第323話 蠱毒35(貴船サイド)

 その声音は幻聴のようだった。信じられずに妹の目を見た。続けて芥子川けしかわの方を見ると表情の変化はほぼなかった。ほんの一瞬だけ、口角が僅かに上がるのを目の当たりにしただけ。


「本当に良いのか?」


 虚ろな目で答える妹に芥子川が問いかける。それが何の意味もない行為だと利用していると見る者には分かることなのに。


「絶対にダメ‼」


 今にも向こう側に渡ろうとしている妹の手を握る。生きているのかと疑ってしまうほどに手は冷たい。


「ダメじゃないよ」


 フルフルと小さく頭を振る。虚ろな目は未だ回復の兆しを見せていない。それが人と相対している感覚を損なわせようと働きかけてくる。


「お姉ちゃんには、幸せになってほしいから」


 鼓動が、跳ねた。


 手が、震えた。


 納得などしようもない。


 どうして、本当の姉ではない自分のために犠牲になろうとしているのか。


 自分を見捨てようとしないのか。


 逃げ出したところで誰も咎めはしない。


 これだけの不幸に見舞われて逃げ出さない方が不思議だ。


 自分の内に渦巻く泥は腐臭を漂わせ、精神も臓腑も中にある全てを腐らせていく。それが妹との合わせ鏡のようになって余計に惨めさが加速する。好きか嫌いかを問われれば嫌いに位置する相手に自分が負けているという事実が胸を覆う。


「ダメに…決まってるでしょ」


 メキメキと内より湧き上がってきたどす黒さに精神が犯されて全てが壊れていく。目の当たりにしたくなくてテーブルを盛大に叩き立ち上がる。


「わたしだけが幸せになる権利があるわけじゃない‼そんなこと、言わなくたって分かるでしょ⁉」


 水どころか冷水をぶちまけたように部屋は一気に静まり返った。隙間のない完璧なカットを決めた氷を目にして圧倒されたように誰もこの空気に切り込もうとはしない。対して手は熱を持ってジンジンと痛んだ。


「じゃあ、お姉ちゃんがあたしを助けて」


「え?」


 予想していなかった返しに言葉が詰まった。勢いを使えば押し切れると考えていただけに、内心では子どもと考えていただけにこのシーンは想像していなかった。


「だそうだが?君に私を納得させるだけの品を提供できるのか?それとも、試してみるか?二人だけの力で生きていけるのかどうか」


 続けて芥子川けしかわが追撃を仕掛けてくる。容赦のない言葉たちが的確にウィークポイントを貫く。当然のように答えを用意していなかったから言葉に詰まった。


 ―出来ない。


 そんな重圧を突き付けられて抵抗する意思を維持できるほど強くあることは出来なかった。ストレートを叩き込まれたボクサーよろしく膝から崩れた。妹を見ると、瞳にはもう光が戻っていた。


「大丈夫。あたし、ちゃんと帰って来るから‼」


 妹を生贄にして、わたしは自由を手に入れた。


 結果から言うなら、妹は返ってこなかった。


 後から話を聞いてみれば適合率があったとしても低い部類に属していた妹は過剰な薬物投与の副作用によって記憶の一部が欠落していた。


 勿論、わたしのことも覚えてはいなかった。


「だれ?」


 手術が終わったときに見たあの目を忘れることはない。影の如く今もしっかりと記憶に染みついている。


 自分だけが生き残った。一応は生きてはいるが、肝心の記憶が無くなったというのは死んだも同然だ。懺悔をしようにも向けるべき相手はいなくなってしまった。


 わたしは、その事実を認めることは出来ずに同じ道を選んだ。


 だから、私はここに居る。

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