第322話 蠱毒34(貴船サイド)

 全てが、夢と言われた方が説得力があった。ただ、唯一事実と定められた事実があるとすれば、家なき子になったということだ。


 人工質の白い壁に囲われた部屋には何の温かみもない。ただ、無味無臭でひんやりとした空気でさえ、あの家や事務所と比べれば大分マシだった。


「もう一度問う。お前たちは何故あのような場所にいた?」


 睥睨している芥子川けしかわという男は強い眼力を持っていた。零れる言葉は鉄でも吐いているのではないかと思えるほどに威圧感に溢れていて頭に重く響く。銃火器で武装した大人、白衣を着た男を何人も従わせていたのだからカリスマは本物なのだろう。


 考えてみれば、闇金の事務所に15にも満たない女子が2人カタカタと震えて隅で蹲っていたのだから疑問を持つなという方が無理のない話だった。


 妹は片時も離れないと言わんばかりにくっついている。光が宿っていない胡乱気な目は今日に至るまでの出来事は子ども心にどれほどの負荷を強いたのかを物語っている。


「親…いなくなってしまったんです」


 変わらない冷たい視線はジッと貴船の姿を見る。値踏みとはまた違う刃を思わせる鋭さを伴っていた。


「嘘は、言っていないようだな」


 呟くと芥子川けしかわは机上にあるファイルのページを繰り、小さく溜息をつくと深呼吸をした。何か、次の言葉は自分の人生を決定づけるほどの衝撃を伴うだろうことが予想出来た。


「その少女は、君のなんだ?」


 問いに何と返すべきか分からず躊躇した。何度も口を開きかけては閉じてを繰り返す。カサカサの唇の感触が痛かった。


「何ってそれは…」


 妹であることには違いはない。だが、慈愛を注げる相手かと問われれば素直にそうであると断言できるほどに穏やかな間柄ではない。


 あのクズ親が誰とも知れない男の精子から生み出した存在。家族を蔑ろにした破滅の象徴。到底、許容など出来るはずもない存在。してしまったら、何か自分の根幹を壊しかねない決定的な出来事になりえるかもしれない確かな予感がある。


 それでも、自分にとっては最後の血縁と言えるはずだ。


 ならば、彼女にとってわたしは何なのだろうか。


 黙ったままでいるわたしに待っていた芥子川けしかわが助け舟と言えるかどうかわからない提案を口にする。


「君は何を望んでいる?まずは当面の生活か?」


 当面の生活と言ったところで子どもだけで生きていけるはずがない。親戚付き合いはいつから行っていないのか覚えがないぐらいにない。


 誰かに助けてと言えば、助けてくれるだろうか。答えは、否だ。


 世界は汚い。大人はクズだ。目の前にいる男もきっと何か良からぬことを企んでいるに違いない。顔の下に上手に隠してベラベラと嘘を喋る姿に怒りが募る。


「本当のことを言ってくださいよ」


 無意識に口に付いた言葉だった。ハッとして顔を上げると表情がまるで変わらない芥子川けしかわと目が合った。


「お前は大人か?」


「違うと思いますけど…」


 尻すぼみになった言葉に芥子川は待つことなく言葉を被せる。


「体や年齢の話をしているのではない。背負う覚悟があるのかどうかを問ういている」


「覚悟、ですか?」


 何か自分の及ばない事態に足を踏み入れたと理解した。無意識にスカートをギュッと握った。鳥肌が立って冷汗が流れる。芥子川けしかわは特に気にすることも無くA4の紙を取り出して目の前に差し出してきた。目を通してみるも何が書かれているのかまるで分からない。特に専門用語はまるで宇宙人が喋る言語のようだ。


「これは?」


「君の妹は戦士としての素質がある。私の目的のために働いてほしい」


 妹の顔を見るが、何の変化もない。口を動かすことも、表情を変えることも。答えられるのは、自分だけ。


「お断りします。目的が何かなんてことは知りません。ただ、危険な場所に連れて行くと言われて『はい』と答えると思いますか?」


「思ってはいない。だが、君の望みを叶えるつもりはある」


「望み?望んでいることは…」


「現実的な言葉を口にするか?」


 捲し立てようとしたところで芥子川けしかわに出鼻を挫かれる。振り下ろそうとした拳は落とす先を失ったどころか完全に勢いを失った。


「君は親を嫌っていたようだが、一応は育てていた。その加護を失って生きるということがどういうことかを理解しているのか?家事を始めに生活に必要な諸々、経済活動に必要な資金。それら全てを子どもの手に負えると思っているのか?」


 威圧的な物言いに総身を苛まれる。骨がミシミシと音を立てて意識が飛んでしまいそうになるのを隣にいる妹の手を握って踏ん張る。


「それでも、家族を犠牲にしてまで生きようなんて思いません」


 毅然として言ったと思う発言をしたと思っていても芥子川けしかわの反応は恐怖を覚えるほどに冷め切っていた。


「今の言葉に責任を持てるか?」


 空気が重さを増した。的確に言葉の核心を突かれて言葉に詰まる。


「先ほど私は子どもか大人かを問うたが、君はそれについて考えを持っているか?」


「…裏切らない、でしょうか?」


「違う」とバッサリ芥子川は斬鉄剣で一振りするが如く否定する。否定して、自分の言葉を続ける。


「裏切る、裏切らない。正義、悪。愛、金。二極化して物事を語れるほど世界というのは境界線がハッキリとはしていない。自らが正しいと証明するだけの力を有し、それを背負うだけの覚悟がある者だけが『大人』足りうる。体や年齢など私にとっては二の次だ。故に君に問うている。大人か子どもか。自分の口で答えろ。それとも、当人に問うた方が良いか?」


 これまでの人生で、こんな人間に出会ったことなどない。自分を子ども扱いしない、1人の人間として扱う態度に出くわしたことはない。


「わたし…は」


 何か言おうとして、体が重くなる。重力が十倍にも増したように思えるほど体も口も何もかもが重い。


 何度、何度、何度。否定をしようとして、否定が出来ない。唇が震えて動いてくれない。


 言わねばならない。犠牲になどしないのだと。だが、代わりに出すべき答えは何も持ち合わせていない。


「あたし…やるよ」

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