第10話
水車小屋の門近くにいたフンに、軍人たちの手当てを依頼すると、フォンユーとリーチィは家まで一気に走った。
お尋ね者が残っているわけにはいかないのだ。
家で夜逃げの準備をする。
「めちゃくちゃ朝だけどね」
そんな冗談を言うフォンユーを、リーチィの一睨みが黙らせた。
フォンユーは荷物を詰めながら、まさか戻ってくることができた奇跡に感謝した。
とはいえ、全てを残すつもりだったから、逆に必要なものが分からない。
仙力を使いすぎか、思考がうまくまとまらなかった。
リーチィが荷造りを終えて出てきた。
無言でフォンユーの荷を確認し、取捨選択してくれた。
どうやらかなりいらないものが入っていたようだ。
入れ替えが終わり、荷物を持たされる。
リーチィに従って外へ出ると、街道ではなく崖へ登って山へ入った。
上側を通っていると、二人の家へ村人たちが来るのが見下ろせた。
木の陰に隠れて見ていると、二人が既にいないことを知ったらしい。
出てきて街道の方に視線を投げたまま立ち尽くしている。
さよならくらい言いたかったが、形式上でも村を追放された立場なのだ。のんびりはしていられない。
やがて諦めたように村人たちは肩を落として去っていった。
横のリーチィも悲しそうだ。
「ごめんな、俺のせいで」
頭を撫でてやると、意外と大人しくしている。
「お前は間違ってない。気にするな」
やっと虚勢を張ったようにそれだけを言ってくれた。
フォンユーとリーチィは山側を通り、上った時よりも急な崖を下った。
道祖神が置かれただけの村境にやってきた。そこを過ぎれば広大な森が待っている。フォンユーがいつも狩りをしていた場所だ。知り尽くした森で迷いはしない。
森は陽光が当たる場所と、山たちで遮られて常に翳っている場所に二分されている。
今から通る方はじめじめした方だ。
道祖神の手前でフォンユーは足を止めた。
「もうとっくに遠くに逃げたんだと思ったけど?」
落石でできた岩場の上にヨウフィが座っていた。
フォンユーの記憶にある老人ではなかった。白髭は剃られ、着物も綺麗にしているが、ヨウフィであると分かった。
フォンユーは警戒しながら、いつでも動けるような姿勢を取った。
「あれだけの攻撃力を持った人と戦いはしないよ」
「見てたのか?」
ヨウフィは肩をすくめた。
「じゃあ、何の用だ?」
「足止め――」
フォンユーは
違う、違う――とヨウフィは両手をひらひらと見せて、戦闘の意思はないことを示した。
「今、来るから待ってくれ――」
フォンユーは何となく想像がついた。
村人にも会えないのなら、そいつらにも会ってはいけない。
先を急ごうとしたフォンユーの裾をリーチィが掴んだ。
彼女にも『今来る人たち』が分かったのだろう。
リーチィの目は言葉よりも強く気持ちを語る。
フォンユーは、彼らを待たずに無理矢理その場から去ることは諦めた。
代わりに糾弾する相手をヨウフィに変えた。
「意外とおせっかいなんだな」
「あなたほどじゃないさ」
ヨウフィは薄く笑った。
それほど待つことなく、数人の足音が街道を外れてきた。
「いたぁっ!」
リィウィの声が一番に響いた。
リィウィとヂーリン、ルンハイとダイユ、それにチャオリンもいる。先導してきた《
駆けつけて先ず、リィウィはリーチィに抱きついた。
「ひどいよ! 何も言わずに行っちゃうなんて!」
リーチィが困っているのが、背中からでも見て取れる。
きっ――とリィウィが顔だけを上げてフォンユーを見た。
「何か言う事はありませんの?!」
「俺が?」
「村の人も勝手だって怒ってたよ」
ヂーリンがしれっと言った。
――確かに誰にも相談しなかったから、勝手といえば勝手だけど……。
