第270話 破戒14(天長サイド)

 ピチャ、ピチャ。水溜まりを踏む靴音が彼方から聞こえる。雨が降っていないにもかかわらず聞こえる音は途轍もない気持ち悪さを禁じ得ない。噴き出した冷汗はスーツに染みついて気持ちが悪い。その上を煙る冷たい空気が撫でてくるのだから肌を舐める気温はあべこべで気分がささくれる。


「さて、通してもらおっか」


 舞姫、或いは妖精。瞳が赤くなく元のままだったならば、桜色の唇から覗くあの鋭利で長い犬歯が存在していなければ吸血鬼だとは認識していないのではないかと思えるほどに浮世離れしている。白いローブと薄衣のドレスを纏ったマレーネこと馬淵海が手を払う動作をすると冷たい空気が薄くなる。


「それが貴女の本気…ですか」


 美しいと戦場とはあまりにも場違いな感想を抱く。存在するだけで周囲の全てを霞ませる何かを纏っていると思えてしまうほどの影響力があるのではないかと思える。


「がっかりした?」


 目を閉じ、クルリとターンする。ドレスがふわりと揺れる姿はやはり吸血鬼と説明されなければ納得するのは難しいほどに可憐だ。


「…十分に満足してますよ」


 これで振出し。いや、戦況は一気に不利になった。仮に観客がこの場にいたなら馬淵が負ける方へとコインを投げることは想像に難くない。


 しかし、戦を経験したことがある者ならば、あれをあの白い舞姫を優美な存在とは受け取りはしないだろう。


「だけどさ、ここからが本番」


 最後の方は、トーンが落ちた。花が秘めた毒棘を露にする瞬間。気づいたときには、もう遅い。


 馬淵がボタンを押すように指を突き出す。虚空を押しているのではなく、何も押しているのではなく。それでも意味のある行為と受け取るのは無理からぬ話。


 ―やばい‼


 直感的な、動物的な本能。それが今すぐに動けと訴えた。体を逸らすと真上を何かが、一直線に駆けた。


「今の避けるんだ。ちょっと驚いたね」


 わざとらしく指に息を吹きかける。だが、艶めかしく動く赤い瞳は天長あまながを見てはいない。もっと先の光景を見ている。釣られて顔を少し後ろに逸らし、あり得ざる光景に体中のあらゆる毛穴が塞がった。もし、防ごうとしていたら確実に殺されていた。


 背後にあった看板が、ポールが少しずつ動いている。ギギッ、ギギッと悲鳴を上げているようで耳にするほどにこの事実が現実だと網膜に焼き付ける。それがさも当然の行為とばかりに馬淵はまた指を突き出す。


「次は、避けられるかな?」


「今のは…」


 そんなありきたりで、情けない言葉を口に出すだけで精一杯だった。


「理屈の話だと単純だよ」


 艶然と微笑みながらも種明かしをせずに馬淵は再び指を振るおうとしている。


 次の攻撃は、避けられないように速度を上げて来ることは明白。しかも、あれが最大出力を発揮しているはずがない。そのうえで、あの威力。鉄を一瞬で切り裂くほどの一撃なのだから人体を寸断するなど朝飯前に違いない。


 対抗手段は、切れる手札はない。あの一撃で仕留めることが出来なかった時点で勝負はついていたのだと認識せざるをえない。


「こんな…」


「そろそろ、先に進ませてもらうよ」


 次が、最後。次で、最後。


 ―終わり。


「嫌…だ」


 口から落ちる言葉は、余りにも情けない。顔から落ちる液といえる液が天長あまながの顔を汚す。その様を見ても馬淵は特に顔色を変えはしない。


「安心するよ」


 最後に見せた慈愛に満ちた笑み。まるで死にゆくものを出迎え、手を引く女神の如き柔らかさ。


「さよなら」


 払った指の動き。それが迫る光景と共に、かつての記憶が脳裏に蘇る。


 都会のきらめきに憧れた、あの日。幻想を見た、あの日。それが破れた、あの日。


 芥子川けしかわに導かれた、あの日。人間を止めた、あの日。初めて人を殺した、あの日。


 悔いは、ない。ないはずだ。それなのに、死ぬことを恐れるのは何故だろう。


「死にたく…」

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