第375話 臨界4(マレーネサイド)
暗闇。闇。それはマレーネこと馬淵海という女にとって馴染みのあるもので唯一安らぎを覚えることが出来る存在だった。尤も今は恋人との甘く、忘れがたいはずになる日だったあの日のトラウマが蘇って苦さが胸に突き刺さっている。肉の内側にまで浸潤し、血液まで錆びさせない勢いで全部を壊そうとしてくる。
靴音だけが廊下に反響する。非常灯の光だけしか頼りになる光源がない世界は自分だけ、一人しか存在しないのではないかと思わせようとする。恋人も友人も何もかもが存在していないのだと。それに抗うようにマレーネは口にする。自分の愛だけが嘘偽りのないものと示すように。
「わたし、わたしは1人じゃない。1人じゃ…ないのよ」
一歩を踏み出そうとしたところで、何かが足に引っかかった。直感がすぐに前か後ろに体を動かせと教える。目の端に壁に火を伴った罅が走る光景が見えた。
「っち‼」
右手を床に付き、体幹を最大限活用して飛びのいた。爆風がたったさっきまでマレーネの体があった場所を破壊の力を伴って駆け抜けた。まともに食らえば体は無事であっても服はボロボロになるだろうことは簡単に予想できた。
「危ないね。服、大事にしてるんだから止めてよ」
パンパンと付着した埃を払うとマレーネは目に力を籠める。暗闇の中でも蛍光灯がついている最中であるときと変わらない光景がしっかりと網膜に焼き付く。
廊下の至る所にワイヤーが張り巡らされている。触れればさっきと同じ爆風を伴って侵入者を蹂躙しようとしてくるだろう。もっと目を凝らしてみると首の高さと同じほどの場所に見えないほどに磨き上げられたワイヤーが設置されているのが確認できる。もし、気づかずに突撃していれば首を撥ねられていた者は多々だっただろう。尤も自分はそんな陳腐な手段に嵌るほど愚かではないとマレーネは分かっている。だが、服にも肌にも余計な傷をつけずにあの結界を切り抜けるというのは骨が折れる話だ。
「どうしよっかな」
時間はあまりない。それなのに結界は何処まで続いているか分からない。廊下の長さ自体はエウリッピ・デスモニアから通達された資料に目を通しているからしっかりと覚えているがこの先もずっと同じものが待ち受けていると仮定するなら早々に切り抜けるしかない。ならば、効率的にことを運ぶことこそが最もと結論付ける。
右手を先ほど爆発があった箇所に手を付け、弱めに振動を流しては爆弾の位置を確認する。僅かに振動が乱れている場所に目途をつけ、マレーネは人差し指と中指を重ねて振り抜いた。
「悪いね」
どうなるかの結果を知っていながら口走った言葉は謝罪にはならない。侮辱にもならない。ただただ圧倒的な力を前にして全てが崩れるという終わりをもたらすだけだ。結界を形成していたワイヤーが次々に弛み、張りを失っていく。続けて横なぎに指を払う。壁がマレーネの指の形に沿って削れた。壁内に設置された爆弾は爆発しない。半ばから完全に両断することに成功したようだ。動きはないかと用心して待ってみるも音はしない。
「こんなところだよね」
大丈夫だと確信を持つとマレーネの歩みは再開する。途上で監視カメラが目に入った。自分の姿をしっかり捉え、映像を今も刻々と主の元へと送っているのが伝わってくる。
何かが動く音がしっかりとマレーネの耳に届いている。
敵、であることは明確。人数は10人を超えているが別に脅威にはならない。
リップクリームをポケットから取り出し、唇に塗った。
「まだ、やるのかな?」
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