第402話 臨界31(橙木サイド)

 狙いどころは、ただ一点。頭か翼か。とにもかくにも飛行させないことが何よりも肝心なのだ。真理に出来ることはそのチャンスを大人しく待つだけだ。


 しかし、レンズの先に広がっている世界が与えられた役割を超えさせようと真理の心を大きくぐらつかせる。


 ―嘘、だ。

 

 当然のようにこんな都合の良い話が起きるはずはないと頭の中でこの状況を即座に否定しようとレンズの先を見ないようにする。だが、興奮が冷めやらぬ手先は、筋肉は、神経は真理の手をその幻想と思い込もうとしている世界へといざなおうとしている。幾ばくもしないうちにその手には再び双眼鏡が握られる。


 ジッと観察するエウリッピ・デスモニアの姿は何の動作も起こす気はないらしく先日の戦闘で見せつけたあの兵器染みた行動が嘘としか思えなくなりそうなぐらいに大人しい。


「どう、しますか?」


 隣にいる雨夜の反応も同様だ。目の前に転がり込んできたチャンスに立場を決めかねている。


「さぁ、どうしたものかしらね」


 自分では付いたと思った足も一向に地面に付く様子がない。浮ついた気持ではまともな攻撃が出来ないことは真理自身が理解している。意識がこちらに向いてないのはあくまでも今の内だけだ。射撃の際に生じる僅かな音でさえあの女は聞き分けるのではないかという疑問がある。仮にそうでなく罠を構えて待ち構えることが出来たとしてもおいそれとこちらに踏み入ってこないだろう。次の段階に移行するまでにすべての用意が出来ることが前提になるが。しかも、用意しているのはよくてワイヤーと手榴弾、デストロイぐらい。狙撃を専門にしている真理には無理のある話だ。


「クソッたれ」


 舌打ち交じりに吐き捨てた文句が空気に紛れて消える。冷静に考えれば考えるほどに袋小路になっていく状況にフラストレーションが募っていく。露骨すぎる態度に隣で固唾を飲みながら待つ雨夜は余計に顔色を悪くする。


「手を貸しましょうか?」


 低い声は憎悪に滾っているようで、味方であるはずなのに心底震え上がるほどの気迫に満ちた九竜くりゅうがその場に立っていた。喉が無意識に鳴った。


「…気配ぐらいは出しなさいよ。撃ち殺すところだったわよ」


「別に構わなかったですよ。殺してくれても」


 ニヒルな笑みを浮かべると九竜は物陰から身を出す。月明かりに照らされた顔は元々の顔色が白かったこともあって水死体と見間違えるほどに酷くなっていた。投げやりな物言いもあながち冗談で言っているわけではないと受け取れた。


「死体を弄ぶ趣味はないのよ」


 ヴァルキリーを組み立てつつ真理は軽口を叩く。手際よく組み立てていくも内心は九竜くりゅうが何かしでかしかねないことへの不安から手元が狂いそうになりながらも作業を進めていく。


「それで?どうやってあの女を…殺すつもりなの?」


「やるかやらないかは話は別です。とりあえず、自分が奴に近づきます。ちょっと貸してもらえますか?」


 断りを入れると九竜は雨夜から双眼鏡を受け取ってエウリッピ・デスモニアがいる屋上に視点を合わせる。調節を時折行いながら観察する様子は相手の弱点を必ず見つけてやるという強い意志を感じさせた。その間に組み立ては終わった。


「今の奴なら一人でやれるかもしれません」


 十分と判断したのか九竜くりゅうは双眼鏡を雨夜に返す。確信に満ちている顔に真理は漠然とした不安を抱いた。手は自然と長刀に伸びた。小紫こむらさきが止めてほしいと呼びかけたような気がしたのは気のせいだったのは分からない。


「1人で行かせるなんて素直に言うわけないことぐらいは分かると思うけど」


「どうにかできる方法が先輩にありますか?」


 暗く澱んだ瞳は切実に「消えろ」と物語っていた。これまでに見せたことのない闇に刀を握る手は離れそうになって、無理やりに強く握り締める。指一本でも触れていなかったら、また遠くに行ってしまうだろうことが分かっていたから。


「…確かにないわ。でも、1人で行くなんて無謀もいいところよ」


「葵を行かせたことへの罪悪感ですか?」


 冷たい言葉。今の今までの九竜くりゅうならば絶対に口にしないような冷たい物言いは信じられないほどの拒絶の棘を覗かせている。その棘はまた真理の後ろめたさを的確に貫いてくる。離すまいとしていることを分かっているはずなのに何もしない九竜の姿に不気味さを覚えた。一方で仄暗い洞窟の中を抜けた先に見つけることが叶った出口の光のような小さな希望が灯っているように見えたのは、果たして幻想だったのか。それを確かめる暇もなく事態は歩みを進めていく。


「先輩は、願いって何だと思います?」


 唐突な、予期していなかった質問に真理は意表を突かれた。


「決まっているじゃない。生きる理由。それだけよ」


 毅然とした態度で、間断の余地もない強さで真理は答える。見つめる眦の光を受けても九竜くりゅうは怯むことはない。寧ろ、ぶつける視線が強くなればなるほどに闇は色を増していく。


「自分は、ずっと自分を救ってくれるのが願いなんだって思いました。でも、世界のどこにも、自分を救ってくれるものは存在しなかった」


 歪に曲がった唇から落ちていく言葉の数々は絶望そのもの。ボロボロで、ズタズタになった信じてきたものの残滓だ。


「信じられますか?あの女をぶっ飛ばしたら、オレは恋人を殺しに行くんですよ」

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