第275話 破戒19(芥子川サイド)
息も絶え絶え、どれほどの距離を走ったのか分からない。酸素を求めて肺が少しでも多くを取り込もうと動く。枯れたと思っていた臓腑が生き生きとしていることに自分でも驚いた。そもそもとして、いつに全力疾走などしたのかさえ覚えていない。
「はぁ…はぁ…」
満腹とはいかないまでも食べた直後で消化したものが逆流しそうになる。咽喉もカラカラで体は水を欲している。体中の水分は何処へと思わずにいられない。
しかし、その欲求も眼前に立ちふさがる存在が止める。
「鬼ごっこは十分だよね?」
蒼玉の双眸、薄い唇、色白の肌、凍り付いた冬の滝を思わせる流麗な銀髪。漆黒のアンダースーツに包まれる体は変に胸等々は出すぎずでますます人外味を感じさせる。人形という言葉がこれほど相応しい存在はこれまでに見たことはない。
「こっちから行ったほうがいい?」
右手には剣、左手には首。元の主が何者なのか見せられるまでもなく誰の顔であるのかは悟れた。
「…そうか」
言葉は、ない。何を言ったところで供養の言葉に、弔いの言葉にならない。いや、或いは直後に待ち受ける結末が見えてしまったからか。
「逃げなくていいの?」
「回れ右をここでしたとして、貴様はどうする?」
「勿論、殺すよ」
端的な答え。無味乾燥とした言葉は必要以上はないと暗に物語っている。
「これは返しておくよ」
左手に持った生首をマレーネは芥子川へ投げる。綺麗な放物線を描いて眼前に落ちたそれは確かにかつて己の右腕だった男のものだった。
自分の死を、終わりを自覚させるには十分すぎるほどの威力を持っていた。
暴力を以てして真っ向から立ち向かうだけの根拠は全て失われた。
「感傷なんて似合わないよ」
左手が空いたマレーネは右手に持ったレイピアを撫でる。
「無駄が多いな。マレーネ・ロ・ティーチ」
見下していた表情を浮かべていた吸血鬼は歩みを止める。これまでに目にしたことが無い存在を見てしまったと言わんばかりだ。
「人間死ぬ前は泣き叫ぶって思ってたけど、例外はいつもいるってことらしいね」
表情こそコロコロと変わってはいても肝心の言葉には何の重さもない。人を殺すという行為に意味を見出していない、或いは殺すという行為に何の比重を置いていないことが分かる。それは先ほどの軽口と行動から分かる話であるが。
「例外ついでに少し話に付き合ってもらおうか」
「時間稼ぎ?1秒でも2秒でも寿命を延ばしたい?」
「ならば、今すぐに殺せばいい」
「余裕だね。まだ何かあったりするのかな」
「何もない。貴様の剣に勝つ手段は何も」
あっさりと負けを認める芥子川をマレーネは訝し気な目で見る。
「潔いって言うのかなこういうの」
「好きに受け取ればいい。ところで、足が止まっているぞ」
余計にマレーネの疑惑は強まったようで足が進む気配はない。猪突猛進という言葉が似合う吸血鬼だけにここまで勇み足にならないのは驚きを通り越して拍子抜けだ。見方を変えるなら、仕事よりも我が身大事と表現する方が的確か。
「アンタ、何考えてるのか分からないって聞いてたけど…本当に気持ち悪いね」
声音に生々しい嫌悪の情が滲む。それを誤魔化すかのようにわざとらしく両腕をさする姿が滑稽だ。
尤も、この行動が自らの首を絞めることになったなどと思ってなどいないだろうことは想像に難くない。
この事態も予測できていたことの1つ。ならば、これから大きな障害になるであろう存在に爆弾を仕掛けておくのは当然の行動。
自分の仕事は、吸血鬼を殺すこと。為したかった願いは、その先。
彼方に手は届かないとしても、義務は果たす。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます