第3話 【文字化け】スキルの正体

 ナギは無機質な白い空間にいた。


 そこでパソコンの画面を見ながら何かをしている。


 電話、電話の音がする。嫌な音だ。休日だっていうのにどうして響くのだろう。でも、出ないといけない。仕事だから……

 何が楽しくて生きているのかわからない。自分の代わりはいくらでもいるんだとよく言われる。それはきっとその通りなんだと思う。でも、代わりがいくらでもいるはずの自分が、いくつもいくつも自分が抜けたら回らなくなる仕事を回されるのは、おかしい……おかしいのに、気づけない。


 疲弊しきった心身では思考能力もない。

 忙殺され続けて自分がだんだん何をしているかわからなくなってきていた。


 横断歩道、信号、赤だった気がする。歩いて、あ、またスマフォが振動してる。出ないと怒られる。いや、出ても、怒られるけど。何をしたって怒られる。報われない人生。


 だからきっと、願いが叶ったのかもしれない。


 ビルの立ち並ぶビジネス街、アスファルトの横断歩道は擦り切れていて自分みたいだと思った。

 甲高い音。スキーム音だ。急ブレーキの音。嫌な音。いい音かもしれない。そして、そして━━


 ナギは死んで、生まれ変わった。

 そのことを、ようやく思い出した。



「お兄様、実力差はわかったでしょう? ソラは【魔神】。あなたは【スカ】なのよ。力づくでソラから逃げられるわけがないの。大人しく、ソラの側仕えとしてやしきに残ると誓いなさい」


 なんだっけ。

 ナギはふらつく頭で考える。五体はまだある。体も多少焼けているけど動くのに問題はない。

 ああ、そうだ、魔術だ。火炎の魔術を受けて壁に叩きつけられている。どこも欠損していない。生きてもいる。【魔神】の攻撃を受けて! めちゃくちゃ手加減されているのがわかった。


【魔神】の本気はあんなもんじゃない。

 ただ一節の詠唱で邸一帯を吹き飛ばすこともできるだろう。


 たとえば、こんなふうに。


「『アスファルトには無数のわだちが刻まれている』」


「【魔神】に魔術で抵抗なんて━━!?」


 ソラがおどろいた顔をして魔力膜を展開した。

 ナギから放たれた魔術に、意識して防御する必要性を覚えたからだ。


 この世界はスキルがすべてだ。

【スカ】の魔術など、【魔神】が無意識に垂れ流している魔力にかき消される。

 しかし、今の魔術は……


 今の魔術は、


「なんなの、今のは!? 呪文もそう! 何属性の魔術を使ったの!?」


 魔力量、魔術の脅威度、呪文に使われている言葉からして、ソラの理解の範疇にないものだった。


「『医療控除の恩恵は大病の時にこそ身にしみるものだ』」


 理解できない呪文を唱えたナギの体が回復していく。

 あふれ出る魔力量、ただ一節の呪文の効果。それらすべては、まるで……


「お兄様も、【魔神】なの?」

「いいや。ああ、でも、今は確かに、僕も【魔神】だ。……ようやく読めたんだ。【文字化け】が。ははは……なんてことだ。これは、日本語・・・だったんだよ」

「……先天スキル!?」

「うん。だからもう、お前に力づくで止められたりはしない」

「目覚めたのね!? それで【魔神】のソラに対抗できるほどのスキルなんだったら、家に残ることも……」

「いや」


 ナギは首を振った。

 それは、自分のスキルを表した文字を読むことができて、自分の先天スキルを理解した上で、それでもこの家に残るには不適格だと思ったからだ。


 けれど、不適格というだけではソラを納得させられないこともわかっていた。理屈じゃない。感情だ。ソラの感情にぶつけて圧倒するだけの、強い感情が必要だ。

 だからナギは、あえて、こう述べた。


「僕は自由になるよ、ソラ。この家からも、お前からも。それが僕の『したいこと』だったんだ」


「じゃあ、やっぱり、力づくになるのね」


 ソラから発せられる魔力が段違いになる。

 部屋の中だというのに吹き出す魔力だけで突風が起こり、置いていくしかなかった家財道具も、置いていくと決意した先生たちのお土産も、すべてすべてガタガタと震え始める。

 この部屋は戦うには狭いし、妹は理屈でも気持ちでも魔力をおさめてくれない。

 力でねじふせるしか、ないらしい。

 だからナギは移動することにした。


「『線路を滑る鉄の箱が労働力を運搬していく』」


 フッと二人の姿が消えて、邸の中庭へと出現する。


「転移魔術!?」


 その難しさはソラも知っている。

 なにせ『この文言なら人を運べる』というような呪文を編み上げられないからだ。

 風属性を得意とする者の中にはうまく呪文を組み上げて転移を実現する者もあったらしいけれど、多くの人は『どこかからどこかへ、一瞬で移動する』というイメージができない。


