第348話 乱舞20(葵サイド)

 トントンと灰皿を指で叩くと煙草の灰が落ちていく。軽やかに読み上げられる報告に耳を傾けている葵は差し込む陽気に当てられて外に目をやった。季節はまだ2月の半ばで桜が花をつけるにはまだ早い。


「どうかなさいましたか?」


 葵の心がここにあらずの様子であることに気づいたハーツピースが作業を中断した。動く瞳は自分たちに仕事を押し付けてきながらその態度は何だと咎めている。


「ああ、すまないね」


 視線に気づいた葵は居住まいを正す。だが、咎められてなお改められない態度を目の当たりにしてハーツピースは席に腰を下ろした。


「何か、気になることがありますか?」


「少しね」


 灰皿に煙草を押し付けると葵は背もたれに体を預けた。体重を受けた背もたれはギシリとたわんだ。これでは話し合いなど難しいだろう。


「何か飲みますか?」


「コーヒーを頼むよ」


「分かりました」


 ポットを起動させるとハーツピースは慣れた手つきで二人分のコーヒーを用意した。


「それとこれ食べますか?」


 ハーツピースがゴソゴソと抽斗からカーキ色の包装紙に包まれた小箱を取り出した。それは淹れる前に聞くべきだろうと苦笑いを浮かべてしまった。


「それはアタシが開けておくよ」


 デスクの上に置かれると葵はバリバリと包装紙を破いた。出てくるのはクッキーなどの洋菓子ではなくくずもちだった。


「これなら緑茶の方がよかったね」


「自分も中身については知らなかったので」


 コップを受け取ると未だ渦巻くカフェオレの模様が今現在自分たちの置かれている状況と重なった。ブラインドが引かれて外の青さも白さも陽光も何もかもが遮られる。


「杞憂でもありますか?」


「逆に杞憂以外のことがあると思う?」


 扉をわざとらしく親指で葵は指す。バレていないと思い込んで部屋の前に張り付いている姿は滑稽だ。あとは、多少の変更はあっても段取り通りに動くだけ。


「ないですね」


 思っていることは同じだろうと感じながら口には出さない。


「デスクワークはあんまり得意じゃないんだよね」


 葵の物言いをハーツピースは鼻で笑った。渾身のギャグとして披露された面白さの欠片もないギャグを耳にしたときの自分に似ているとどうでもよい感想を抱いた。


「ここまでやっておいて笑えないですよ?」


「基本中の基本だよ。アタシのやり方はお粗末だからね。あいつはここら辺の仕事は舌を巻くぐらいに得意だったよ」


「エウリッピ・デスモニア…ですか」


 沈鬱な表情を浮かべていたハーツピースの口からその名前は鉛を思わせるほどに重々しかった。その反応が嫌で葵はわざとらしく大仰に手を広げた。


「あいつに勝とうと思うならどんな手段でも使おうと考えるべきだろう?」


「その老獪さには頭痛がしますよ。とんだ狸です」


「レディにそんな物言いは失礼じゃないかな?」


 立て続けに違う人物とはいえ女扱いを全く受けないという現実には葵でも傷つくところだ。口には出さないまでも訂正しろと額に浮かんだ青筋が訴える。


「お言葉ですが、敵の敵は味方理論で繋がっているだけの貴女にそこまでの配慮をするつもりはありません。自分は傍仕えでも何でもないことをお忘れなきように」


 半ば冗談として口走った言葉に何十倍もの威力を伴った反撃を繰り出されて本気であきれ返った。まるで芥子川けしかわと相対している気分だ。


「あいつと似ているって言われない?」


「どうでしょうね。自分は基本的に他人とほとんど顔を合わせない仕事をしていたものですから」


 自分の来歴を淡々と説明する口ぶりで葵は思い出した。


 ハーツピースはクーデターが起きる前も起きた後も委員会直属のSPを務めていた。一度も配置換えを経験したことのない徹底ぶりは作為的な何かを疑わざるを得ないものだった。


「あんな辛気臭い爺どもの相手はさぞ骨が折れたんじゃないか?」


「そうでもなかったですよ。耳障りな羽虫の音と考えたら読書に集中する良いきっかけになってくれました。それに自分には全く興味を示してはいませんでしたからお相子です」


 その場所に自分が席を置いていたらと考えただけで空気の悪さに気分が一気に憂鬱になって頭が痛くなった。そのような仕事を拝命することがなかった自分の運の良さに初めて神という存在を信じた。


「芥子川さんが言っていましたけど、貴女を指名するつもりはなかったと言ってましたよ。絶対にトラブルを引き起こすと予想してました」


「だろうね。あんな差別主義者とじゃ話はまるで合わないだろうからさ」


 予想通りの反応に葵は苦笑を浮かべた。


「ところで、弦巻さんはどうしてこちらに身を置いているんですか?」

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