第91話 底辺24(九竜サイド)

「ハァ…ハァ…」


 肩で息を切らす。腕はもう満足に上がりそうもないほどに疲労がたまっている。 


 打ち合うこと何度目だろうか。


 上段斬りを始めに幾度も攻撃を加えたが、決定打を与えるには至らない。


 スーツもプロテクターも打ち合った際に生まれた衝撃によって傷だらけで顔にも切り傷が出来ている。羽からの攻撃を避けることだけで手一杯でナイフからの攻撃を捌くことが出来なかったからだ。橙木とおのぎが援護をしてくれなければとっくの昔に殺されていたことを考えれば、相当に幸運と言えるだろう。


 対する吸血鬼は汗もかかず、決定打にもならない傷はあっという間に修復されていてオレとは対照的に随分と余裕があるように見える。尤も薄黄色の服は結構な損傷具合で左袖は消失し、下はボロボロで右足が露になっている。所々に出来た傷には血が滲んだ痕跡がある。


「ボロボロね。口では私を殺すなんて大層なことをほざいても、この力の差は想定外の事態だったかしら?」


 青みかかった黒髪の端を弄りながら吸血鬼は愉快そうに笑い、ナイフの刀身を舐める。


「さて、終わりにしようか」


 血走った赤い瞳、紅潮した顔。水気を多分に含んだしっとりした唇。オレだけに意識を向けているように見せながら、しっかりと橙木とおのぎへ意識を向けている。


 直後に吸血鬼の目が、明後日の方に向く。恐らく橙木が居る所へ。


 彼女が何処に潜んでいるのかまではオレには分からない。だが、このタイミングで仕掛けたからには何かしらの合図と受け取っていいだろう。


「諦めたかし…」


 そこまで言ったところで、吸血鬼の動きが止まった。何が起きたのか分からない。大きく見開いた眼で、後ろを驚愕の表情で見ているということから何かが起きたことだけは明らかだった。