 気づけば中庭にいて、思い出の木がそこにある。

 教師から逃げた兄と、それを待ち受けていたソラの思い出の木。


 その向こうで、兄は静かに語り始めた。


「アンダーテイル侯爵は、僕に出て行ってほしいと告げた。このままだと期待を裏切った僕を恨みそうだから、そうしてほしいと。僕はそれに納得した」

「……」

「僕は彼に同情してしまった。それに、家を離れて新しい生活を始めるのにワクワクもしている。だから、出ていくつもりでいる」

「……」

「正直に言えば、お前の将来にとって僕の存在が邪魔なのも、僕が出て行く理由の一つだ。【スカ】の兄なんかいないほうがいい。アンダーテイル侯爵がどうにか『いなかったこと』にしてくれるらしいから、それに委ねたほうが、お前の人生がうまくいくと思った」

「そこに、ソラの気持ちはないわ」

「そうだ。お前の気持ち『だけ』がない。他はみんな納得しているのに、お前の気持ちだけが、引っ掛かっているんだ。理屈を説いても、僕の気持ちを告げても、お前だけが納得しないから、僕はまだここにいる」

「そうよ」

「だからもう、力を示すしかない」


 侯爵邸の中庭には大きな一本の木があった。

 それはあの日、小さかったナギが隠れ潜んだ、青々とした葉がたっぷりとついたものだ。


 夕暮れはすでにかげりかけていて、じきに夜がおとずれるだろう。

 どこからか吹いていた風がピタリと止まって、ナギとソラは思い出の木を挟んで向かい合っていた。


 凪の時間がおとずれた。

 葉擦れの音さえ消え果てる。


 先に行動をしたのはナギだ。

 なぜなら、時間の経過はソラのほうに味方するのを、【文字化け】スキルを読み解いたことによって認識している。


「『ニュートンに曰くすべてのものは引き合うとされている』」


「『赤い光がすべての輪郭を消し去っていった』」


「『これは万有引力に唾吐く行為だ』」


「『誰も彼もが融け合って人の境が消え去っていく』」


「『リンゴは空に落ちるだろう』」


「『人々は赤い輝きの中で一つになるだろう』」


 互いにどこか、互いの詠唱が止まるのを期待しているようだった。

 互いにどこか、相手に『どうか、ここで退いてくれ』と願うような目をしていた。


【魔神】同士の詠唱が三節を超える。それはすなわち地形を変える結末を予感させるものだった。


「ナギ! ソラ! 何をしているッ!?」


 うずまく膨大な魔力を受けて飛び出してきた父カイエンが叫んだ。


 ━━ごめんなさい父上。


 ナギは心の中で謝罪した。


 もっとうまく出て行きたかった。ソラがきっと納得しないだろうから、引き止められる前にさっさと出て行くべきだったのだ。

 でも、長年使った部屋を前に、ちょっとだけ思い出にひたってしまった。それがソラを間に合わせた。だからこうなっている。


 しかもこれは、『無事でやっていけるよ』と言うために力を示す戦いではないのだ。

『出て行くのを認めない』と力づくでこちらを抑えつけようとする貴族様に、こちらも力で対抗しているだけの、本当に無駄な戦い。

 きっとソラを無視してカイエンのところまで逃げれば、丸くおさまった可能性もあったのだろう。


 でも、ナギは力に力で対抗することを選んだ。

 なぜならば━━


「誰かのオーダーをこなすだけの人生はもうやめた。お前を倒して僕は、自分の生き方を自分で決めるよ」


 ━━これは、自由を勝ち取る戦いだから。


「お兄様はずっとソラの側にいるの! 『燃え爛れ癒着せよ』!」


「『すべてのベクトルは一つのところへ向いていく』」


「ソラ! ナギ! ……ナギッ! やめろ! 頼むからやめてくれ!」


「『夜を滅すは真紅の輝き』!」


「『重苦しき闇が夕暮れを呑み干した』」


 ソラの全身から噴き上がる魔力が、めらめらと燃えて美しいおおとりの姿となった。

 空気さえも融解させながらバチバチきらめいて、一つ甲高い声で鳴くと、真っ直ぐにそのくちばしをナギへと向け、飛翔する。


 ナギの頭上には暗黒そのものが球体となって顕現していた。

 それはあたりにあるものを根こそぎ吸い込み始め、葉も、枝も、木さえも地面から引き抜き、どんどんあたりを更地へと変えていく。


 放たれた真紅の鳳が、球状の闇へと激突した。


 接触の瞬間に発された衝撃でやしきのほうへ吹き飛ばされたカイエンは、慌てて防御のための魔術を唱える。

