第4話「廃墟の女幽霊 その3」

 廃ホテルは入り口からして気味が悪かった。

 自動ドアは不埒ふらちな侵入者が多かったのかガラスドアが片方だけ無遠慮に開かれ、中から不気味な空気が出てきている。

 土埃が周囲につもり、本来の鮮やかであったろう群青色の床は見る影もなく、ほとんどが灰色に染まっていた。

 そんな灰色の床にはいくつもの足跡がついている。大方、肝試しとかいう正気の沙汰ではない行いをしに来た者たちのものだろう。


 急いで取り出した携帯のディスプレイの僅かな明かりでそれだけの情報を得ながら、俺は後ろを警戒しつつ廃ホテルの中へと飛び込む。

 

「うおりゃ!」


 自動ドアのガラスを閉めてすぐには追ってこれないようにする。

 すると、そこである事実に気づき、俺は悲鳴をあげそうになった。


 そのガラスには人の手形てがたがべたべたと付いていたのだ。

 開ける為、出るときに閉めるだけなら、手形はこちら側には付かない。これは誰かが、外の脅威から逃げる為に内側から、ちょうど俺と同じように閉めなきゃつかない跡だ。


「や、やはり、外に何かいるのか……」


 だが、逆に考えるんだ。外から内に逃げ込んだなら、廃ホテルという不気味さはあるが安全なはず……だよな。


 自動ドア越しに外を確認し、何も来ていないことを確認すると、俺はネルを探す為、廃ホテルの内部へと進んで行く。


 携帯からライトのアプリを起動させ、しっかりとした明かりで周囲を照らす。

 一階ロビーにはホテルらしくフロントにカウンターと思しきもの。それから広い空間が続く。たぶん経営していたときは待合所か喫茶店にでもなっていたのだろう。

 ライトを床に向けると無数の足跡。

 その中の一つがネルのものだろう。そして、足跡は四方に散らばりつつも最終的にはどれも同じ方向に向かっていることから、幽霊が出ると言われている場所はある程度決まっているのだろうと推測できる。


 足跡を頼りに進むが、もちろん周囲の警戒は忘れない。

 ところどころ欠けた壁、ざらざらとした感覚が靴越しにまとわりつき、空調が一切効いていないせいで呼吸の度に埃っぽい臭いが鼻孔へ流れる。ずいぶん長い事使われていないホテルだというのが五感を通して理解できる。


 足跡は階段に続いていたのだが、多くの肝試しやらに来た者が通ったのか階段の埃はほとんどなく、ここから先は足跡を辿ることは困難だった。


「嘘だろ。一階ずつ見ないといけないのか……」


 1つ階段を登っては廊下の方へ顔を出す。

 廊下には再び埃が積もっており、足跡が確認できた。


「2階は足跡が少しだからたぶん違うな」


 いつかネルの方から気づいてくれるのではないかと声を出しつつ足跡を確認する。

 廊下の足跡が多ければたぶんネルがいる階だろう。


 3階を経て、4階に辿り着くと、そこの廊下には多くの足跡が残っていた。


「ふぅ、ようやくたどり着いた。そろそろネルと合流できても良い気がするんだが……」


 4階の廊下に出ようと思ったその時、再び耳元で「たすけて」と女性の声が。


「うわああああっ!!」


 不意の囁きに慌てて逃げ、5階、6階へと駆けあがる。


「痛っ……」


 左目が再び痛み始める。出血でも伴っているのではないかと目を押さえるが、出血を伴っているか確認する暇なんてなくて、そのまま一心不乱に走り続けた俺は壁へと追突する。


「くっそ。なんだ、おいおいおい。か、壁。最上階か!?」


 どうやら6階が最上階のようで、いよいよ追い詰められた。

 どうする? どうする?

 考えを巡らせる時間を確保する為、跳ねるように体の向きを変えて、とりあえず6階の廊下へ避難すると、


「嘘だろ……」


 思わず息を飲んだ。

 そこには黒髪の女性。長い髪で顔は隠れどんな表情なのか知るすべもなかったが、それでもなぜか、憎悪の念を向けていることは理解できた。


「ミタナ」


 性別も分からないガラガラの喉が焼けたような声。

 手にはナイフと思しき刃物が煌めく。

 その女性の足元には人が倒れているように見えた。


「ネ、ネルなのか?」


 ナイフを持った女性はゆらゆらとこちらへ近づく。


 やばい、逃げないと。でもネルを置いて?

 女性がさらに一歩近づくと、俺も一歩後ずさった。

 

 一歩。


 一歩。


 一歩。


 黒髪の女性との距離は縮まることも開くこともなかったが、トンと背中に硬いものが触れ、俺は息を飲んだ。

 ガラス窓がはめ込まれた壁が後退を阻んでいる。


 こ、これ以上、さがれない! 


