第77話 底辺10(橙木サイド)
もやもやする。胸の奥に溜まった淀み。食べ過ぎたからなどではなく、やるべきことが分かっているのに行動に移すことが出来ない。そんなイライラ。
甘楽の殉職。信じられなかった。
危険な仕事だから殉職するのは仕方がないこと。
それでも、4年も何事もなくずっと一緒にいたから心のどこかで、大丈夫だという考えが芽生えていた。
昨日も隣にいたから明日も傍にいるなんてことは、絶対にあり得ない世界なのに、忘れていた。
動揺して、恐怖した。そんな自分を認めることが嫌だった。
認めてしまったら、自分が葵よりも弱いのだと認めることになってしまうから否定するしかなかった。
そのためとはいえ、酷いことを言った。してしまったと思う。謝らなければならないことを自分がしてしまったと。
しかし、それが出来ない。どんな言葉を言えばいいのか分からない。
自分1人では解決できない。それが分かっているから電話を手にしている。ただ、いざ電話をかけようとすると、また別の感情が湧き上がる。
一言だけのアドバイスを求めるだけ。たったそれだけの作業に、口内が渇いてしまうほどの緊張。
薄暗い明りの灯っていない部屋。
本棚とテーブル、小さめの冷蔵庫と据え置きのパソコン。2つあるデスクのうちの1つは分解しかけの銃と弾丸が散らばっている。
電話を手にすること5分。
意を決して、真理はコールボタンを押す。
呼び出し音が続く。
出てくれるか、出てくれないか。長引けば長引くほど、焦らされれば焦らされるほど体が熱くなる。
『はい。衣川です』
ようやく繋がった。それだけのことに真理は胸を撫で下ろす。とはいえ、これで終わりではない。まだ一歩も踏み出していないのだ。
「私…」
『分かっておりますよ。お嬢様』
『お嬢様』なんて呼ぶのは、もう彼ぐらいしかいない。
橙木家、正確には日本に移住する前の魔術を生業とする『クラウンベリー』と名乗っていた時代から使えている使用人の一族出身の男性。
年齢は30代後半。幼少期の世話係で教育係、一族が1人だけになってから後見人と実家の管理を一手に担っている。
血が繋がっていない以上は家族というのは違うかもしれない。それでも、家族と言える存在だと真理は思っている。誰に何を言われても断固として反駁する。
家族でなければ、自分の悩みや問題を隠さずに話すことが出来る存在などいるはずはない。
しかし、家族と会うだけで、こんなに緊張するのかと疑問に思うこともある。
『お嬢様?如何なさいました?』
丁寧な口調、緊張を解きほぐす優しい声音。端末を通じて伝わってくる声を耳にすると口元が緩む。
「ちょっと…その…」
とはいえ、それとこれとは別の話だ。緊張が解けても悩みを口にするとなると自然と唇は固くなる。
『何かお悩みなのですね?』
「うん…」
抱きしめているクッションが圧力で少し凹む。
「人に謝るって…どうすればいいのかな?」
『お嬢様はどうなさりたいですか?』
「謝らなきゃいけないって、分かってる。でも…」
どんな顔をして言えばいいのか分からない。
『悪いとご理解しているのであればよろしいのではないでしょうか?』
「それだけでいいの?」
『悪いと思っていらっしゃるのであれば自ずと前へ進みますよ。肝心なのは、謝罪の言葉ではありません。態度です。相手がどのような方であるかは私には分かりかねますが、お嬢様であれば問題は無いと思っております』
「でも、私は…」
謝罪の言葉を口にしたことはある。だが、常に自分は正しいことをしてきた。
名門一族の出身だからというわけではない。
果たすべき責務を、果たすべき役割に求められた言葉を口にしただけだ。
それは、紛れもない事実。そうでなければ…。
『何事も初めてのことは不安になりますよ』
「衣川も不安になることはあるの?」
『ありますよ。生きていれば初めての事には何度も遭遇しますから』
懐かしむような口調。何を想い出しているのか聞きたくなる。
『特にお嬢様のお世話係を仰せつかったことが私にとって記憶によく残っていることです』
「私の教育係になったこと?」
思いもよらなかったことを言われて驚く。同時に彼にそんなことを言われると思っていなかったために不安に襲われる。
『クラウンベリー家の後継者。これまでに無いほどの重責でした。失敗など出来ませんからね』
声音は普段と変わらない。ただ、裏側には真理には到底理解の及ばない苦悩と苦闘があったのだということは想像できる。
『だからこそ、私はお嬢様ならば何の心配も必要ないと思っています。今日この日まで何事もなく真っ直ぐ、自分の道を進んでこられたのですから』
唇を噛みしめる。その言葉が嬉しかったからではない。
ずっと、嘘をついているから。
吸血鬼にいいように使われる身の上になってしまったことを言えないでいる後ろめたさ。
『お嬢様?』
黙っていた真理に衣川が問いかける。
「うん。ありがと」
『大丈夫そうですか?』
「大丈夫。頑張ってみる。今日はありがとう。…お休みなさい」
『はい。お休みなさいませ』
通話が切れ、真っ暗になった端末をテーブルの上に置く。抱きしめていたクッションを床に放り出して頭を乗せる。力が加わって中のビーズが沈む。
いつもなら、衣川に話すと胸のつっかえが取れる。
これまでもそうだったから今日も大丈夫だと高を括っていた自分がいる。ほんの少し前にそれが間違えだと教えられたはずなのに。
自分は、誇り高くなどない。穢れている。
橙木の、クラウンベリーの名前に傷をつけた、出来損ない。
両親に、祖父母に、先祖に顔向けなど、顔を見せることなど到底できない欠陥品。
嘘ばかりだ。
力に屈した自分を隠すため。
使命に応えられない自分を隠すため。
負け犬の自分を隠すため。
嘘。全部、嘘。
認めらないから強がっているだけ。
周りに高圧的に振る舞っているだけ。
壁を作って自分の立場を保とうとしているだけ。
正しいだけの行動。
だから、居場所を無くした。誰にも受け入れてもらえるはずもなかった。
家柄、血筋、実力、頭脳。
強い立場にある人間が、常に正論を武器に高圧的に接すれば、この末路に至ることは当然だった。
果てが今。死ぬほど嫌いな吸血鬼にいいように、扱き使われている。
必ず殺すと誓っても、出来なことを既に知ってしまっている。
でも、そう思っていないと壊れてしまうから。最大限の虚勢を張っていなければならない。
―ダメだな。
そう思いながら真理は立ち上がり、冷蔵庫に向かう。開けると冷たい空気が解放され、肌を撫でる。
仕舞ってあるチーズとビールを左手に持ち、右手にグラスを持つ。
忘れるに限る。本の一時でも。
そんな思いを胸に、手に真理はプルタブに指をかけた。
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