第2話 アンダーテイル家

「……お前を呼び出した理由については、心当たりがあることだろう」


 重い重い扉を開けた先には、さらに重い空気があった。

 父の書斎は壁に沿うように本棚が立ち並んでいる空間だ。『魔導のアンダーテイル』が誇る知識たちが、父の背後からナギを威圧してくる。


 父は疲れ果てていた。


 重厚なウッドテーブルに両肘をのせ、こまねいた手に額を乗せ、顔を隠すようにしている。

 非才にして最優の魔術師。アンダーテイル侯爵家を継ぐ鋼の男。才覚に恵まれず、しかし努力によって名家の名を守ろうとする父は、見たこともないほどにやつれていた。


「……ナギ、私は、お前を愛している」

「……はい」

「覚えているか? お前の母は、お前が三つの時に亡くなった。ソラはずいぶん、妻に似たな。お前は……私に似てしまったのかもしれん」

「……」

「愛しているとも。その絆は、お前が……【スカ】だとしても、変わらない。もちろん、【魔神】を差し置いて魔導の家の家督を継ぐことはならんだろう。それでも、お前は私の息子だ。愛した妻の遺した二人の子のうち、一人だ」

「父上……」

「……わかっている。わかっているんだ。潜在スキルも、先天スキルも、当人にはどうしようもない神のおぼしで、お前は何も悪くないし、お前への愛情も変わるべきではない。わかっているんだ」

「……」

「けれどな息子よ。私は……どうしようもなく、人間なのだ」


 父が顔を上げる。

 そこに貼り付いた笑みは、卑屈で、奇妙で、それから泣いているようにも見えた。


「お前の才覚への期待。お前にたくさんの教師をつけたこと。すべて私が勝手にしたことだ。先天スキルを与えたのも神なら、潜在スキルをあたえたのも神で、これは、お前にはどうしようもないことだと、わかっている。わかっているんだ……!」

「……」

「けれど、どうしても、どうしても……『許せない』と思ってしまう、醜い私の心をどうか、許してくれ」

「父上……」

「お前に見た夢が裏切られた傷心に、私は耐えきれそうもない。……本当に勝手なことは理解しているが……お前を恨んでしまう前に、この家から追放しようと思っている」


 唐突に告げられた言葉に、ナギはおどろくよりも、憐れみを覚えていた。

 父の言う通り、ナギに過失はない。すべては神の思し召しで、どうしようもないことだ。

 けれど、父がどれだけ自分に期待をかけてきたかもナギはわかっている。その期待が裏切られたつらさは想像さえできないけれど……

 父は充分に、理性的な決断をしたと、思う。

 今にもはち切れそうな心に耐えて、必死に理性的であろうとしているのが、痛いほどに伝わってくるから。


「……ナギ、お前がこれからアンダーテイル姓を名乗ることは許さない。ただの、平民の『ナギ』として生きていくのだ」

「…………はい、父上」

「お前とは親子の縁を切る。侯爵家から【スカ】が出たと知られれば、ソラの将来も危うくなるだろう。知っての通り、スキルは継承すると言われている。【スカ】が継承した例は知らぬが、イメージがあり……お前と縁を切れば、『なかったことにする』のも、間に合うだろう。我が家に子はソラ一人だけだったのだという、工作が……今となっては、ソラの将来を不安にする要素は極力排除すべきだと思っている。……わかってくれるか?」

「はい、父上」


 ずっとずっと、父は強く厳しい男だと思っていた。

 わがままも言わず、重厚な雰囲気を常にまとい、努力を怠らず、才能というものにおもねらない、立派な━━立派な『だけ』の、男だと。

 その父が初めて見せた情けない姿に、ナギは悲しみや怒りを覚えるより早く、この憐れでかわいそうな人をなぐさめてあげたいと思った。

 初めて父を、『人間』だと思えたような気がするから。


「……ソラにも、愛情を注ぐべきだった。私は……私は、才能がほしかった。本当に、ほしかったんだ」

「……」

「お前には、紹介状を持たせる。【教導】のスキルはスキルを人に移すだけではなく、教師としての適性も保証するものらしいから、やってみるといいだろう。幸いにも【教導】以外には条件を問わない厄介な案件がある。ただ、その紹介状を利用するかどうか、すべて、お前に任せようと思う」