 前からは恐ろしい女の幽霊がナイフを持って迫ってくる。

 俺の目の前までくると、口角がニチャリとあがり、ナイフを持つ手を引く。  

 一切の躊躇なく突き刺そうとしてくる。


 あ~っ! もうっ! 無理ムリムリムリムリ無理むりむり。――ブチッ。


 恐怖によって、俺は無心で手が出た。

 正確には足で、相手のナイフを蹴り上げた。


 相手がこう動いたからこうしようという思考は一切なく、身体が勝手に動いた。

 跳ね上がったナイフは宙を舞い、後方の床へと突き刺さる。

 女幽霊が驚いたように顔を上げる中、俺の拳が急所のひとつである顎を捉える。


 女幽霊はまるで肉体を持っているかのように、そのまま吹っ飛んで倒れる。

 生きているかのようにピクピクと時折体を痙攣させているのが恐ろしい。

 その様を見て、我に返った俺は絶叫を上げた。

 大声選手権に出れば優勝できそうな程の絶叫を。


「おっ!! 愛しのハニーはこっちか? ようやくエンカウントできる!!」


 階段から猛スピードで現れたのは、ライトアップされた決め顔のネル。

 その突然の登場に俺は悲鳴を飲み込みながら、その場で尻もちをついた。


「あれ? 万二ばんじ。なんでここに? ハニーは?」


 俺はすぐさまネルを盾にするように後ろに隠れてから、先ほどの女幽霊を指差す。


「いや、あれ、人だよな。大丈夫なのか? い、生きてるか?」


 ネルと俺はおずおずと女幽霊に近づき、ネルは生死を確かめ、俺はトドメを刺さないといけないかを確かめた。


「なんだ? カツラを被ったおっさん? それに、そこに横たわっているのは」


 俺に殴られてのびていた女幽霊をよくよくライトで照らしてみると、大きめのTシャツをワンピースのように着て、長い黒髪のカツラを被ったおっさんだった。


「う、うぅ、クソッ!」


 意識を取り戻したおっさんは床に刺さるナイフを拾い、こちらを睨み付けてきた。


「なんだぁ。おっさんか」

「コワッ! ナイフ持った不審者かよ!」


 俺とネルは同時に真逆のセリフを述べた。


 先ほどとは一転し、ネルは俺を盾にするよう後ろに隠れる。

 ネルの安全が確保されると、俺は一歩一歩と近づく。

 対しておっさんはジリジリと後退。

 追い詰めすぎると反撃に出るだろうから、これくらいが潮時かな。


 俺はさらに一歩。

 おっさんも後ろに一歩下がり重心が後ろに乗ったタイミングでタックルを仕掛ける。

 体を低くし、相手の脚を刈り取る。

 両足が地面から離されたおっさんはたまらず床に倒れ込む。


「万二、そのまま拘束してくれ! こんな廃墟で襲い掛かってくるとか尋常じゃないだろっ!」


 俺は言われるがままにおっさんを拘束。ナイフを持つ手を捻りナイフを捨てさせる。

 武器も無力化しつつ、驚かされた怨みも晴らすようにかなり痛くする。そうして、一ミリも動けないようガッチリ締め上げた。


「良しッ! いいぞ万二!! そのまま押さえとけ!」


 急に強気になったネルはその間におっさんの側で倒れていた人物の安否を確認する。


「女性だ。良かった。生きてる。そのおっさんが誘拐してきたのか? もしかして、ここに幽霊の噂を流したのも人払いの為か?」


 そんなことを呟きながら、ネルは警察と救急へ電話を掛けた。


              ※


 俺たちは警察から事情聴取を受け、廃墟への不法侵入の小言も受けてから解放。

 数日後、昼頃にネルがやっぱり突然訪れると、新聞記事を手渡す。


「警察って全然関係者にもその後の情報とかくれないんだな。おかげでオレが調べることになったんだが、どうやらあの不審者のおっさん、話題となった動画に映ってた幽霊と思しき者の正体らしいな。あの廃ホテルで人を襲っているところを偶然撮られたみたいだが、そのおかげで逆に人払い兼見つかったときに幽霊だと誤魔化すのに役だっちまったらしい。で、更に災いしたのが、人を攫いに行かなくても、肝試しにきた女性を襲えるようになったことだな」


 ネルはことさら不愉快そうに眉をひそめる。


「全部人が作ったデマだった訳だ。三次元の女性どころか女性ですらなかったとか笑えないね。そもそも階段のところに埃がない時点で階数をごまかされている可能性は考えてたから全階マッピングしてたんだが」


 そんなネルとは反対に、俺の心中としては幽霊がいなくて良かったという事と、女性を助けられて良かったという二点だった。

 そんな安堵感から、俺はネルが居ない間の出来事を漏らす。


「いや、でもあのおっさん、すごいな。脅かして去ってもらう為だと思うが、ネルの車の中に俺に気づかれず乗ったり、俺の全力疾走より早く階段登ったりしたんだぜ」


「は? なんだそれ? お前より早く? どうやってだ? 暗がりとはいえ、階段で追い抜いたら分かるだろうし、エレベーターは動いてないし、気づかれずに回り込むのは無理だろ」


「え? じゃあ、あれは……。そう言えば、服装も、髪も違ったような……」


 体中の血の気が引いていくのがわかる。

 ネルの持ってきた新聞の被害者欄にあの日見た女幽霊の姿が。

 バストアップ写真だが、それでもあのときと同じリクルートスーツだということが分かる。


「ん? 万二どうした、そんな陸にあげられた魚みたいにパクパク口を開けて。この写真の女性がいた? ハハハッ。それじゃあ、ホンモノの幽霊じゃないか。よし。それじゃ一緒に行くぞ」


 即座に行動しようとするネル。なぜか俺をまた連れて行こうとするんだが。


「いや、また不審者が居たら怖いじゃん」


「俺は幽霊の方が怖いんだよっ!! お前、ほんと、そんな婚活に連れてくなーーっ!!」



 

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