第376話 臨界5(昼間サイド)
自分の足で前に立った。覆しようのない事実で勇気を振り絞った結果であるのに目の前の存在を目にすると脊椎に氷塊を突っ込まれたような感覚に発狂しそうになる。
「わたし、先を急いでいるから退いてくれるかな?」
グラマラスな唇から甘い言葉が零れる。ハッキリと余裕を感じられた。
「ここから先は通行止めだ」
対する自分の言葉にはどれだけの感情が籠っているのか分からない。余裕は無かっただろうことは自分どころか誰にでも分かっていること。噛まずにセリフを吐けたことが奇跡に思えた。
「それ、誰が決めたこと?」
昼間が後ろに目を走らせると付いてきた者たちは今か今かと突撃するときを待っている。それが天国への片道切符となるのはこの場に居る誰もが頭で知っているのだ。白い装束を纏った吸血鬼の人差し指が少しだけ動く。
「俺が決めたことだ。お前をここから動かしはしない」
「もう一回、見てみる?」
昼間の宣言を耳に届いていないと主張するように緋色の瞳が傲慢さを孕み、重ねた指を振り抜こうとする。先に昼間の手が、体が動いた。
「何をっ⁉」
振り向くと昼間の手は付いてきてくれた兵士の一人を突飛ばし、一瞬だけ動きを止めた吸血鬼が晒した驚きを貼り付けたままの顔へ向けて突撃していた。
大きく見開かれた赤い瞳には自分の姿が、武器を抜こうとした姿が写っているだろう。普段ならば問題なく対応のしようがある動きであっても動揺してしまっては普段通りに動くというのは難しい話だ。
両手に新造した一対の短槍を抜く。屋内での戦闘を想定した武装は思っていた以上にフィットしている。
「背水の陣って?見上げた…」
吸血鬼が瞠目から歓喜を上げようとした最中に発生した轟音がありとあらゆる現象に埃を被せる。昼間が最初に居た場所には瓦礫が重なって通路を塞いだ。大きな音と意表のダブルパンチで吸血鬼の動きは完全に止まった。
「っまず‼」
ついさっきまでお前など指一本で十分と粋がっていたはずの顔がみるみるうちに焦燥と困惑を綯い交ぜにした形相に変わっていく。
「言っただろ⁉行かせるわけにいかないって‼」
詰めた間合いと体格、全てが勝負を決めるに十分すぎた。双牙が火を噴いた。
左手は首を真横から、右手は左下から首を狙う。鎧袖一触。振り抜いた左の短槍を吸血鬼は鼻先ギリギリで回避する。
「ちっ‼」
舌打ちすると吸血鬼は白い装束そのままにバク転で距離を取り、空中で一回転を決めると着地する。それが昼間の狙いだ。右手に力を籠める。
「逃がす…」
「そっちこそ逃げなくていいのかなぁ‼」
吸血鬼は指を振ろうとするも攻撃をすることなく終わる。着地するや早くに距離を取った。このまま自分が攻撃を仕掛けたところで心臓を貫かれる可能性を瞬時に判断したのだろう。
―流石に鋭いな‼
一撃で仕留めるチャンスは逃すことにはなったものの依然として有利な状況に変わりはない。最大のチャンスが降ってわいたことがまるで神の啓示に思えてしまうほど昼間は自分がついていると思った。
相手は力があるということは間違いない。だが、立ち回りからは自分が常に狩る側で狩られる側になったことがないと分かる戦運び。機先を制すことに注力した策は確かな戦果を示している。
だから、必ず一撃で仕留める。仕留めなければならない。食いしばった歯がビシリと罅が入った。
「かぁ‼」
投擲した槍は絶対に命中しないと確信があった。更に吸血鬼が後退する。続けてリッパーを取り出し、吸血鬼に攻撃を仕掛ける。それが終わればデストロイでの射撃。休むことのない連続攻撃を前に吸血鬼は迎撃することなく後退を続ける。反撃をしようと試みるそぶりを何度か見せたがそれと交わる形で昼間からの攻撃が飛んできて退かざるを得なくなる。それこそが昼間の本命だった。
―ここだっ‼
