第117話 結解5(姫川サイド)
「失礼します」断ってから緋咲音はドアをノックした。が、返事はない。もう二度ほど続けてドアをノックするもやはり応答がない。
またかとため息をつきながら取っ手を引いた。抵抗はない。
キィ…と小さな音を立てて扉を開けると、顔面目掛けて拳が飛んできた。大きさは
パシッ‼という短いながらも、小気味よい音が部屋と廊下に響く。
「相変わらずガキ臭いことは止めてもらえる?」
「んじゃあ、逃げ回んなよ。
苛立ち交じりの言葉と視線を向けた緋咲音に対し、言葉を受けた少女は瞳に好戦的な輝きを益々強めている。
芥子川が居るであろうデスクに移すが、姿は確認できない。
招集時間に指定された時刻は19時。まだ10分ほど余裕があるとはいえ到着していないということは、暫くここに姿を現さない。
少しばかり、相手をしたところで問題はない。
「逃げ回るよ。バカなんて思われたくないから」
「誰がバカだって⁉」
打ち付けられた拳の力が強まる。
「君以外に誰がいると思う?」
緋咲音は
「んだとぉ⁉」
額に青筋を浮かべ、銀麗は唾が飛ぶほどに声を上げる。
名前とは違ってショートカットに纏めた黒髪(インナーカラーの青)に釣り目気味の鳶色の瞳。健康的な小麦色の肌は基本的に外回りが中心であることを証明している。ボロボロのスーツは塵芥や血痕がこびりついており、彼女がどのような仕事をしているのかがよく分かる。
今起こしている行動と外見は面白いほどに釣り合いが取れており、事あるごとに
「事実。嫌がってる相手に喧嘩を吹っ掛けるという時点でお里が知れてる」
「言ってくれんじゃねぇか。愛想0のアホンダラ」
「人が傷つくことを言うのも同様」
掴んでいた手を離すと、
感触で綺麗に決まったことが、手に残る感触でヒシヒシと伝わってくる。
「でも、やり返すのは悪くない」
衝撃が脳まで貫いたのか銀麗の体はフラフラと後ずさる。自分で仕掛けてきたにもかかわらず涙目になっている。
「テ、テンメェ…」
「文句言うぐらいなら突っかかってこないでよ」
面倒臭いということをアピールするように緋咲音はアッパーカットをぶつけた拳を労るように撫でる。
「本気でやってねぇからって舐めやがって…‼」
今にも目に張った涙の膜が裂けそうになっていながら
「いかにもな台詞だけど、ボクだって本気でやってないけど?」
売り言葉に買い言葉で
「それに片手間でやる遊びを本気でやるような奴はいないよ」
「じゃあ、殺してやろうか?」
ギロリと
今にも火花を散らしそうな空気になっているところで、「パン‼」という張り詰めた空気を裂くような手を叩く音が聞こえた。
緋咲音と銀麗の瞳が動き、直後に彼女の顔が幽霊でも見たかのように青褪める。
「こらっ‼何やってるの⁉銀‼」
プクッと頬を膨らませた顔は緋咲音には般若には見えないが、銀麗には見えるようだ。後ろを向いて一目差に逃げだそうとしたところで、
「ちゃんと謝りなさい‼」
「アタシ悪くないもん‼」
一喝の言葉に
「ボクは手を出してませんよ」
「殴ったじゃん‼」
睨みながらギャーギャーと騒いでいる。
「銀が手を出したんでしょ‼」
「違うもん‼」
「違わないです」
投げられるボールを打ち返すように
「おいおい。まーたやってんのか?お前ら?」
廊下から呑気な渋い声が聞こえた。丁度いいタイミングと思って
「まーたやってるんです」
ため息交じりに声の主ことアレッサンドロ・デ・パルマに言葉を返す。
名前の通りにラテン系の顔立ちに2メートル近くある身長はお世辞抜きにカッコいいと言える。無精髭は年嵩を重ねた雰囲気によく合っている。これでスーツというあまり似合っていない恰好でなければ誘蛾灯の如く女性が寄ってきそうである。
「で?どっちが勝ったん?」
ニヤニヤと緋咲音の肩に腕を回す。
「ボクですよ」
「まあ、あの反応を見たら、そりゃあそうか」
「見ているなら止めてくださいよ」
「いやぁ、たった今来たばかりだったもんだからさあ」
「じゃあ、目に入った瞬間に正義のヒーローみたいに止めに入ってくださいよ」
「柄じゃねぇだろ?こんな正義のヒーローは?」
さっきまでの意地悪気なにやけ面に獰猛さがミックスされる。
姿を見ると、スーツとワイシャツに血痕が付着している。
強い血の臭いが鼻を突く。若々しさに満ちた匂いは、子どものものだ。
「そうですね。守るべき子どもを殺したとなれば」
「子供=純粋無垢って理屈はただの幻想だぜ。悪魔が成りすましてるって話もあるわけだ」
「あれは悪魔ですか?」
顎を少し動かして銀麗を示す。ついでに肩に乗った手をやんわりと下ろす。パルマは特に嫌がるそぶりを見せることはない。
「天使だな。見ていると微笑ましい」
いいこと言ったと言わんばかりの顔だ。
「ロリコンですか?」
「合法かもしれないぜ?」
「それは…ないでしょう」
普段なら切れのある言葉も、プライバシーの領域に足を踏み入った途端に歯切れが悪くなる。
「確認できる術さえあれば…。なんてのは、ないものねだりかね?」
「ないものねだりでしょう。それに知らないほうが幸せなこともあるわけですし」
「それもそうだな」
この言葉を最後にパルマは
1人になった緋咲音の頭の中には、「ないものねだり」という言葉が喉に小骨が突き刺さったかのように胸に鎮座している。
ー過去が分からない。
緋咲音だけではない。
天長や銀麗、パルマにハーツピース。全員に共通すること。
しかし、過去を知ったところで、幸福な結末を与えることになるとは限らない。開けない方がいい箱があるのも事実である。
ー何も知らず、覚えていなくても。
「揃っているな」
物思いに耽っていると
「そっちは揃ってないみたいだけど?」
「委員会が行かせまいとしてな。あとで連絡を入れる予定だ」
「ふーん」と短く答えると、
「ところで、あれは何の騒ぎだ?」
「勝負事を挑まれたので返り討ちにしました」
「珍しいこともあるな」
短く言うと、芥子川は銀麗たちの所に向かった。
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