第160話 偶像12(姫川サイド)

 試合を大人しく見ていた緋咲音ひさねは起き上がる。流石にこれ以上の醜態は見るに堪えない。というよりも、見ていられないというほうが正確だ。


「ほんと、最悪…」


 溜息をつき、緋咲音ひさね九竜くりゅうの元へ歩みを進める。


 武器はない。言い訳のしようもない事実だが、別に止めるのに武器はいらない。


「ねぇ」と緋咲音ひさね九竜くりゅうに声をかける。


 目が合って、動揺した。


 赤い瞳。ルビーを思わせる鮮やかな赤い色。


 それは、吸血鬼の目の色。怪物の瞳。人が持っていてはいけないもの。


 進めていた足が止まる。心臓が口から飛び出てしまうほどにバクバク音を立てる。だが、ここで悟られるわけにはいかない。


 ―どうすればいい?


 今すぐに殺すべきか。余計なことを口走る前に。


 しかし、弦巻葵を向こうに縛り付けておくのなら彼は必要になる。手にかけてしまえば、何があっても彼女は手を貸してくれないだろう。


 もう一度、九竜くりゅうの顔を見る。


 幾筋も涙が流れた痕跡。瞳に負けず劣らず赤く染まった瞼。


 見て、まだチャンスはあると思った。話し合うことで解決できる可能性は、まだある。


 緋咲音ひさねは近づいていく。


 怖くないわけがない。だけど、苦しくないわけもない。


「殺す殺さないは無しだって話でしょ?」


 緋咲音ひさねを見た九竜くりゅうはすぐに吸血鬼のほうに目を向ける。


「聞こえてるんでしょ?」


 もう一度声をかけるが、九竜くりゅうは無視する。何度も、何度も刀を動かす。吸血鬼はその度に苦悶の叫びをあげる。


「…止めないで下さい」


「止める」


 禍々しい光を放つ九竜くりゅうの目と言葉を緋咲音ひさねは毅然と受け止める。


 ぶつける場所がない、投げ出すことが出来ない数多の負の感情が寄り集まった塊。


 直視して、本能が逃げだせと訴える。これまでに色々と相対してきたが、ワーストテンに入るぐらいには怖い。


 殺されるかもしれない。今の彼に敵と認定されてしまえば、本当に殺されてしまうかもしれない。


「堕ちたら、戻れなくなる」


「それでも…。こいつだけは…‼」


 涙で腫れて血走った目が、口元から垂れる血が狂気じみている。精神も、肉体も完全に堕ちてしまう寸前だ。このボーダーラインを超えてしまったら、二度と人間として誰も見てくれなくなる。


 緋咲音ひさねは前に出て、刀を握る九竜くりゅうの手首を掴む。


「殺すなら、ボクがやる」


 血で所々が赤く変色した歯を軋ませ、九竜くりゅうが睨みつける。


「邪魔するなら、アンタも殺す」


「二度も同じこと言うの好きじゃないんだけど」


「じゃあ、構うなよ‼」


 掴んでいた手が振り払われる。


「アンタに…アンタだって分かるだろ⁉」


 激情に任せるまま、呑まれたままの言葉が化け物の形となって口をつく。気を抜いてしまえば、呑まれる。


「分かるって言いたいけど、ボクたちがしてる仕事がなんなのか忘れた?」


「…忘れてない」


 少しだけ激烈していた感情が陰る。この隙を逃すまいと緋咲音ひさねは動く。


「なら、分かるでしょ?」


 再び九竜くりゅうの手に触れる。


「務めを果たす。彼女が生きてたなら、きっとそう言うよ」


 ガタガタと九竜くりゅうは震える。鳴る歯の間からは行き場を失った空気が漏れ出る。


 迷っている。人、獣。どっちを歩くのか。


 チャンスは、今しかない。


「だから、離して」


 この隙を逃さないために止めの言葉を口にする。


 絶対に離すまいと言わんばかりに握り締めていた手が外れていく。指が一本ずつ剥がれていく。


 緊張の糸が切れてしまったのか脱力して、九竜くりゅうの体は後ろに倒れる。


 咄嗟に手を伸ばし、緋咲音ひさねが手を掴んで自分の方に引っ張る。結果的に抱きしめる形になった。


「もう、忘れちゃダメだよ」


 緋咲音ひさねの胸に顔をうずめ、九竜くりゅうは嗚咽を漏らしながら泣く。


 孤独、憎悪、後悔、その他諸々。負の感情が涙となって浄化されていく。


 柄にもないことをやっているなと思いながら、緋咲音ひさね九竜くりゅうの頭を撫でた。

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