 それでも、吸血鬼の右半身が破裂した瞬間だけは、飛散する血の一滴までよく見えた。


 パアンっという爆発音が耳に届いた瞬間の吸血鬼の顔は、そんな顔をするのかと思えてしまうほどに、間抜けなものだった。


「へ?」と吸血鬼の出した声は、全く状況が理解できていないことを示していた。 


 認識した瞬間に、つんざくような悲鳴が聞こえた。


「あああああ‼ああAaaaaaaa‼」


 最後のところは悲鳴にすらなっていなかった。


 腕を抑えながら吸血鬼は蹲った。


 抑えた左手と薄黄色の服は瞬く間に赤く染まっていく。その景色を見ているうちに少しずつ頭がクリアになっていく。


 このチャンスを逃すわけにはいかないと、オレは立ち上がって吸血鬼の元に歩いていく。


 灰と赤のコントラスト。まだ酸化していない血は薔薇の花弁を振りまいたかのように見える。


 オレが睥睨すると吸血鬼は顔を上げる。


 病気かと疑うほどに白い肌は脂汗が浮かび上がり、綺麗に整えられていた髪は酷く乱れている。水栓を失った蛇口のように右腕からは止めどなく鮮血が溢れている。


「待って‼待って‼待ってよぉ‼」


 吸血鬼はさっきまでの余裕のある態度から一転した。


 粘っこい口調と艶やかな声音は耳障りな甲高い声に。嗜虐的な笑みは恐怖と絶望に塗り替わっている。ガチガチと鳴らす歯は今にも断頭台に送られる罪人のように見える。


「何を?」


 オレは哀願を続ける吸血鬼の首に刃を当てる。


「殺さないで…」


 弱々しい顔が目に映る。


 普段なら、こんな顔をみせられたら揺れてしまうだろう。見逃してしまうかもしれない。


 しかし、今のオレは何も感じていない。


 躊躇い、哀れみ、恐怖。灰程度の重さすら感じていない。


 本当にここに居るのは、オレなのだろうか。


「バぁぁaaaaカァ‼」


 狂気じみた顔に再び変わった吸血鬼は体勢を立て直し、止めどなく溢れる鮮血を浴びせにかかる。咄嗟に目を閉じたため目潰しはかろうじて防いだ。


「温いんだよォ‼」


 ナイフが再びオレに迫っていることが分かる。だが、ダメージの影響で精細さを欠いている。


 受け止めると、太刀で腹部を突き刺す。


 肉を切り裂く生々しい柔らかい感触が刀身を通じて伝わってくる。接触していた箇所のスーツに右腕から零れる生温かい血が染みこんでいく。


 力を入れることも出来なくなったらしい吸血鬼の体が凭れかかりそうになり、体を逸らす。支えを失った体はそのまま地面に伏す。


 ドチャっという音が聞こえたときには吸血鬼は動かなくなっていた。


 アスファルトの上に広がる血はあのときよりも現実感が無い。


 しかし、これで終わりではない。まだ、止めを刺す必要がある。


 太刀を振り上げ、背中から切っ先を突き立てる。


 ずぶりと刃がゆっくり、ゆっくりと沈んでいく。


 ―終わった。


 安堵が体を包み、視界が白ける。このまま、意識が解けてしまうのではないかと思えるほどに気分がいい。


 その感覚に包まれたら、張り詰めていた糸が切れたように力が抜けた。


 体が後ろに傾く。体が全くと言っていいほどに言うことをきかない。


 疲れた。もう、何も考えたくない。考えられない。


 死ぬんだろうか?最初に頭を擡げる。


 両親に会って謝るべきだろうか?我儘を言ったせいでこんなことになってしまって申し訳なかったと。


 或いは、小紫になるか。助けてもらったのに後を追うように来てしまったことを。 笑って許してくれるような気はしないでもない。


 投げ出された体があと少しで体が血の海に触れるというところで、誰かに受け止められた。


 見覚えのない顔だ。ぼやけている目で捉えることが出来る映像は不鮮明でまともに顔のパーツの特徴を把握することさえ叶わない。


 それでも、優しい声音は、しっかりと耳に届いた。


「もう大丈夫だよ」


                  ♥


「二度目だけど、お疲れ様」


 椅子に座っていると紙コップに入ったコーヒーが差し出される。


 デジャブを感じて、顔を上げても小紫の姿はない。別人だ。


 半開きの青い目と白い肌。シュシュで纏めたウェーブがかったブラウンの髪と赤いネイルはあまり戦士という印象を受けない。


 更にリップを塗っていると思われる艶やかな唇と棒付きキャンディと思われるものが余計にその印象を強める。


 一言で言うなら、ダウナーという言葉がピッタリだ。身長があまり高くないこと、雰囲気も合わせれば、全くと言っていいほどに小紫とは似ていない。


「…ありがとうございます」


 震える指では落してしまいそうで、大切な人に贈るプレゼントを受け取るようにオレは紙コップを受け取る。口に含むと苦みと温かさに体が癒される。疲労は全く取れないが。


「君が吸血鬼を殺したの?」


 開口一番に彼女は質問を飛ばす。


「止めは刺しました。ですが、皆の協力があったから…」


 そこまで言って、葵のことを思い出す。居ても立っても居られずに立ち上がってしまった。


「隊長は⁉」


 結果的に紙コップに入っていたコーヒーが飛び出し、彼女のプロテクターにかかってしまった。


 慌てていたとはいえ、自分がしでかしてしまったことに血の気が引く。


「大丈夫。無事だよ」


 対してコーヒーを零されたにもかかわらず彼女は全く動じていない。


「でも、頭と顔の傷が酷いから少し治療は必要みたいだけどね」


 再び脱力してオレは崩れる寸前で受け止められる。


「良かった…」


 涙が零れた。ポタポタとアスファルトに落ちては湿らさせていく。


 自分でも、落涙するなんて思っていなかった。


 目の前の彼女はオレを椅子に座らせると、落ち着くまで近くにいてくれた。


 落ち着いたと確認すると彼女は立ち上がった。


「じゃ、ボクはもう行くから」


「ありがとうございました」


 立ち上がるほどの力がまともに入らず、座ったまま頭を下げた。


「別に大したことはしてないよ。ちょっとしただけだから」


 そこまで言って、彼女は振り向いた。


「そういえば、名乗ってなかったね」


 前置きを言うと彼女は、


姫川緋咲音ひめかわひさね。姫路城の姫、川中島の川、緋衣あけごろもの緋、八重咲の咲、音痴の音。それで姫川緋咲音。」と名乗り、続けて、


「またね。九竜君」と言いながら手を振った。

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