第356話 乱舞28(葵サイド)
「私の願いをかなえるためにある‼」
顔が現れた。まるで巨人と言われたところで納得してしまいそうなほどに大きな顔。次に体。女神や聖女を思わせる優美さと厳粛さを伴っているのに禍々しさは消えるどころかより強くなったそれ。あのオブジェクトの内側にどれほどの容量であるのかは分からない。だが、そんなあり得ざる事態が現実。炎を纏った瓦礫を蹴散らしながら余りある巨体をこれが自分であると主張せんばかりに叩きつけた。当然のように質量は見た目通りで落ちた足はアスファルトを砕き捨て、埋まっていた土砂をまき散らす。
閉じていた唇が開いた。
『AAAaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa‼』
胸郭はステンドグラスを当てはめたと説明されても納得してしまうほどに悍ましくも神秘的な光を放っている。閉じた瞳と胸の前で合わせた手はまるで祈っている姿に見える。
背後に畳んでいた翼が開いた。恐らくそれが本当の姿なのだろう。同時に閉じていた瞳が開く。セピア色を帯びたステンドグラスと同じ色をしていた。
全身を露わにしたそれは吠えて大気を恐怖させた。空気を漂う原子、神すら自分の前に立ち塞がるなと、主の邪魔をするなと盛大に吠え散らかす姿は見た目をもう少し整えれば神秘的に見えるであろうその見た目とのギャップを助長させる。
全ての色は黄土色で体表にはこれまでに食い散らかしてきたであろう人間のレリーフが細かく丁寧な手作業で刻印したのかと正気を疑いたくなるほど精巧に刻まれている。苦悶に喘ぎ天へと手を伸ばす姿の1つ1つに魂を込めているように見えて葵は生まれて初めて恐怖を覚えた。姉と対峙したときにも存在はしていたが、同じぐらいにこれから起こる出来事への期待があった。それが今は、欠片もない。
『狂気』
それ以外の言葉は何一つとして相応しくない。それ以上に賛美する言葉は、貶す言葉は、崇める言葉は、掲げる言葉は思いつかない。それほどまでに目の前に君臨した怪物は常軌を逸していた。
「…それがお前の本当の能力か」
「そう。これが私の本当の力、本当の願望」
聖女の口から漏れ出る空気は白く濁っている。もしも、体内に入り込んでしまえば確実に焼き尽くされて生き残ることは不可能だろう。
「ここまで成長するとは思ってなかったですよ。そちらの行動が鈍かったおかげで大分助かった」
くつくつと笑いながらエウリッピは手を翳す。振り下ろせば葵を一捻りに肉塊へと変わり果てる。その事実は殴られるまでもなく分かる話。
「どうする?」
瓦礫の山から一歩をエウリッピが踏み出す。ヒールがコンクリートの欠片を踏み砕く。その音に反応して聖女もどきが口内を覗かせる。底の見えない闇がそこにあった。
「どうするって?」
暑さにやられて肌から汗が滲む。放っておくと下着までぐっしょりと濡れそうだった。
「汗ぐらい拭いたら?どうせなら、私が拭いてあげてもいいけどね。勿論、隅々まで」
「気遣いどうも。その余裕に痛み入るぜ」
最後の性的な発言を耳にしていないかのように葵は受け流す。火にやられて崩れたオブジェクトの音が黙りこくっていた2人の空気に活を入れた。
「参ったって言って」
「お断りだよ」
降伏勧告を一蹴した葵にエウリッピは憐憫を滲ませる笑みを投げかける。
「切り札がそんなもんだとはね」
「言ってくれるわね」
普段通りの声音に今の言葉が屈辱だと受け取ったと分かる反応だ。背後に控えている聖女が立ち上がる。
「勝ち目はない。やってみる?」
そうだろうなと内心で付け足す。援軍を呼んだところでこの聖女を叩き潰すことは叶わないどころかわざわざ食料を与えて肥え太らせるだけにしかならない。つまり、1人でこの状況をひっくり返すか乗り切るしかない。援軍が来た時点で負けは確実になる。エウリッピを1人だけ狙うとしてもあの巨体を搔い潜ることが前提条件となるが、人間単独で吸血鬼を相手にして勝てる確率はないに等しい。そもそも、ガネーシャが睨みを利かせている以上は絶対に許しはしないだろう。
本音を言うのなら、この状況は予想を完全に外れている。こんな怪物を召喚してけしかけてくるなど夢にも思っていなかったのだ。倒すには作戦に修正を加える必要があると葵は付け足す。
「遠慮しておくぜ。勝てないギャンブルをするほどアタシはチャレンジャーじゃない」
「だったら、その物騒な得物を早く捨ててよ。私のテーブルでは丸腰がルールなんだけど」
「肝心のお前は例外だろ?後ろで睨みを利かせている怪物がいるうちは説得力が欠片もないんだよ」
下手に出るどころか堂々と要求をぶつける葵の脇を強烈な衝撃波が駆け抜けた。瓦礫が舞って葵の髪を揺らす。
「口には気を付けてね。顔に傷をつけたくないから」
地面は大きく抉れている。どれほどのエネルギーが込められているのか考えたくないほどの威力にはため息が出た。
「お前はアタシに何を求めるんだ?」
「あのときに言ったわ。帰ってきて」
伸ばされた右手は今にも握れと暗に主張している。目はまるで笑っていない。濁った闇がとぐろを巻いている瞳は自分がいなかった時間が如何ほどのものだったかを想像させた。
「それだけか?」
「それだけよ。助けてほしい奴がいるならそれの身柄も保証してあげる」
「結構だ。代わりに時間を少しだけもらいたい」
「受け入れられない約束だわ」
にべもなくエウリッピは葵が出した条件を撥ねつける。
「熱した鉄が冷めるのはアッという間なのよ。今こうして約束をしたところで時間が経てば心変わりする可能性は高まる」
「アタシが約束を守らないことはあったか?」
「信用、信頼。そんなものに価値はないわ。結ぶのは、作るのは、積み重ねるのはどれだけ大変か知ってる。でも、壊れるのは一瞬の出来事よ。どいつもこいつも裏切る」
口から泡を飛ばすとまではいかないにしてもついさっきまでとは違う口調で捲し立てる様子はエウリッピが経験した出来事の一端を物語っていた。ここまで頑なである以上は感情論をぶつけたところで暖簾に腕押しの結果が待つだけ。下手をすればようやく宥めた成果を棒に振ることになる。事は慎重に運ぶ必要がある。
「分かった。アタシはそっちに行くと約束する。ただ、質問に答えることが条件だ」
「答えてあげる。でも、こっちからも1つだけ要求するわ」
宣言するとエウリッピは明後日の方へと指を向ける。
「さっきから私のことを観察している誰かさん。追い出してくれないかしら?途轍もなくうっとうしくて仕方がないのよ」
「音は拾えていない。それでもか?」
「音を拾えていないとしても唇の動きを観察すれば答えに辿り着ける可能性があるのよ。約束を履行するのは
用心深さは相変わらずかと思いつつ端末を取り出して真理に繋ぐ。合間を挟まずにあっという間に真理の声が聞こえた。
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