駆けた。これまで生きてきた中で発揮したことがあるのかと思えるほどの速さで走れた。世界はゆっくりと流れる。何処にも雑念はない。全てがクリアで今の自分ならば何でもこなせると感じてしまうほどにハイだ。
余りにも勢いに乗った昼間の山頂からの雪崩を思わせるほどの勢いにマレーネも危機感を覚えて更に後退しようとした矢先にガンと壁にぶつかった。動いた瞳が一瞬だけ後ろを見た。
もう、後ろには下がれない。逃げ道があるのは右側だが、決断をするには遅すぎた。
「うおおおおお‼」
―殺られる‼
無防備では確実に潰されると直感は働き、頼りになるか分からない細腕で顔と頭をガードするも感触は腹部から伝わってきた。狙いが上ではなく下であったのだと分かったところで既に遅かった。
「やっと捕まえたぜ。吸血鬼ィ‼」
ガッシリと腹部を押さえつけられて床に押し倒される。更に頭部上で重ねられた掌を短槍が貫く。腰から股にかけてを固定されて立ち上がることも封じられた。
身動きが満足に取れない。焦燥に駆られるマレーネとは対照的に昼間は肩で息を切らしてはいるものの余力を残している。
「誘い込まれたってわけだね」
「そういうことだ。お前が攻め一辺倒の奴で助かったぜ」
拳をいたわるように撫でる。殴るという意思は明確だ。
「大の男が女の子に手を上げるんだ?」
「女の子だろうと子どもだろうと老人だろうと、吸血鬼は吸血鬼だ。いや、お前たちは俺たちの大事な人たちを奪った。それを許すつもりはない」
その言葉がマレーネの意思を一瞬だけ揺るがせた。
「食らえ‼」
大きく手を振り上げた昼間の両拳にはメリケンサックがキラリと煌めいている。これも
骨が軋む感触が昼間の拳を駆け、熱と痛みがマレーネの神経を蹂躙した。顔の上に広がる温かさが血が濡らしているのだと教えてくれる。
「痛…」
体格は昼間の方が上だ。覆いかぶされば動きを大きく制限できる上にマウントの状態。つまるところ、攻撃を仕掛けるにはあまりにも十分すぎる場所だ。
「ああ、痛いだろうな。お前らが殺した人間たちだって同じことを思っていたはずだ‼」
「やめ…‼」
明確な拒絶の言葉が出る前に昼間は吸血鬼の顔に拳を振り下ろす。骨の砕ける感触と白く美しい面貌が痛みに歪む様子が真理の顔と重なった。だが、手を止めることは不可能だ。止めれば、自分が一気に殺される側に転がることになる。
一瞬。針孔程度の時間で勝負は決まる。躊躇うことは許されず一気に仕留めるしかない。
「うおおおおおおお‼」
振り上げた拳のほうか殴られている方の皮膚がボロボロになりどっちの血か分からない状態になって、どれぐらいの回数殴っているのか分からないほどに殴ってようやく手が止まった。
息が途切れ途切れで汗だくになった鼻先から汗が吸血鬼の顔に落ちた。見る影もないほどにボロボロ、ひどく変形した顔を見ているとクールダウンをし始めた罪悪感が少しだけ芽生える。そして、ある一つのことに気づく。
―どういうことだ?
いつの間にか白の装束から制服に服装が変化している。おまけに短槍で磔にしていた両手が頭上に存在していない。こんな近くで見ていたのだから見逃すはずがない。
―まさか。
嫌な予感と共に昼間の目は直下で組み伏せている吸血鬼の血塗れになった顔を見る。
「気、すんだ?」
酷く変形した顔を隠すこともなく吸血鬼は咄嗟に殴ろうと再び手を上げた昼間を嗤い、するりと右手を腹部に密着させる。
「これは、お礼」
飛び出た切っ先が昼間の腹を貫く。力が急に抜けていく。
「な、に?」
一瞬のうちに攻守が逆転していることを理解することが出来なかった。支えを失った体が、ついさっきまで力に満ちていた昼間はあっさりと床に倒れた。
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