第357話 乱舞29(橙木サイド)

 息を呑んだ。この光景が、自分が目にしているものの全てがリアルとは思えない。映画やドラマと言われた方が説得力がある。今にもこの場所から逃げ出してしまいそうだったが酷いアンモニア臭が意識と折れかけていた心を無理やりに呼び戻す。


「ねぇ。臭いんだけど」


「いやいやいや‼この状況でどうして冷静なんですか‼」


 プルプルと震える指は地鳴りが聞こえた場所を、葵が身を置いている場所を示す。


「冷静じゃないわ。今すぐに逃げたいってのが本音」


「…逃げなくていいんですか?」


 今すぐにでもドローンを回収してこの場所からとんずらをこきたいと訴える空気に当てられそうになった。涙目になっている図が手に取るように分かる。


「敵前逃亡は死罪よ。それに私なしで戦場から生き残れると思う?」


「分かりましたぁ。大人しくしてます…」


 実際のところは自分がいても雨夜を守り切れる自信はない。親衛隊クラスの敵とぶつかれば生き残らせることは不可能だろう。


「ところで、あれなんだと思う?」


 スコープを絞って対象の仔細を知ろうとするもビルの陰に入ってしまっているせいで全貌を見ることは叶わない。


「全く分かりません」


「ちょっとぐらいは考えなさいよ」


 条件反射のように答えた雨夜の対応に真理は嘆息した。暫しの沈黙を挟んで雨夜が改めて答える。


「怪獣?でしょうか…」


 自信なさげに答えるが、真理の予想も大体が合っている。


 あれだけの音を轟かせたのは誰が現出したものであっても質量は人間と同程度の大きさに抑え込むなど無理がある。加えてスコープに移り込んだ影はそう裏付けるに十分だった。


「本当に最悪だわ」


 敵が伏せていた切り札は想像以上のインパクトだった。正面切っての戦いを挑むなら核弾頭でも使わない限りは確実な勝機を導くことは出来ないとネガティブな予測が頭を過る。


 ―本当に、最悪だわ。


 トリガーにかけた指が震える。死の淵に追い込まれたときや九竜くりゅうと一緒にサードニクスと相対したときに感じたときのものとはまるで違う。恐怖であることには違いないにしても底より心が震えた。


 ―勝てない。


 厚い雲からは一筋も光が挿さない、挿してくれない。だから、真理はスコープから顔を離すまいと決めた。絶対に離さない。離したら完全に敗北だと認めることになると分かっているからだ。


 直後に場違いなバイブレーションの音が聞こえた。張りつめていた空気には一気に罅が入ったように雨夜が『あ、あの』と声をかけてきた。


「私が出るわよ」


 立ち上がると膝が躍っていた。


 膝に疲労が溜まっているように演じて真理は手すりに手をつく。汗だくになっている顔を見られないように真理は端末を手に取り、ディスプレイを見た。葵の名前が目に入る。今の自分の状態を悟られないか心配になった。


「どうしたの?」


 少しだけ空白が出来た。次にどんな言葉が出てくるかと待っている間の真理の心境は今の時間がとんでもなく長いように感じる。もしも、怖いのかと問われてしまえば最後の砦が崩れ落ちてしまう気がした。


『こっちの様子は見えてるだろ?』


「この世ならざる光景がよーく見えてるわ」


 葵は余計なことを何も言わずに用件だけを口にしてきた。


「で?何か用?」


『ドローンを下がらせてくれ。ちょっと話をする』


「…了解したわ」


 ギュッと端末を握る手に力が入った。


『心配しなくていい。お前の思うような事態にはならないよ』


 画面の向こうでどんな顔をしているのか想像がつく。その澄ました顔が幾多の記憶を呼び起こした。それが涙腺を刺激する。最後に見た小紫、両親の姿と重なった。不意に涙が込み上げてくる。もしかしたら、このまま帰ってこないのではないかと思えてしまう。


「期待、してる」


 そんな意味のない言葉を口にするだけでいっぱいいっぱいだ。


 言葉を切ると真理は通話を止めた。真っ白な光を放つディスプレイをそのままに顔を上げた。彼方で染まる空が目に入らないように星を見つめる。


 ―大丈夫。大丈夫…。


 真理は自分に何度も何度も言い聞かせる。目の前にある不都合な現実から、迫りくる絶望から逃げ出すように。

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