フォンユーが言葉を選んでいると、仙人兄妹が正面まで近付いていた。
「僕たちのせいで君たちが村を出るはめになったなんて――」
「頼んだわけじゃないのに――」
二人の言葉は裏で同義のようだ。
「これしか手がなかったんだ。気にしなくていい」
「水臭いよ。昨日から考えてたんでしょ。言ってくれれば、皆で動いたのに――」
「俺だけで行かないと意味がなかったんだよ」
「分かるけど――」
涙ぐむヂーリンの頭をリィウィが撫でる。
リーチィを抱きかかえたままとは、器用なものである。
「それにしても数百騎の軍隊を壊滅させるとは、でたらめ過ぎるぞ」
「身体はもういいのか?」
輪から離れた所で言い漏らすチャオリンへ、フォンユーは別の言葉で返した。
「お前に心配される覚えはない」
強がりだ。多分立っているのがやっとであろう。
驚いたことにチャオリンはリーチィの仕立てたチャイナドレスを着ていた。よく似合っている。本人は少し気恥ずかしそうであるが。
リーチィも見ていると良いのだが、彼女はまだリィウィに抱きつかれたままだ。
「だが、お前の望む通りにはなったようだぞ。村人が治療に当たったおかげで、村に非はないと判断されたようだ」
想定通りといえば聞こえは良い。
「これで標的はお前だけになった。しかも相当な危険人物として手配される――とさ」
「フンか?」
チャオリンは頷いた。
「『戻ってくると村が危険だから、できるだけ遠くへ逃げろ』――あいつの伝言だ。」
「あいつらしいな」
「シーヂォンの伝言もあるぞ」
今にしてみれば正体不明な鍛冶屋であった。
「珍しいな――」
「『オレの武器をもっと使いこなせてれば苦労しなかったのに』――だってさ」
「どういう意味だよ」
「『それと、依頼した仕事はいつ納品するんだ?』――って笑ってたぞ」
「あ――。どたばたで忘れてた――」
皆から失笑が漏れた。
それは僕が引き継ぐよ――とルンハイが言った。
「もうほとんど終わってるから届けてくれればいいよ」
ルンハイがしっかりと頷いた。
「君たちの農工具も手つかずだ」
「それは自分たちでする。君たちがあの村にして来た以上の事をしないと、僕らはあそこに住めない」
「村の人はそんなことは思わないぞ」
「そう決めたんだ」
ルンハイとダイユが笑った。
「そうか――」
フォンユーも頷き返した。
「で――?」
邪悪そうな響きでリィウィが言った。
「何か言う事は思い当たりましたの?」
リィウィは瞬きもせずにフォンユーを凝視している。
表面一杯に涙が溜まって揺れている。
ヂーリンも、ルンハイも、ダイユも、チャオリンも、ついでにヨウフィも同じように言葉を待っているようだ。
最重要手配人なのに危険を冒してでも見送りに来てくれる。
そんな人間関係を築けたことは、フォンユーにとっての宝だ。
そんな愛おしい日々へ、フォンユーはけじめをつけようと思った。
フォンユーはヨウフィだけを背中に、皆を正面に捉えられる位置で、皆の顔を見回して言った。
「皆、来てくれてありがとう。――そうだよ、誰にも断らずに離れられるほど、ここの二ヶ月は軽いもんじゃなかったんだ。このままだったら、きっと後悔してたと思う」
ありがとう――フォンユーはもう一度礼を言った。
「チャオリン――もっと村の中へ入っておいで。俺はもっと君と話したかった」
チャオリンは肩をすくめて口だけで笑った。
「ルンハイ――君たちとは知り合ったばかりだけど、総帥の子供である苦悩は俺には分からない。君たちだけのものだ。自分で乗り越えるしかないけど、きっと君たちなら出来るよ」
ルンハイは力強く頷いた。会った時の頼りなさは薄れている。獣と戦えた事が彼の自信に繋がっているようだ。
