第141話 結解29(九竜サイド)
暗い。光がない、無限の闇。
堕ちていく。頭から真っ逆さまに。
溺れている。生暖かい水の中で。
伸ばす。誰も掴んでくれないと知りながら。
浮かぶ。ゆっくり、揺蕩うように。
開く。逆光に浮かぶ天使。頭上に戴く太陽は煌びやか。
美しい。流れる銀髪は漏れ出る光のよう。
痛む。顔は、ない。虚はまるで死の釜。
喰らう。オレが砕けていく。
「ああああああああ‼」
絶叫を上げ、勢いよく
「何処だ?ここ…」
既視感のある光景だ。服を着ていないことも込みで。だが、染みも皺も何もない純白の天井などオレの身近な場所にはない。これで馬淵の家ではないことは確実だ。
「気付いた?」
目線を逸らすと、
「どうして?」
驚きの言葉が零れる。
「死なない程度には手加減してくれたらしいわ。私にはまだ利用価値があるらしいから」
ページを捲り、彼女は興味なさげに話を進める。
「自分が生かされているのもそれが理由ですか?」
パタンと本を閉じ、
「ま、そういうことよ」
「博士も、吸血鬼ですか?」
「…そうよ」
目を逸らし、躊躇いがちに彼女は肯定の言葉を口にする。分かっていたこととはいえ、胸がズキリと痛む。
場を支配するのは、気まずいまでの沈黙だ。出来ないと分かっていながらも、部屋から出て行きたい衝動に駆られる。
「何があったか、覚えてる?」
「分かりません。気がついたら…ここに居ました。誰があの状況を切り抜けさせたんですか?」
伏せていた
「君がやったのよ。たった1人で」
「え?」とオレは間の抜けた声が出た。
―それが意味していることは、ただ1つだから。
「ボクは…人を殺したんですか?」
「結果的には、そうなるわね」
気まずそうに
自分に、そんなことが出来るはずがない。出来るだけの実力が無いことは分かっている。なのに、
―オレを騙そうとしている?こちら側に釘付けにするために?
「誰かが、運よく増援が間に合ったから…」
「誰も助けになんて来てくれなかった」
否定して欲しいのに、違うと言って欲しいのに、
―また、殺した?
ガタガタと体が震える。吐き気が込み上げ、全身から脂汗が噴き出す。
目の前に見える手は白いのに、それを剥ぐかのように赤い表層に変わる。そのように見えている。見えてしまう。
―一番、やってはいけないことをやってしまった。
誰かが死んで、その大切な人が苦しむ顔を見たくなかった。
悲痛に、絶望に歪む顔を見たくなかった。
そのために、そのために、戦うことを選んだのに‼
なのに、得られた結果は?
赤い水面に死屍累々。虚ろな目がジッと見ている。
ゆっくり、ぴちゃりと音を立てながら、オレに手を伸ばす。
「ナゼ?殺シタ?」と掠れて消えそうな声で訴える。
今にも触れてしまいそうな青ざめた白い手。
「ア…ああああああああああ‼」
違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。
殺すつもりなんて、なかった。
殺したいなんて、思ってなかった。
殺そうなんて、思ってなかった。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
壊れたレコードのように無駄な言い訳と空虚な謝罪が頭を反芻している。
そんなことに意味が無いと分かっているのに、永遠と流れ続ける。流れ続けている。
「ごめん。私の見通しが甘かった」
顔を伏せる。少し見えた顔は沈鬱な表情を浮かべている。
その顔を見ていると、得体のしれない物体が胸の内に爆裂した。
「ボクは、どうすれば良かったですか?」
無意識に口にしていた。話などしたくはなかったが、何もしていないと、独りでいると狂ってしまと分かった。
「吸血鬼を殺すのがボクたちの仕事じゃなかったんですか?」
オレの言葉に
「それなのに、こんな…‼」
抑えきれず、嗚咽が漏れる。
母さんのことまで蘇る。ノイズがかかっていない。鮮明だ。
「オレじゃない‼誰もオレは殺してない‼」
否定、否定しなければならない。そうでないと、そうでないと…。
もう、感情を抑えきれなかった。何もかもがグチャグチャで、自分が何を抱えているのか全く分からない。
「Aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa‼」
狂ってしまいそうで、もう限界だった。
終われたら、どれだけ楽だろう。
噛みしめた唇からは血の味がするはずなのに、何も感じられない。無味の液体が口内に入り込んだとしか思えない。
「うるさい」
冷静というよりも、冷淡な声音で絶望のどん底に沈みかけていた意識が一気に現実に引き戻される。顔を向けた先にあった更に顔に血の気が引いた。
「人の顔を見るなりその顔って、随分と失礼じゃない?」
体の至る所に包帯を巻き、ガーゼを貼っている。火傷をしたのか傷を覆いきれていない箇所からは赤くなった皮膚が見える。普段丁寧に手入れをしている髪は解かれて胸元まで下がっている。波打つ髪と白い肌が合わさって神話の美女や女神を眼前にしている気分だ。
初めこそ死んだはずの彼女が居たことに恐怖していたが、その美しさに釘付けになる。
