第88話 底辺21(九竜サイド)
俄かに信じがたい光景が、目の前にある。
ズタズタのボロボロになった葵が吸血鬼に蹂躙されている。手も足も出ないという言葉がこれほどに相応しい光景というのは、滅多に目にすることにはないだろう。
今すぐに駆け出したい衝動に駆られ、太刀を握る手に嫌でも力が入えう。
『落ち着きなさい。まだ時期じゃないわ』
焦燥感に食われているオレに対して
葵の体が蹴り飛ばされてアスファルトの上を転がる。吹っ飛んでいく歯が見えた。
小紫の姿と重なって、自分の中にある何かが崩れた。
飛び出しそうになる。それを隣にいる昼間が止めた。
「まだだ…。待つんだ」
歯が軋んでしまうほどに強く食いしばって抑える。
高笑いを上げながら吸血鬼が葵を甚振る。
楽しい、この行為に生きがいを見出していると言わんばかりに生き生きとしている。
顔が、こっちに向けられる。醜悪な化け物の顔が。
「さっさと助けないと、死んでしまいますよぉ?」
吸血鬼はねっとりとしたいやらしい口調で挑発してくる。
「それが、出来ないならぁ~」
動こうとしないオレたちを目の当たりにした吸血鬼は伏している葵に手を伸ばし、乱れたブロンドの髪を掴んで、前に突き出す。
傷だらけの顔はどれほどの暴力に晒されたのか察しがついてしまうほどにボロボロで、見とれてしまいそうになるほどの美しさは完全に失われている。所々が欠けている歯、止めどなく流れる鼻血と切れた唇を目にして言葉が出ない。
「こうしちゃうよ?」
葵の右胸付近に吸血鬼がナイフを突き立て、沈めていく。短いうめき声が聞こえた。
「さぁ~て、次は…」
嗜虐に満ち満ちた目がゆっくり、葵の体を這っていく。
「ここにしよっかなぁ~」
半ばが赤く染まったナイフが次にプロテクターへと当てられる。何を目論んでいるのか察しがついて、噛みしめていた唇が裂けた。だが、昼間に掴まれていた腕に強い力が加わって昂りに昂っていた頭が少し冷静さを取り戻す。同時に停止していた思考回路が起動する。
葵がここまで為されるがまま、蹂躙されているという様子はとても普通の状態ではない。真っ向勝負で負けるとはとても思えない。
となれば、サードニクスが見せていたあの能力を使ったと考えるべきだろう。奴と同じで戦闘力を大きく上昇させるタイプの能力なのか、それとも全く別系統の能力なのか。材料が全くない状況であるため判別はつかない。
もし、前者なら、オレではとても手に負えない。後者なら、まだ手立てが少なからずあるはずだ。
援軍が来てほしいというのが本音ではあるが、この状況では間に合うとは思えない。オレたちは助かっても、葵が無事である保証はない。
一刻の猶予も残されていない。
1つ1つの動作を丁寧に、愛を感じさせるほどに、吸血鬼は葵のプロテクターをゆっくり切り裂いていく。わざとらしく獲物を嬲っているこの状況を逃すわけにはいかない。
今現在は能力を発現させているようには思えない。最初に見た白い翼は既にないからだ。
更にサードニクスと小紫の戦いを思い返す。
余裕がなかったとはいえ、小紫に焦った様子は見られなかった。切り札があったということも精神的な余裕に繋がってはいただろうが。
しかし、サードニクスがあの力を解放した瞬間に、小紫の表情が変わった。明らかに想定外の事態を目の当たりにした顔だった。そこまでは思い出すことが出来たが、先のことは思い出せない。もしかしたら、より先にこの状況をあっさり打開するための手段があるかもしれなかったと考えると歯痒い。
あくまで仮説にすぎない。証拠も脆弱。吹けば飛ぶ。
それでも、最善は望めないとしても最悪を回避するためには、やるしかない。
「俺が先に出る」
昼間が唐突に口を開き、オレは反論しようとしたところで昼間が言葉を続ける。
「俺だとあいつに振り回されちまいそうだからな。冷静に対処出来そうなお前に任せたい」
口元に笑みを浮かべている昼間だが、冷汗が流れている。それを抑えるかのように槍を握る手に力が一段と籠ったように思えた。
「その間に、あいつがどうやって隊長を倒したか能力を見極めてくれ」
「プッ…クッハハハハハハ‼」
オレたちの会話を聞いていた吸血鬼が高笑いを上げる。耳元で騒がれている葵が見ているだけで気の毒だ。だが、これは丁度良いと考え、オレは
『分かったわ』と返事が返ってくる。
通信を終えると、オレは葵たちに視線を戻す。
「止められと思って?私を?」
「止められるか?」
吸血鬼の言葉に昼間は綺麗に並んだ歯を露出させ、普段見ている顔とは違う凶悪な顔を浮かべる。見ているだけでゾッとする。
「殺すんだよ‼」
穂先に手を添え、声を張り上げる。
「来い‼『
『行くわよ』
同時に、
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