 その文言は質実剛健だ。華美さこそないがすぐさま魔術となって邸全体を包み込んだ。


 その一瞬あと、鳳と暗黒球の激突の結果が出る。


 カイエンは、我が目を疑った。


 あたり一帯が消え失せるかのような衝撃の結末としてはあまりにも━━瑣末さまつ


 ナギとソラのあいだにあった木が一本、跡形もなく消え失せているだけ。

 芝生もある程度はげてそこらじゅうに穴や焦げ跡こそあったが、あんまりにも小さな破壊のあとは、逆に『おかしなことが起こった』とカイエンの背筋を冷やした。


「全部壊していいと思ってたのに」


 ソラがつぶやく。


 ナギが笑う。


「そうだろうと思ったよ。だから、全部守った。守りきれなかったものも、あったけどね」

「……どういう魔術なの? ……いえ、いいわ。それはもう、お兄様のオリジナルだものね。そんな秘奥ひおうを『他人』に教えるべきではないわ」

「……ソラ、僕は……」

「出て行くなら早くしたほうがいいわよ。今のあなたからは、さっきまでの圧力を感じないもの。これからもう一度やったら、わたくしが勝つのではなくて?」

「……ソラお嬢様。カイエン・アンダーテイル侯爵。……本当に、本当にお世話になりました。あなたたちのしてくれたことは、無駄ではありません。これから僕が生きるために必要なかてになります。得難い、貴重な糧に……」

「どうでもいいわ、そんなこと」

「……最後に一つだけ、お返しさせてほしい。きっと、ソラお嬢様と僕の【教導】なら、すぐに覚えられる」

「……なにを?」


 ソラが不審がっていると、ナギが近づいてくる。

 うやうやしくひざまずいて、丁寧に手をとった。

 そして、


「【狩猟聖】のスキルをソラ・アンダーテイルに【教導】する。暗殺警戒のためだ」

「…………!? お、お兄……」

「僕の文字化けスキルは【複写copy】だ。今までアンダーテイル侯爵が僕につけてくれた先生たちのスキルが、僕の中にストックされている」

「……でも、出て行くのね」

「うん。このスキルはさ、同じ人からは二度と複写できないし、一度教導か使用するともう使えなくなるんだ。使うにしたって時間制限もある。僕の力は人から不正に奪った偽物なんだよ」

「……つまり、わたくしが負けた相手は、わたくしだった」

「ソラお嬢様の【魔神】は、強かったよ。あなたがスキル習熟を進めれば、もう勝てなかった」


 劣化コピーの偽物。

 一度使えばなくなるスキルを保持し、しかも『一度使うとなくなる』という性質のせいで習熟もできない。

 父のように努力することができない。努力という才覚が、自分にはない。でも……


「……僕の中にあるだけじゃあ偽物のこのスキルたちは、誰かに教導すれば本物になるんだ。だから僕は、教師をやろうと思う。紹介もしてもらったしね」

「ソラの家庭教師として……」

「……お嬢様」

「冗談よ」


 絶対に半分以上本気の物言いだった。


 まあ、ここにいるというのも、選択肢の一つではあるだろう。たしかに家庭教師としてのナギは有能だ。【教導】もある。【複写copy】もある。それはアンダーテイル侯爵が金を払うに足るものだろう。


 でも、行く。


「僕は、自分でやるべきことを見つけたいんだよ」

「だったらいつまでも手を握ってないでさっさと出て行きなさいよ」

「そうだった。じゃあ━━ああ、カバンは部屋の中か」

「持って来させるわ。どうせわたくしも部屋に帰るもの。それとも、平民のあなたは、侯爵令嬢に見送らせるつもり?」

「……いいや」

「ふん。身の程を知っているようでなによりだわ」


 わざとつっけんどんに言っているのが微笑ましくて、ナギは笑ってしまう。

 ソラは唇をとがらせて、そして、ナギに背を向けた。

 父の横を通って邸へ戻る、その直前……


「また会いましょう。あなたが生涯を捧げたいと思える令嬢に、きっとなるから」


 ソラが邸へ消えていく。

 夕暮れはすっかり過ぎ去って、あたりには夜のとばりが降り始めた。


 妹の髪や目と同じ色の時間帯だ。


 思い出の木はもうない。あっても、夜の闇の中では見えなかっただろう。

 先ほどまではわずかにあった未練も、思い出の木と同じように消え失せていた。


 カバン一つで家を出る。

 その道行きは暗くてよく見えないけれど、先にある闇は重苦しくはなかった。

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