「……わかりました」

「すぐにでも、荷物をまとめて出て行ってくれ。今後、私のことは『アンダーテイル侯爵』と呼ぶように」

「わかりました、アンダーテイル侯爵」

「うむ。では、退出してよい」

「はい」


 ナギは平民が貴族にそうするように、片膝をついて礼をし、部屋を出る。

 分厚く重い扉から出て、それが閉まる直前━━


「……すまない」


 己をどうしても律しきれなかった男の泣き声が聞こえた気がした。



 執事たちは事情を知っていたようだけれど、それでもナギにつらくあたることはなかった。

 今までと同じように気づかってくれて、今までと同じように尊重してくれている。

 ただしもう『ぼっちゃま』とは呼ばれない。『なぜか侯爵邸に居候している平民のナギさん』の荷造りを厚意で手伝ってくれているだけの人たちなのだ。


 ナギの部屋にはたくさんの荷物があった。

 それはほとんどがナギにつけられた教師たちのお土産だ。

【スカ】の自分が所持するにはもったいない、きらびやかな宝物たち。ナギはこれらすべてを侯爵家に寄進して、自分は与えられたお金と、簡単な剣、そして母の形見のアミュレットと、他にはしばらくの生活に必要なものだけをまとめた。

 カバンは大きいものになった。けれど片手で持ち上がる程度のものだ。そこにナギの『これまで』が入ってしまって、あとはもう、出て行くだけになった。


 潜在スキル鑑定の直後には目の前が真っ暗になってしまって、気づいたらやしきにいて、すぐ父に呼び出された。

 前後不覚の状態でも部屋まで戻ることのできた家とも、もう、さよならだ。

 最後に焼き付けるようにナギは自室だった場所を見た。二度と戻ることのない部屋には、二度と使うことのない家具が並んでいる。


 窓からは夕陽が差し込んでいて、すぐにでも夜になるだろう。


 けれどナギはすぐに出ていかなければならない。今日はどこかで宿をとってアンダーテイル城下町で夜をすごさないと……


「お兄様!」


 部屋の扉が乱暴に開かれて、慣れ親しんだ声がした。

 真っ黒な髪に真っ黒な瞳、真っ黒なドレスをまとった妹には、血のように赤い夕暮れがよく似合う。


 ナギは目を細めて妹を見た。夕日を背負っているのは自分のほうなのだけれど、照らし出された妹のほうがよっぽどまばゆく見えたのだ。


「お兄様、家を出て行くと聞いたのだけれど、本当にそうするつもりなの?」

「うん。僕は家を出るよ。【スカ】が侯爵家にいるわけにもいかないし、アンダーテイル侯爵には職の世話もしてもらって……」

「『アンダーテイル侯爵』!?」

「……ああ、その、そうだ、お前……あなたのことも、ソラお嬢様と呼ばないと……」

「どうしてそんなにすぐに切り替えられるの!?」


 感情の発露にとぼしいソラがここまで大きな声を出すのだ。きっと、受け入れ難い不可思議がそこにあるのだろう。

 ナギは考えた。たしかに、切り替えが早い。言われて、受け入れて、ショックに沈み込むこともなく……いや、ショックではありつつも、こうしてもう家を出て行こうとしている。

 その理由について悩んで、一つだけ、それっぽい理由を捻り出すことができた。


「……僕は昔から、どうにも、この世界が現実じゃないような、そんな気持ちになることがあったんだ。だからたぶん、受け入れて切り替えられているというよりは、単純に、実感がないだけなのかも。あとからすごく後悔したりして」

「お父様はソラが説得するわ。だから、出て行かないでよ……」

「それはできないよ。僕が出て行かなければ、きっとひどいことになる。……アンダーテイル侯爵も人間で、僕に期待をかけたぶんだけ、僕を恨みそうになっているんだ。それを必死に理性で抑えてはいるけれど、いつまでもつか……それに、【スカ】の双子がいるっていうのは、ソラ……お嬢様の将来にとって、よくない。今なら工作で僕はいなかった扱いにできるらしいし……」

「そんなのはお父様の都合でしょう!? お兄様は悪くないじゃない!」

「僕はたしかに悪くない。でも、アンダーテイル侯爵もきっと悪くない。だからこれは、まあ、『しょうがなかった』んだと思う」

「どうしてそんなに、物分かりがいいの……?」

「……生まれつき先天スキルがあったせいで、僕はずっと『期待』されてきた。それがなくなって、身軽になるのが、楽しみだから、かな」

「……」

「初めてなんだよ。『僕の自由にしていい』っていうのは。ずっと先生をつけられて、毎日毎日ぎっしりとスケジュールがあって、そういう人生だったから。自由時間が与えられて……なんだかとっても、気持ちが軽いんだ。カバン一つ以上の重荷がない軽さは、クセになりそうなんだよ」

