第279話 破戒23(エウリッピサイド)

 怪物が、目の前にいる。今のところは人の成りをしている。エウリッピの中にあった余裕を、前面に押し出していたはずの傲慢さを引き剥がすぐらいには迫力がある。


 ギラギラと眼光を滾らせる赤い瞳、敵意を隠しもしない剥き出しの犬歯。ゆったりと緩慢に動く体は自分が知っているあの少年という存在という認識を塗り替えていく。唯一違いが無い存在とすれば、右手に握った太刀のみ。


 ―これは、何?


 人間では、ない。赤い瞳、あの瞳が何よりの証拠。何故という言葉だけが頭の中を占領していく、黒く塗りつぶしていく。正体を、この現象を検証しようにも動揺しすぎたせいでバグを起こした精密機械のように動かない。


『殺シテ…ヤルゥ…‼』


 置いてけぼりのエウリッピを余所に人間か別の存在か曖昧な存在となったモノが一人でがなり立てている。開いた口から漏れる吐息は体温の高さを示すように白く霞み、直後にエウリッピの左腕を強烈な痛みが襲う。


 メキメキと骨が軋み、砕ける感覚が明確に神経に伝える。後退しつつ追撃を防ぐべく右手の「失墜メルト」を炸裂させて距離を取る。そこに至りて自分の左手が悲惨な状況に陥っていることに気づく。


「痛っ…」


 折れてへしゃげた腕がだらりと下がる。確認すると皮膚を突き破って骨が飛び出していて襲い掛かってきた衝撃とは釣り合わないほどのダメージが発生していたと認識できる。初見では暴風に晒された成木の枝としか思えなかった。


『アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア‼』


 血を吐き出すのではないかと思えるほどの大声が木霊する。聞き手によっては理不尽に対する怒りに満ちた叫びというよりは、悲哀に満ちた叫びのように聞こえる。どちらにしたところで、脅威という点では一向に変わりはない。全力で迎撃しなければ、あっという間に首を取られることになる。


「驚きましたね。まさか、私の左手を壊すとは…」


 自分の余裕の無さを取り繕うようにエウリッピは軽口を叩こうとして、止める。僅かに聞こえた太刀の音が次の攻撃が来ると警告する。


 緩慢な動きは再び彼方へと追いやられてついさっき目の当たりにした異常な速さに変化する。


 次々に繰り出された攻撃は片腕で捌こうとするエウリッピを嘲笑うように激しさを増し、手足を、体を次々に傷つけていく。一見すれば大したダメージには見えない一撃であっても一向に止まることが無いとなれば話は変わる。蓄積されたダメージは必ず、何処か重要な局面で致命的なエラーを戦いの中で残す。他の面々ほど長く戦場に立つことが出来ていないとしても培われた勘は告げる。


「この状況…私の描いていた全てを否定するつもりですか?」


 問いかけるも、誰も答えはしない。その事実にエウリッピが抱いていたドクドクと脈打っていた余裕と傲慢、確信と無関心は冷たいだけの恐怖に呑まれていく。目の前にいる怪物に現実への認識を改められていく。


 全てを自分が知っている側の存在だったはず、誰も彼もが自分の掌の上で踊らされる存在だった。限りなく不老不死に近い体を有しているという最大のアドバンテージが全て台無し、お飾り程度の存在感しかないのだと言われているような気がして気が狂いそうになる。


 残っている右手だけで勝つことは不可能だと左手の状況から弾ける。それを抜いたとしても確実に勝つことが出来るか否かを検証したとしてもハッキリはしない。確定素材が全くと言っていいほどに足りていない。尤も確実に分かっていることは、速攻で勝負を決めなければ葵が復活して加わる可能性もゼロではない。見知った顔、自分よりも下の存在と侮って抜きどころを間違えれば、確実に殺される理由にしかならない。


 それ以上に、ここまで順調に運んでいた計画を、積年の妄執が指先を前に出せば手に入るところにまで来ているのに邪魔されることの方が我慢ならない。


「人間風情が立場を弁えないことの意味がどういうことか、ここで教えて差し上げましょう」


 しかし、『臨界突破オーバーロード』を使うとするなら、少しの時間が必要となる。解除と再使用までに必要な時間を考えると1人でそれだけの時間を作れるかは怪しいところ。短期決戦には向いてないにしてもこれだけのがあれば威力は十分に期待できる。


 残された切り札を、取れる手段を、これからの設計図を頭の中で描き直す。

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