きた」
東雲の言葉は何の力も持っていない僕が思ったことと同じだった。
ということは。
ということは……?
時雨くんの頭を抱えた腕はきっと擦りむいた。多分耳も擦った。ヒリヒリしてる。
普段なら痛がるだろうけど僕の神経はそこに向かない。
「えっ、えっ時雨くんじゃないの!?」
「さっきから何よ。巻き込むっつってんでしょ」
怪異が宿る人間は、時雨くんではなかった?
あ、あぁ……良かった。
彼は怪異の器になっていなかった!
「……あ、あの五十嵐くん……?」
「時雨くん立てる!?」
「え? は?」
その事実は僕を幾分か冷静にしてくれた。
早くこの場から去らなければ。
僕はともかく彼だけでも。
東雲は大袈裟なことは言わない。寧ろ低く見積もる傾向がある。
その彼女が巻き込むと言っているということは、そういうことだ。
「へぇ……、でかくなってる」
やがて人影はしっかりと姿を見せた。
東雲の足が一歩後退する。
「時雨くんごめん、走ってほしい!」
「あ、の……足ぐきってしたっぽい……」
「え! ごめん、僕のせいだ。痛い?」
「言ってる場合か! いい加減にしてよ櫂!」
「だって怪我しちゃった!」
「しちゃった! じゃない!」
僕と時雨くんに影が被さる。
そっと顔をあげれば、そこにいるのは確かに人間なのに。普通の男性、なのに。
「……ふ、ふふ……もうこれにしよう」
「うぅわああ! 気持ち悪ッ! ごめんなさい!」
犬じゃあるまいし、口からぽたぽたと滴るそれが街灯に照らされぞわっと寒気が走る。
ゆらりと伸びてきた手を肘で止めて、右の拳を思いっきり脇腹へ突いた。
「ナイス櫂」
「あわわ、人殴っちゃった」
僕の初めての攻撃は思ったより効いたのかよろけた男性は膝をついた。
ごめんなさい、痣とかなってないといいんだけど。いや、今がチャンスだ。今のうちに逃げ……
「って、えええ!?」
「アンタさっきからずーっとうっさい!」
「だって、ちょ、どうしよう! 時雨くん気絶しちゃってる!」
「知らないわよ、アンタがやったんじゃないの。巻き込み事故ね、お可哀想」
「時雨くん、ごめん! 起きて!」
「でも好都合だわ、そこらへんに置いときなさい」
「時雨くん、大丈夫!? しっかり!」
「起こさなくてよろ、しいッ!」
膝を立たせる男性へ東雲が突っ込んだ。
今夜の僕はどうしたのだろう。
普段は決して見えないのに、東雲の手が赤い光に包まれているのがしっかり見えた。
手の平を男性の胸部に押し当てると一層光は強く鮮やかになる。
普段見ている動きなのに全く違う光景に見えるそれは怪異と悪意の切り離し。
衝撃があるのだろう、男性はのけ反った。
気を失った体を東雲の左腕が支えてゆっくり地面へ寝かせる。
さぁ怪異は外へ放たれた。
ここからが祓いの始まり――
……なのだけど。
「東雲、これでかくね」
「視えてんの」
「うん、ぼやんと輪郭だけ。え、これ並?」
「あたしが視た時はもっとポメラニアンサイズだったんだけど、柴はあるわね」
以前見たものより全然小さいけれど、なんというか、並って言うからちょっと牛丼サイズを想像していたよ。
ハッキリ見えない僕にはまるで影のような球体のそいつは、僕らの頭上で上下に動いていた。
「うるさ」
「声は聞こえないや」
「チワワを邪悪にした感じ」
「可愛い」
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