第90話 底辺23(九竜サイド+橙木サイド)

『どう?何かわかった?』

「ありがとうございます」

 攻撃を受けていないオレは奴の能力の効果範囲に入っていない。会話は最低限のワードで済ませるようにする。

 橙木とおのぎから聞いた話は、あの2人の戦闘の様子だ。

 昼間の能力はこの状況にうってつけだった。お陰であの吸血鬼の能力を見極めることは難しくなかった。


 視界が封じられる能力である以上は五感を強化する能力、周囲に感知する物質をばら撒いて動きを予測する能力、或いは思考を読み取る能力。特に最後の攻防が役立った。

 ノーモーションの迎撃を手に取るように見破った攻撃。対して吸血鬼の攻撃は的確な一撃、予め動きを読んでいるとしか思えなかった。

 しかし、戦闘力は変わらない。しかも、能力はまだ展開状態。触れてしまえば、オレも効果範囲内に入ることになる。

 こちらは葵がまともに戦えない状態な上に向こうは無傷。戦力の差は比ぶべくもない。ある程度ある数の優位も敵の増援が来ればあっさりとひっくり返る。


 オレは太刀を構える。

 手に馴染まずに重い。練習で振るっていたときとはまるで違う。

「怖いなら逃げてもいいんですよ?」

 答えずに中段に構える。

「怖い、逃げたい、死にたくない。帰りたい」

 内側は読まれていない。だが、口にしている言葉は、今の様子を見ていれば別に読み取ることは難しくないだろう。

 内側に秘めていた醜悪さが一気に噴出したかのように吸血鬼の顔が歪む。

「こぉーんなにビビってるのにご立派‼ご立派‼ごぉーりッPaaaaaaaaa‼」

 声音も言葉も醜悪さを反映するかのように歪む。

 言っていることは、間違っていない。


 今も、怖い。怖くて仕方がない。


 足はギリギリ震えを抑えている状態で、手も太刀を思いっきり握り締めることで無理やり抑え込んでいる状態だ。


「…ご立派か」

「不服かな?中身空っぽの言葉はぁ?」

 道化師のように吸血鬼はお道化る。剥き出しになった歯肉、唾液を引く舌はオレの傷を舐めまわしているかのような気持ち悪さがある。

「嫌いだ。嘘つきは」

 お道化ていた雰囲気を潜ませて吸血鬼は冷静な表情に戻る。

「私の愉しみという理由はありますよ。それで死んでしまう?死んでしまうから可哀そう?」

 わざとらしく溜息をつき、細めていた目が一気に見開かれる。血走った目は途轍もない狂気が迸っている。最早化けの皮が完全に剝がれている。

「だったら?下らない、下らない、下raナイ‼」

「…下らない、だと?」

 悪びれることもなく、開き直る吸血鬼にオレは唖然とする。辛うじて力を込めて軋ませ、柄を更に強く握ることで無理やり爆発しそうになっている激情を抑え込む。

「他人の命?人を殺したらイケナイ?チーっとも面Siロくない‼だから、使ってやってんだYo‼クッソ阿保らしいゴミの理論を押し付けん那a‼」


 時折、声が裏返っている。

 目の前にいる者は、何だ。

 人の姿をしている、何かだ。

 人間ではない。吸血鬼という認識は、頭にある。


 何度も、何度も。あの日から、ずっと目にして、耳にしている存在。

 醜悪に歪んだ顔、この世の存在と話をしているようには思えない感覚だと脳が認識する。

「もう、御託はいい」

 自分の物とは思えない低く、冷え切った声。


 怒り。


 明確に分かる純度を持った、これまでに感じたことのない激情がオレを支配していた恐怖を塗り潰した。


                    ♥


 動くのは、もう少し先になるか。

 橙木とおのぎは次のポイントでヴァルキリーをセットし、スコープを覗き込む。

 動いている得物を狙うのは、難しい。しかも、対物ライフルをベースにしているヴァルキリーから発射された弾丸が味方に当たってしまえば逃れられない死が待っている。


 九竜と吸血鬼が戦いを始める。


 何処までやれるのか分からない。当ててはいけないため出来る援護は限られている。このまま撃たず、撃つつもりだと威嚇し続けることが精一杯の援護だ。

 このまま吸血鬼を仕留めてくれればハッピーエンドへの最短ルートになるが、都合よく物語は進まない。新人にそこまでの戦果は期待をするのは愚かとしか言いようがない。


 序盤の攻めは九竜が押している。甘楽かんらから受け継いだ太刀は上手く扱えている。葵と彼女の知己に叩き込まれた剣術は問題なく機能しているようだ。

 状況は彼に傾いているように見える。どれだけ戦闘力が高かろうと得物のリーチは補えない。太刀が使えない極至近距離に詰められなければ九竜の優位は揺るがない。


 私は、ちゃんと出来るだろうか。

 引き金に掛けた指が震えている。8月の只中であるため寒さに震えることはない。


 吹き抜ける夜風が臆病風のように思える。


 思えば、驕っていた。誰かが否定しようと、私自身がそう感じているもの。否定のしようがない存在。

 自分たちには力がある。どれだけ疎まれ、恐れられようと覆せるだけの力があるのだと。今まではそれで十分だった。


 しかし、甘楽の死が全てを変えた。


 死ぬなんて、思っていなかった。負けるなんて、考えてもいなかった。


 麻痺していた感覚だ。殺すことを恐れていたから生じたものではなく、勝ち続けていたから生じた失敗。


「…バカね」


 軛を断ち切るように、余計な思考を振り払うように、橙木とおのぎは口を動かす。

 眼下の光景は何も変わっていない。剣戟を交える光景も優位に立っている側も。


 訪れるチャンスは、刹那。逃したら、次はない。また、誰かが死ぬかもしれない。


「私は、負けたりしないわ」


 吸血鬼が弾道に入った。


 九竜は、いない。吸血鬼が単独だ。


 ようやく訪れた好機。最後のチャンスになるかもしれない。


 反射的に橙木は引き金を引いた。

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