第403話 臨界32(橙木サイド)

 もし、音に形を持たせることが出来ていたならどのような形になるか想像がつかない。イメージすることさえ憚れるほどに九竜くりゅうの叫びは途轍もないほどに黒く濁っていた。


「でも、敵だった。小紫こむらさきさんを殺した敵だった」


 笑みを浮かべていても感情を何一つとして宿していなかった顔が全てを物語っていた。


 色々と問いただしたいことは、ある。ここでしなければならないことは今口にしたことを明らかにすることではないと頭では分かっていた。


 しかし、抑えようとすればするほどに鞘を握る手には力が籠った。


「ちょっと、アンタ…何を言っているのよ?気でも触れた?」


 信じられないといのが、紛れもない本音だった。否定しろと言葉を更に重ねる。


「冗談辞めなさいよ。こんなときに不謹慎よ」


 噛まなかったことは奇跡と言えた。こんなときに下らない、眉を顰める冗談を言うような人間でないことは短い付き合いの中でも分かっている。


「夢だったら?嘘だったら?何度思ったと思いますか?」


 剥き出しの傷は何とグロテスクかと口に出しそうになるほどに腐っていた。その酷さは見たくなかった。


「何で?何で、オレは恋人を殺さなきゃならないんですか?でも、やらなきゃいけない。オレが、やらなきゃ…」


 壮絶な告白はこの場所が戦場であることを忘れさせた。何もかもが遠い出来事としか感じられず、九竜くりゅうと自分が2人きりであるのではないかと錯覚しそうになる。


「私には、アンタが言ったように愛していた人間を、愛してくれた人間と殺し合うような状況になったことはない」


 一瞬だけ、刀を握り締めていた手が緩んだ。その隙を逃すはずもなく九竜は振りほどこうとする。気の緩みに気づいた真理は強く握り締める。


「邪魔、しないでください」


 光の宿っていない瞳から涙が一筋流れた。黒く見えたそれは泥だ。形を持った闇。


「行かせられない。今のアンタじゃ間違いなく負ける」


「今のオレはアンタよりも強い。負けるわけがない」


 傲岸不遜と受け取れる態度。それがどうしようもないほどの強がりで、今にも叫び声をあげてしまいそうなほどの悲哀を閉じ込めていることが分かってしまうも躊躇いは消さなければならない。また、誰かを失わないためににはこうするしかないのだ。


「自惚れてんじゃないわよ。強くなったのは私も認めるところよ。だとしても、身に着けた力に心は指一本触れてすらいない」


 それでも、九竜くりゅうは進もうとする。自分にとって不都合な話や事実は何一つとして受け入れるつもりなどないと受け取れる態度は真理を大いに刺激した。


「本っ当に、クソガキね」


 真理は指摘を止めない。九竜が何か物言おうとしようとした矢先に仕掛けるが、あれほどに強い絶望を変えようとするなら強く出るしかない。


 強引に九竜の体に掴みかかると屋上に押し倒す。頭に血が上って自分たちが隠れる側であることなどすっかり忘れていた。


「いい⁉アンタはまだ生きなきゃいけない‼アンタのために命を賭けた甘楽かんらは何のために死んだのよ⁉アンタをずっと待ち続けていたお姉さんはどうなるの⁉アンタが言っている恋人をどうにかできるのもアンタだけでしょ⁉何で肝心のアンタが何もかもを投げだして逃げ出そうとしているのよ‼」


 一気に捲し立てて一気にエネルギーを使い果たしような疲労が真理を襲った。バクバクと早く脈打つ心臓、体中を力強く流れる血が消耗の強さを物語っていた。


 しかし、冷静になってみると、この状況は非常にまずいことに気づいた。しくじったと理解しても事はすでに動いてしまっている。


 自分たちを覆う影が事態の急変を示す。


「私を狙う愚者がいるかと思いましたが、なるほど。逢引きをしている最中でしたか。お盛んなのは結構ですが映画ではないのだから時と場所を選ぶ節操ぐらいは、身に着けてほしいものですね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る