第73話 底辺6(九竜サイド)
コーヒーを啜る音だけが部屋に流れる。外に目をやると雨は既に止んでいて雲間からは日差しが漏れ出ている。雑音がなくなったせいで余計にこの静寂の中に流れる音が強調されている。
「わたしね、お父さんとお母さんがどんな人だったのか知らないんだ」
おもむろに馬淵が口を開く。沈黙に耐えられなくなったのか、この気まずい空気を少しでも変えようと思ったからかなのかは分からない。ただ、何も言わないべきだという事だけは分かった。
「物心ついたときには、自分が普通の場所にいないってことが分かった。大人がたくさんいて、子供がたくさんいて。周りは家族だって言ってたけど、わたしにはそうは思えなかった。変なことはされなかったよ?みんな優しかったから」
一気にまくし立てたせいかコーヒーを一口啜る。
「でも、どんなに優しくされても暖かくしてもらっても、満たされなかった」
「どうして?その話を?」
オレが問いかけると馬淵は顔を上げる。
「その話をするのはつらいだろ?」
彼女は力なく微笑んで答える。
「もう言っちゃたし、今更かなって…」
話させてしまったという方が適切だろう。罪悪感がより強くなる。
「本当にごめん。嫌なことを話させてしまって…」
「気にしてないって」
ばつが悪そうに馬淵は視線を逸らし、「でも」と言葉を続ける。
「今は話してよかったと思ってる。胸のつっかえが少しだけ取れた気がしてる」
左胸に手を当てながら馬淵は言う。
その清々しい顔を見て、羨ましいと思った。
しかし、それは自分が取ってはいけない選択肢。禁断の果実。
決して手にしてはいけないものだ。
「オレは…」言葉が喉まで出かかって止まり、代わりに涙が溢れる。
「いいよ。言わなくて。だから…」
迷って、選ぶことが出来ないオレに馬淵は責めない。
何を言われたところで文句を言えない立場にいるオレを労わるように言葉をかける。
「我慢しなくていい」
オレの傍まで近づき、抱きしめる。
暖かい、誰かの温もり。
ずっと忘れていたもの。
力強くないのに、抗えない。
少しずつ自分の何かが上書きされていく。
「ちゃんと受け止めるから」
その言葉でオレを止めていた何かが崩れた。
子どものように、負け犬のオレは慟哭した。
♥
「少しは落ち着いた?」
オレの顔を馬淵がのぞき込む。その拍子に銀髪が少し顔にかかった。
「…恥ずかしいところを見せちゃったな」
「泣けるうちに泣いておく。わたしはとても大事なことだと思うよ」
その言葉に間違いは無いと思う。
人は弱い。
初めは大したことはないことでも罅は徐々に広がって亀裂となり、最後は崩壊へと繋がる。
「ありがとう」
だから、この言葉に嘘はない。
死の淵からは救ってくれたからではない。
彼女の、嘘偽りのない温かさに救われたから。
「お礼はデートでしてね」
その言葉でオレは再び現実と責任に向き合わされる。
「なぁ」と馬淵に呼びかける。彼女は「何?」と返す。
「頑張るよ」
一言だけ。オレは言って馬淵の右手に手を握る。彼女も手を握り返す。
「うん」
それからもう少し談笑を交わして部屋を後にした。
♥
「ただいま」
「お帰り」
家に帰ると
時刻は19時に差し掛かる。既に入浴を済ませているらしくシャツとハーフパンツというラフな姿だ。マッサージ機に打たれながらビールを口にしている。
「何処行ってたの…って聞くのは野暮よね」
オレの姿を一瞥するなり百葉はそう口にする。
誤解していると言いたいところだが、行き先を一切言わなかった上に出かけたときと服が違うとなればデートと想像したところで不思議ではない。
シチュエーションを思い出すと、恥ずかしさで顔が赤くなる。耳の先端まで熱を帯びている。ここまで表情が顔に出たのも久しぶりだ。
「職場の人から電話があったよ」
テーブルの上に置いてある子機を指さす。聞かせたくない話もあるだろうからという配慮だと思い、子機を片手に自分の部屋に急ぐ。
自室に入ると葵の電話番号を打ち込んだ。向こうもオレが電話を寄こすことを予期していたようで時間を空けずに応答があった。
『応答があって良かったよ』
第一声は信頼の言葉だった。葵という人物の像から察するにこの状況は最初から見えていたように思えるが。
『ご迷惑をおかけしてすみませんでした』
対するオレの言葉は謝罪だ。醜態を晒した以上は当然といえるだろう。
『気にはしてないよ。最初はそうなって当然。こっちこそ傷を抉るような真似をして悪かったね』
『明日には、そちらに行きます』
『分かった』
『明日はよろしくお願いします』
断りを入れて電話を切った。直後に、手が震えた。
明日、小紫の太刀を手に取る。
決めたはずのことを前にしても、オレはまだ恐怖しているらしい。
「よろしく…か」
そう呟きながらオレはベッドに座り、正面の壁を見る。
部屋は電気をつけていないから暗く、少しだけ壁が見える程度の視界しか確保されていない。こうしてずっと凝視していると昔を思い出す。
1人で寝るのが怖くて誰かの傍にいて寝ていたこと、眠りに落ちるまでずっと見ていてくれたこと。
今となっては、もう怖くはない。だが、今は別のものが恐ろしい。
背負わなければならいもの、託されたもの、守るべき者。
少し前までオレの双肩には何もなかった。
今は、数は少ないにしても背負いきれるかどうか不安になってしまうほどの重さがある。
「やってみせるさ…必ず」
臆してしまいそうになっている自分に、そう言い聞かせた。
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