「で?いつまで見てるの?」
現実味のない光景に釘付けになっていたオレに蔑むような視線を寄こす。
「…すみません」
慌てて顔を逸らすも、姫川の裸体(胸は見てない)の映像が強く頭に刻印される。
「1つだけ、良いかな?」
姫川が断りを入れる。自分の不始末を糾弾されるのかと思って耳を塞ぐが、「塞ぐな」と一喝される。
「君は、何の覚悟も無しにこの世界に来たの?」
全くの方向違い。強引すぎるほどの軌道修正と有無を言わさない姫川の迫力に圧倒されて答えることが出来ない。
「ボクは…その…」
「いいよ。別に。今のボクの方が立場は下だからね」
そう言うと、布団の上に乗せていた手を見せる。ゴツゴツした手枷が両手を拘束している。ジャラジャラと音を鳴らす重苦しい音が聞こえた。ベッドとセットで固定されていて力業での解除はほぼ不可能だろう。対してオレには手錠が付いていない。
その手枷が、どうしようもないほどに姫川との間に大きな差があるように感じた。
「で?答えを教えてもらおうかな?」
裸体を見せつけることへの羞恥心がまるでないのか姫川は話を続ける。
「覚悟は…してました」
「でも」とオレは言葉を続ける。もう、自分の内に溜まり、腐っていく感情を抑えることが出来ない。
「人を…殺したくなんてなかった」
布団を握る手は震え、甲に涙が落ちる。
「それで?」
冷ややかな声が波紋のように脳内に染みこんでいく。
オレが黙っていると、姫川に話の手が移る。
「命は命だよ。君は最初に殺したか覚えてる?」
「吸血鬼を…」と言いかけたところで、姫川が「違う」と被せる。
「子どものときに蟻の一匹ぐらいは殺したことあるでしょ?」
「…あります」
「同じだよ。命の価値なんて」
姫川の言葉を耳にしても、オレはそれを認めなくないからか、彼女への負い目からか反論を口にする。
「違う。人は、他とは…」
「同じだよ」
有無を言わさぬ迫力、強い言葉。
ゾッとして、目線を彼女に向けると、顔は能面のように不気味な顔が張り付いている。咄嗟に目を背けようとしたところで、「背けないでね」と釘を刺してくる。
生きた心地がしない。蛇に睨まれた蛙の気分だ。
「ボクは…貴女の部下を殺したんですよ?」
「負けたらそれまで。狩る側も駆られる側も関係ない」
「…今こうして、自分が殺されそうになっていてもそう思うんですか?」
「それは自業自得だよ。死んで当たり前」
あっさり、予め答えを用意していたかのように姫川は答えた。しかも、間髪入れずで声にも特段の変化が感じられない。
「吸血鬼、人。どれだけ殺したのか覚えてない。それぐらいは
少し前の出来事を口にするような語りに恐れや後悔と言った感情は感じ取れない。
懺悔などではない。告解などではない。
あくまで自然体で、これまで過ごしてきた時間を相手に伝えようとしているように感じられる。
「だから、覚悟は出来てる。自分が何をしてきたのかは、ちゃんと理解しているから」
一転して最初の強い言葉に戻る。暴風に晒されても微動だにしない巨木のような強さ。
「ところでさ。ここから出て行ってよ。邪魔だから」
姫川の標的が
2人の間に途轍もなくドロドロした、或いはぐつぐつと煮え滾るマグマが内包されていると思えてしまうほどの気持ち悪さ。
「分かったわ」
反論することなく
残されたのは、オレたち2人だけだ。周囲に気を張ってみたが誰もいない。
「もういいよ」
姫川が優しく声をかける。彼女の方を見ると、飛び込んでこいとばかりに手を広げている。
「やりませんよ」
恥ずかしさと情けなさで俯く。真っ直ぐに彼女の顔を見ることが出来ない。
「かっこつけなくていいよ。壊れちゃうよりはよっぽどいいから」
オレは頭を振って否定する。そんな資格は、何処にもない。
彼女も殺そうとした。あと少しで、殺してしまっていたかもしれない。当事者が許そうとも、この事実が変わることはない。
情けないオレの姿に業を煮やしたのか、姫川は盛大に溜息をついた。
「いつまでもウジウジしてるつもりなら、二度と外に出ないことだよ。辛いのは自分だけじゃない。死にたいって思っているのは自分だけじゃない。生きていれば、皆感じることだよ。それを聞いてくれる相手がいるってのは、とても幸せなこと」
口調は諭すようで、それでいながら節々からは逃がさないという決意を感じさせた。
「どうして…そこまでしてくれるんですか?オレは…」
「自分の行為に理由を見出せなくて潰れてきた人間をいっぱい見てきた。特に君みたいに真面目な人は真っ先に潰れていく。或いは、どんどん人間性を失って壊れる。だから…かな」
最後は少し消え入るような声だった。それだけでも、彼女の心が、どれだけの光景を見て来たのかが伝わってくる。
きっと、オレの想像等及ばないほどに凄惨な過去。ずっと、底の底に押し込んでいた本音。
なら、答えるべきなのだろう。逃げずに、向き合うべきなのだろう。
「…ちょっとだけ、聞いてもらえますか?」
「いいよ」
姫川の了承を取ると、オレはずっとひた隠しに、鍵をかけて開けまいとしてきた箱を開けた。
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