第76話 底辺9(昼間サイド)
嫌な記憶になるほど、強く、強く、強く、刻み込まれる。
「早く…早く隠れるのよ‼」
子どもだった俺。
非力だった俺に何かできるはずもなく、言われるがままに従って身を隠した。そして、両親が殺されて蹂躙される様を見届けた。
無情に床に広がっていく鮮血。耳にこびりつく悲鳴。立ち込める血の臭い。
それが吸血鬼との出会い。無ければ良かった運命だ。
「ほぉ?」
クローゼットに隠れていたことに吸血鬼が気づき、近づいてくる。
怯える俺の顔を楽しむように、ゆっくりと歩みを進める。
扉が開くと月光が差し込み、赤い瞳と目が合う。
容姿も鮮明に覚えている。
紺色のウインドブレーカーに身を包んだ中年に差し掛かるかどうかという容姿をした男だった。
頭を掴まれ、クローゼットから引きずり出される。靴下に包まれた足が血だまりに触れ、じっとりと生暖かさが肌に染みこんでくる。
足が浮き、体に何らかの力が加わった。
目は開けられなかった。開けてしまえば、耳鼻で分かる地獄が強く頭に刻み込まれることになってしまう。幼くとも本能が自然とそうさせた。
死にたくなかったのに、涙も声も出なかった。今にして思えば、この時点で心が死んでしまっていただろう。
目を閉じ、死の底に落ちるのを待つだけだった。
吸血鬼の吐息が首筋に触れる。生暖かく、鉄臭かった。
しかし、その瞬間は永遠に訪れなかった。
浮いていた体が落ちた。血だまりの温かさが今度は尻に、掌に伝わってくる。
何が起きたのか分からずに恐る恐る、目を開けた。
頭のない体があった。頭は、扉の前に転がっていた。
「大丈夫かい?」
優しい声が聞こえると同時に、俺の体が抱きかかえられた。
そこで夢は、いつも途切れる。
♥
滴る汗を無視して体を動かし続ける。負の感情から逃れるように、払いのけるように
自分が何も出来ない場所にいたことは分かっている。だが、しかし…
どうしてと思ってしまう。自分があの場所にいたら違ったのではないかという考えが頭の中を駆け巡っている。
「精が出るな」
声が聞こえた。だが、自分に向けられたものだとは気付かずにサンドバッグに拳を打ち続けている。声の主が姿見に映ってようやく声が自分に向けられたものだと理解した。
手を止め、声をかけてきた人物、
第二支部Bグループ隊長。肩まで伸びた黒髪に前髪に入ったブロンドのメッシュ。タレ目気味の黒目と泣き黒子は精悍な顔立ちと相まって今日も爽やかな雰囲気をこれでもかと主張している。スーツの下に隠れた細マッチョの体も雰囲気作りに一役買っている。
「精が出るな」
「すみません。集中しすぎてしまって」
頭を下げるとタオルが被せられる。
「気にしてないぞ。話は聞いているからな。顔を上げろ。私とお前の仲だろう?」
理由は分からないが白聖は金崎に気に入られている。
趣味の一致、馬が合うという要素があるとは思えない。一方的に気に入られているという方が的確だろう。
顔を上げ、金崎と目を合わせる。その目は心なしか潤んでいるように見える。
「葬儀に顔を出せなくて済まなかったな」
「いえ、金崎隊長のお立場もあるでしょう」
金崎は謝罪を入れたが、白聖からしてみれば来なくて良かったと思っている。ギスギスした空気を他グループに見られたくはなかった。
トレーニングにずっと打ち込んでいたほうが楽ではある。ただ、金崎が現れてしまった以上は無下にするわけにもいかない。
白聖はグローブを外し、近くにある椅子に金崎と揃って腰掛ける。被せられたタオルを使って目立つ個所に付着している汗を拭きとる。
「奴は?」
「隊長なら第二支部に行ってますよ」
「入れ違いか」
心底悔しそうに金崎は呟く。
「…まだ諦めてないんですか?」
「諦める?お前らしからぬことを口にしているな」
呆れたと溜息をつきながら金崎は続ける。
「惚れた女を諦める奴が何処にいる?」
金崎のタレ目気味の目が強い輝きを帯びる。惚れたという言葉は間違いなく本当だと分からせてくる。
「何故、そこまで…?」
「気になるか?」
口角が不気味に上がる。口にしなければ良かったことを口にしてしまったと思ったときには、既に遅い。
「お前は全てにおいて完璧、人生で失敗のない時間を過ごしてきたと自負のある人生をどのように思う?」
「分かりませんよ」
