第72話 底辺5(九竜サイド)
ゆっくりと瞼が開いていくが、目に入ったのは全く見覚えのない木目の天井だ。自宅ではなく、病院でもない。何処か全く見当がつかない。
ゆっくりと体を起き上がらせる。力が入らないかもしれないと思って力みすぎないように配慮したが杞憂だったようだ。起き上がって自分の状態を知った。
服を着ていない。布団をめくると下は申し訳程度にタオルが巻かれていることが確認できた。
何があったか記憶の糸を辿るもすぐには思い出せそうもない。よって部屋にあるものからここが何処かを判断しようと決めて周囲を見渡す。
今いる部屋の広さは六畳ほどで目の前には押入れがあり、背後には窓がある。
襖を開けて外を確認すると見える範囲にテーブルとカーペット、パソコンとデスクが確認できる。寝室と居間と思われる部屋の色合いは白やピンクなどで彩られており額面通りに受け止めるなら、女性の部屋に身を置いていることになる。
「な…に⁉」
自分で推測した結論に絶句した。
女性の部屋にいることが理解できない。それ以前に見られたかもしれないという羞恥心が頭の中を光の速さで駆ける。
どのように謝罪すべきか、最初の言葉は何をかけるべきか。普段なら冷静に組み立てることのできる言葉が全く浮かんでこない。
そうこうしている間に鍵が開く音がした。耳にした瞬間に鼓動が一気に跳ね上がり、思考回路の全てが焦燥感に塗りつぶされる。
諦め、オレは土下座をする道を選んだ。
結局のところは何も言葉が浮かばなかったがためだ。我ながら自分の下げる頭には価値があるのかと疑問に思う。
襖が引かれて足が見えた。ダボっとした弁柄色のジャージと思われるズボンが最初に目に入った。
「この度は…誠に申し訳ありませんでした」
謝罪に対する言葉はない。恐る恐る顔を上げる。それに伴って足より上が見えてくる。
上も同色のジャージで袖から出る手は白磁と見まがうほどに白い。胸元にかかる髪は馬淵と同じぐらいに綺麗な銀髪だ。
そこまで容姿を見て、オレはガバっと顔を上げた。
目の前に居たのは、馬淵のような人ではなく当人だった。だが、オレが土下座をしている姿は理解し難い光景であるようで目をパチクリさせている。
気まずいを通り超えた空気がオレたちの間に流れる。
「うん…。分かったからさ、顔上げて。ね?」
状況を理解しようとしていることがわかると同時に、気遣いを多分に含んだ言葉をかけられる。
「いや…あの、その…」
先に続く言葉を言えないでいるオレに馬淵は目線を合わせて口を開く。友人とはいえこれほどの事態は謝罪をしなければならない。
「大丈夫だよ。ちょっとしか見てないから」
さっきと変わらない気遣う顔で馬淵は口にする。そこが大いに問題であるのだが。
「それよりも、これ」
話の流れを変えるように馬淵は買い物袋を俺に渡してくる。中身が何かは分からなかったが、とりあえず受け取って確認した。
白無地のカットソーに茶色のカーゴパンツが入っている。
「服がびしょびしょでしばらく乾きそうもないから急いで買ってきたんだ」
そこに至ってオレは自分が今置かれている状況を思い出し、平静を装うために早々に着替えることを選んだ。
終わるとテーブルをはさんで向き合う。
「ありがとう。料金は今度…」
「別にいつでもいいよ。大した出費ってわけでもないからさ」
馬淵はあっけらかんと言っているがそれはない。先ほど袋から見えた値札に記されていた値段は優に3000円を超えていた。学生にとっては無視できない大金だ。
「ところで、何でスーツで雨に打たれてたの?」
当然というべきかそのことを馬淵は訪ねてくる。
「…聞かないでくれるか?」
この言葉がどれほど失礼に値するかは言われるまでもなく分かっている。
助けてくれた上に家にまで上がらせてもらい、更には必要のない出費までしてもらっている。
「聞かないでもいいけど、九竜君は平気なの?」
「どういう意味?」
「言葉通りだよ?」
その意味が理解できずにオレは問う。
「だって、明らかに普通じゃないもん」
確かに言葉通りだ。だが、この問題に馬淵を巻き込めない。幸いにして彼女は何も知らないようで、黙っていればまだ凌ぎようのある状態のようだ。
「普通じゃないのが分かっているなら、話してくれると思う?」
「だから、聞いてる」
「助けてもらっておいて悪いけど、意味のない問答に付き合うつもりはないんだ」
立ち上がって玄関に向かおうとする。スーツはまだ乾いていないが、袋に入れれば持ち帰る分には問題はない。
「逃げるの?」
「逃げてない」
事実を指摘されて苛立ちが増していく。これ以上は口を開かないでほしいと願うも、こちらの一方的な都合を馬淵が聞いてくれるはずもない。
「じゃあ座って」
「何で?」
徐々に馬淵の目が鋭さを帯びてくる。普段見せている無邪気で明るい雰囲気は鳴りを潜め、闇夜で獲物を見つけようとする梟のように鋭くなっていく。
「放っておけないから」
言い訳に耳を貸すとは思えない。とはいえ、腕力に訴えるなど論外。それ以上に何が原因であんな醜態を晒してしまったかを言うことはもっとあり得ない。こんな場面は全くと言っていいほどに遭遇したことがないためどのように動けばいいか分からない。
「話さない…と言ったら?」
「待つだけだよ。話をする気になるまで、してくれるまで」
「オレが良くてもお前は困るだろ?」
「何で?」
「誰もいない家に年若い男女がいる。家族が目にしたらどうする?」
オレの言葉にずっと強気だった馬淵の目が急速に力を失う。
「…心配ないよ。家族は、誰もいないから」
口走って、思い出す。
馬淵と初めてまともに会話を交わした日、家族のことに話題が及ぶと彼女に影が差したことを。合点がいったときには、もう遅い。
「ごめん…。そんなつもりじゃ…」
「分かってるよ。わざとじゃないことぐらい」
わざとかどうか。それは問題ではない。
失った者の気持ちは、失った者が一番分かっている。
癒えぬ傷、消えない痛み、居座り続ける絶望。
今もずっとオレの内側に巣くっているもの。
分からないはずがない。
分かっていなければならなかったもの。
「わたしの方こそ、ごめんね」
聞く権利はある。助けた側なら事情を知るべきだろう。
謝る必要はない。謝るべきは、話すことが出来ないでいるオレの方だ。
「コーヒー飲む?」
馬淵は立ち上がって台所へ向かう。
「オレも…」
「お客さんに手伝わせるわけにはいかないよ」
悲しげな眼で馬淵はそう言った。
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