第303話 蠱毒15(九竜サイド)
手で視界を確保すると馬淵は砂浜の上をスタスタと歩いていく。ブーツであることを感じさせないほどに軽やかな歩みは馬淵のスペックの高さを感じさせた。
「お待たせ♥」
数歩進んでから馬淵はブーツとソックスを脱ぎ捨ててオレを見る。青い空に青い海。砂浜に銀髪の美少女。やはり、青と白のコントラストはとても画になる。季節柄人が殆どいないという状況も相まってこの世界に2人だけしか存在していないと錯覚しそうになった。
「海と言えば夏じゃないのか?」
水着が見てみたいとは口が裂けても言わない。見てみたいというのは、抑えがたい本音。絶対に似合わないはずがないのだ。主導権を握られてからかわれるのは恥ずかしいから胸の奥に、何重にも鍵をかけて封印するが。
「夏は夏でまた来るよ。でも、冬の海は冬の海でいい点あるんだよ」
遮るものがない空間では風が容赦なく体を嬲る。寒さに苛まれるオレに対して馬淵はルンルンと音を付けたくなる上機嫌で波打つ場所へ歩んでいく。
「寒いぞ?」
「泳ぐわけじゃないからさ」
同じ風に振り回されているはずなのに馬淵は寒いという素振りをまるで見せない。足を見ても鳥肌一つない。寒さを感じないのかと疑いの目を向けた直後に「クション」と可愛らしいくしゃみをした。
「風邪を引いたら元も子もないだろ?」
「ちょっとだけだから。いいでしょ?」
赤くなった鼻を擦ると馬淵は波の中へ足を踏み入れようとしている。止めたところで聞かないだろうなと凡その見当がついているから諦めた。
「プリンの用意しておくぞ」
「クリーム乗せておいてね」
軽口を叩くと馬淵は水へ足を踏み入れた。
「冷たっ‼」
悲鳴にも似た歓喜の声を馬淵は上げた。前者の方が助かるところであるが冷たさに身を震わせながらもテンション高らかにはしゃいでいる。初めて海を見た子どもの反応だ。
「
キラキラと煌めきを振り撒き、こっちに来いと手招きする。季節を間違っているだろうと言いたくなって腹の底に押し込む。
「寒いのは嫌いなんだ。悪いな」
「あとでラーメン奢るよ~?」
「夏になったら喜んで入る」
サラリと流すと片膝を立てて砂浜に座し、文庫本を鞄から取り出す。距離は近いことが重要。何か起きたらすぐにでも動くことが出来るように手配だ。
「つれないな~」
ブー垂れながら馬淵は波に足跡を刻む。ザザーッという調律が為された音は足音が入って乱れた。
「寒くなったら早く出ろよ」
「は~い」
間延びした返事には緊張感がない。しばらくは放っておこうとオレは文庫本に意識を集中する。絶え間なく続く波の音は耳心地が良かった。
どれほどの時間が経過したかは、分からない。読書に集中していたところで隣に馬淵が座った。風に晒されている白い素足は未だ濡れている。
「気は済んだか?」
「とっても」
小さく笑みを浮かべて馬淵はオレに凭れかかる。ページを捲ろうとしていた指が止まった。
「わたし、今とっても幸せだよ」
甘い声が耳朶を打つ。無意識に、それこそプログラムされたかのように左手は馬淵の肩を抱く。柔らかな体は自分と違うものと強く意識させられる。
「ここまで来たかいがあったよ」
本を閉じ、馬淵の言葉に耳を傾ける。
心臓が、高鳴る。
馬淵は足を拭くとソックス、ブーツを履いていき元の状態に戻る。艶めかしい日焼けしていない白い足に釘付けになりそうだった。
「
「昔に読んだきりだな」
正確には読み聞かせ。
「好きな作品でもあるのか?」
「『人魚姫』が忘れられないんだよね」
「悲恋に憧れてるのか?」
「やだよ。この時間が終わっちゃうの」
口を尖らせ、少し拗ねた声で答える。だが、ふざけたような口調とは裏腹に青い瞳は酷く揺れているように見える。まるで自分の中に確たる存在としてあった何かを失ったと思わせるほどの動揺に声をかける気を逸した。
「報われないって辛いと思わない?自分の全部捧げたのに…」
感情が高ぶったのか馬淵の瞳から一筋の涙が頬を濡らす。化粧の成分を取り込んだ涙は汚れて落ちる。
「何かあったのか?」
「何にも…ないよ。ただ、怖くなっちゃた」
「怖い?」
オレの問いに馬淵は涙を流す。話題に出たせいか人魚が真珠を零している画と重なった。
オレの腕を馬淵は左手で強く、強く握りしめる。万力かと思えるほどに力は強い。
「…一人がイヤ。考えるだけで怖いの。怖くて、堪らないの」
ひきつけを起こしながら馬淵は絶望を吐き出す。既視感がある。ドクンと心臓が跳ねて、バクバクと大きく波打つ。
―同じだ。
傷口が、ばっくりと開く。
「
望んだ言葉を与えてほしい。切実に訴え、如実に届ける。ぐしゃぐしゃになった顔は、どういうわけか美しい。最初から彼女の顔はこの顔だったのではないかと思えてしまうほどに惹きつけられる。
「何処でも、オレたちは一緒だ」
馬淵の体を強く、強く抱きしめる。頭の中は激しくスパークする。ビビッと駆け巡る電気は理性を、方程式をすっ飛ばして回答へと至らせる。
無責任。最低。あまりにも、悪手。自分の行動が、言葉がどれほど残酷なものか頭では理解している。分かっているのに、体が止まらない。
気が狂いそうだった。逃げなければおかしくなってしまうと分かっていたのだろう。
唇の柔らかさは、絡ませた舌の感触だけが唯一の事実。ただひたすらに、お互いを喰らう。誰かが見ているかどうかにすら考えが及ばないほどに全てがどうだって良かった。どうでも良くなった。傷が疼いて仕方がない。互いに舐め合える傷があるのなら何処であったところで関係ない。全て、全て、全て。毛の一本まで食い尽くせと。
「…強引だね」
砂浜の上で、馬淵が伏している。抵抗するつもりはない、求められれば何があっても受け入れるつもりでいると。火照ってトロンと蕩け切った顔は虚ろで前が見えているのか分からない。或いは、見たくない世界から守っているとも受け取れた。
「…ゴメン」
目を背けようとしたところで、顔を両手が挟む。寒空に晒された手は冷たい。
「続きは、ホテルでしよっか」
その言葉に、オレは答えられない。意味を成さない言葉が零れるだけ。
「オレは…」
どうすればいいのかと思ったところで、答えは決まっている。無数にあるはずだった解は一つの筋道に限定される。
「大丈夫。ちゃんと用意してるから」
囁きは、毒のように神経を犯した。
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