特に何も考えずに口にする。考える必要が無いほどに重い当たる失敗は山ほどある。
今回の失敗についても、だ。
「満たされるものもあるが、満たされないものもある」
「言葉遊びですか?」
付き合うつもりは無いと白聖は立ち上がろうとする。それを金崎の手が止める。
「そう焦るなよ」
「申し訳ないですが、そんな余裕はありません」
「ゆとりがないのは感心しないな」
注がれる苛立ちに蓋をし、努めて冷静に言葉にする。
「お言葉ですが、仲間を殺されて怒りも何も抱かないとお思いですか?」
「抱いて当然だな。目を見ていれば分かる」
「なら…」
白聖が言おうとした途上で金崎が言葉を被せる。
「だから、お前もそちら側になるつもりか?」
言おうとしていた言葉が喉元で詰まる。それを見て取った金崎はここぞとばかりに話を続ける。
「先の話に戻そうか」
勢いを制される形になった白聖は逃走を諦めて椅子に腰を下ろす。
「自尊心は満たされるが、退屈だけは満たされない。それに抗おうという気概を持つ人間であればそれが望ましい。だが、私も例に漏れず当初は完璧という自己満足に甘んじていたよ」
ここから先の話は有名な話だ。金崎が実力だけならばAグループ隊長を務められるほどの実力を有しながらもBグループに籍を置いている理由。
「だとしても、大胆が過ぎますよ」
思い出し笑い。自然と白聖の強張っていた表情筋が緩んでいた。
「今にして思えば、我ながら思い切ったことをしたものよ。若気の至りというものかな?」
口ではそう言ったところで金崎の容姿は見た目と釣り合っていない。
30代前半と言われているが、20代前半と言われたところで差支えが無いほど若々しい姿をしている。筋肉の付き方や動作、肌の色つや。どれを引き合いに出しても通用する。
「ただ、勢いは大事だろう?告白、プロポーズは」
「まあ、それは…そうですが…」
話をしていると金崎が言っていた情景がありありと再生される。
圧倒的な力量を金崎に見せつけた葵。
誇るでもなく、見下すでもなく、ただ淡々としていた。機械が必要な作業を当たり前のように実行したというように。
「まだ、やるか?」
勝敗は誰の目から見ても明らかなほどに圧倒的だった。
頬のかすり傷を除いてまともにダメージを受けていない葵と、至る所に切り傷を作っていた金崎。恐らく見えない箇所には打撲もあっただろう。
それほどまでに圧倒的な差を見せつけられて尚、金崎は立ち上がった。
誰もがその光景に息を呑み、不屈の闘志に目を見張った。
しかし、その感動的、魔王と勇者の対峙を思わせる光景を砕き捨てる言葉を、金崎は言った。
『結婚を前提に、私と付き合ってくれ』
葵は、面食らっていた。あんな顔は見たことが無かった。
彼女だけでなくあの場にいた全員が、何を金崎が言っていたのか理解が出来なかっただろう。
結果から言うと、中央からやって来てAグループ隊長就任を確約されていた金崎はBグループ隊長とその役目をトレードすることになり、当時のAグループ隊長が中央に異動という誰も予想していなかった締めくくりを齎した。
「しかし、気にはならなかったんですか?」
言葉を敢えて濁したが、意味は伝わったらしく金崎は口を開く。
「空から見た地球に国境がないのなら、愛を種などという些末な壁が妨げるか?」
正論なのかどうなのか分からないことを金崎は自信満々に言っている。ここまで堂々としていると、正しいことを言っているように聞こえるから不思議だ。
「結局、何を言いたいんですか?」
耐えかねて白聖は本題を言うように迫る。少しだけとはいえ声を荒げてしまったのに金崎は平然としているどころか、慈しむような目をしている。
「言うべきことは早々に言っておけという忠告だ」
一言残して金崎は立ち上がって出入り口に歩みを進める。
「死に急ぐのはお前の勝手だ。だが、その命がお前ひとりの物だと思い上がらないことだ」
もう用は無いとばかりに金崎は靴を履いて出て行った。
最後の言葉が、白聖の頭の中で反芻している。
「違う…。俺は…」
フラフラと歩いていると姿見に映った自分の顔と目が合う。
復讐、好意。混じり合わない感情。
憧れ、渇望。貪欲、執着。
「クソ…」
短く呟き、白聖はサンドバッグを思いっきり殴りつけた。
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