「お兄様、」

「ソラお嬢様」

「……」

「今までお世話になりました。……これからあなたは、きっと、多くの期待を受けることになるでしょう。でも……たまには逃げて、木登りなんかしてみても、いいと思います。僕は……僕はあなたを見つけられませんけど、きっと、あなたを見つけてくれる誰かが、そのうち現れると、思うから」

「……」

「失礼します。本当に、お世話になりました」


 ナギは一礼してすれ違おうとする。

 その手首を、ソラがつかんだ。


「認めないわ」

「……ソラ」

「ねぇ、ナギ」

「……なんでしょうか」

「あなた、平民になったのよね。ソラは、侯爵令嬢なの」

「……そう、ですね」

「だから、ソラが命じます。わたくしに仕えなさい。わたくしのそばについて、わたくしを支えるのよ」

「……ソラ、だからさ」

「口答えしないで」

「……わかってくれよ」

「黙りなさい。……ねぇ、あなたが出て行くのは、お父様の命令でしょう? あなたは納得してるし、きっと事情もあるのでしょう。メンツの問題とかね。わかるわよ、ソラだって。まったく勉強してないわけじゃないんだから」

「だったら……」

「でも、あなたたちの決断に、ソラの気持ちは関係ないじゃない」

「……」

「縁を切られて平民になる? 結構よ。大変、結構。じゃあ、ソラは侯爵令嬢の権限であなたを召し上げます。ソラを無視して勝手に話を進めて、ソラのためだなんていう顔をしてわたくしをたしなめようとするなんて、どこまで身勝手なの? わたくしの気持ちも考えなさいよ。出て行くなんて認めない。お兄様はずっとソラといっしょにいるのよ。ずっとずっと、いっしょなの。だって、双子なんだから」

「……それでも僕は出て行くよ。それが僕ら全員にとって一番いい選択だと思うから」

「なら、力づくね」


 ソラが綺麗に微笑んだ。

 夕暮れが赤々と彼女を照らしている。

 色素の薄い唇も、紅を引いたみたいに赤い。

 それが、なまめかしく動く。


「『黄昏はすべてを赤く染め上げた』」


 ━━詠唱。

 魔術というのは詠唱を経て起こる超常現象だ。その文言については効果を察しにくいように各人が調整し、オリジナルのものを編み上げ、同じ呪文の使用さえも控える。

 もちろんある程度ふまえなければならない法則は存在する。たとえば炎の魔術を扱うならば、温度か赤系統の色を詠唱の中に織り込まなければならない。なにより本人が『この文言でこの現象が起こる』と納得する必要もある。だから、心象風景、原風景が呪文には出ると言われていた。


 そしてどのような魔術が発動するのか判断するために、もう一つ重要なファクターがある。

 それは詠唱の長さで、今唱えられたのはたった一節の、火炎を放つだけの呪文だった。


 しかしそれは、ナギの胸の上で弾けて、十五歳の少年の体を軽々吹き飛ばし、壁に叩きつけるほどの威力となった。


「がはっ……」

「ねぇ、ソラを無視しないでよ。お兄様だけはソラを見てくれたじゃない。ソラと遊んでくれたじゃない。だっていうのに、お兄様にまで無視されたら、ソラはどうしたらいいの? ソラは本当にここにいるの?」

「もう……誰も、君を、無視、しない……!」

「それはソラを見てるんじゃないわ。【魔神】を見ているのよ。スキルを手に入れたとたんにこっちを見てくる人なんか信用できない。ソラがソラであっただけの時のソラを見てくれたのはお兄様だけじゃない。ずっとソラを見ててよ。遠くに行かないでよ。ソラはお兄様の前でだけ、ソラであることを認められるっていうのに」

「……ソラ……」

「どうしても行くっていうなら、両手足をもぎとってお人形にしてあげる。『夕暮れは影を消し去るほど強く輝いた』」


 ナギの目の前に出現した火球が弾ける。

 衝撃にのけぞろうとし、しかしすぐ後ろは壁だった。


 流しきれない強い力がナギの全身を叩き、そして……


 ナギは、思い出した。


━━━━━━━━━━

次回更新は同日15時

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