「ダイユ――お兄さんの補助は止めなくていいよ。でも君は君自身の道もあることを忘れないで」
ダイユは困った表情のまま笑った。
昨日、ルンハイと喧嘩した彼女をリーチィが宥めた。言葉少ないリーチィの慰撫の様子を見てみたかった気はするが、ダイユは謝るため、兄のいるフォンユーの家へ来たのだから、成功したといえる。
その時にチュンジュンと会い、誘惑された。その騒動で薄れていたが、いつの間にか喧嘩は収まり、二人の結束が《小愛》を倒すきっかけをくれた。
もう既に、新しい一歩を踏み出しているのかもしれない。
「ヂーリン――君には申し訳ない事をした。苦しんでいることに気付かないで」
ヂーリンは大きく頭を振った。
「君を止めるのに必死で、答えを見つけてあげられなかった」
「いい――……いいよ――」
それがヂーリンの精一杯であった。
「運命に抗うだけが正しいとは思えないんだ。波に乗る事で導ける人生だってあるんじゃないかな」
ヂーリンはもう涙を止める努力をせず、ただ、強く頷いた。
隣のリィウィと目が合う。
でも敢えて次のヨウフィに声を掛ける。
「ヨウフィは覚えてろよ。今度どっかで会ったら泣かしてやる」
「気をつけます」
ヨウフィの言葉には苦笑が混じって聞こえた。
で、やっとリィウィへ視線を戻すと、肩すかしで意表をつかれた事にむくれていた。
――その方が君らしいよ。
そう思うと自然と笑みがこぼれた。
リィウィが目を逸らし、胸のリーチィをまた強く抱きしめた。
リーチィがもがいている。
「リィウィ――君にはだいぶ助けられた。君がいなかったら、この村での生活は成り立たなかった」
びぇえええ――
顔を伏せていたリィウィがとうとう泣き出してしまった。
天を仰いで大声で泣いている。
「一番初めに会えたのが君で良かった」
泣き声は止まないまま、リィウィは座り込んだ。
フォンユーはリーチィの隣まで歩くと、しゃがんだ。
顔の位置をリィウィの泣き顔に合わせる。
朝露に濡れた地面へ付く手を拾い上げ、両手で包んだ。
「今まで本当にありがとう」
「フォンユー――行っちゃやだよぉ――」
泣きながらリィウィが言う。
それでも彼女の手は、フォンユーを止めようとする意思を見せなかった。
感情では抑えきれずとも、頭では村にいられないことを知っているのだ。
座り込むリィウィの後ろに皆が歩み寄る。
ヂーリン、ルンハイ、ダイユ、そしてチャオリンもその肩に手を置いている。
フォンユーはゆっくりとリィウィの手を外し、立ち上がった。
リーチィと共に少しずつ遠ざかる。
「これからも村には困難があると思う。でも皆で手を取り合えば、きっと解決できる。道は必ず開けるから――」
森の入口まで下がると、リィウィも涙でぐしょぐしょのまま、顔を上げていた。
フォンユーはリーチィと並んで、頭を下げた。
感謝を強く込めて、深く長く。
そして――
頭を起こすと、背中を向けて、一気に歩き出した。
振り向かず、止まらず、森の奥を目指して。
涙まじりのリィウィの声が、フォンユーの名前を呼んだ。
その声に背中を押されるように黙々と足を進めた。
横をリーチィが必死についてくる。
気遣っている余裕がなかった。
森が深くなってきた。
泣き止んだのか、遠くなったのかは判別できないが、リィウィの声はもう届いてこない。
「フォンユー――もう、大丈夫だ」
湿った樹木の吐き出す呼気が色濃くなった時、リーチィが言った。
その言葉を皮切りに、フォンユーの目から涙が溢れ出た。
嗚咽も口から漏れる。
奔流のような熱い感情を吐き出しながら、フォンユーはひたすら森を歩み続けた。
ぎゅ――と後ろからリーチィがフォンユーの右手を掴む。
その暖かさがフォンユーを解放した。
フォンユーは歩きながら大声で泣いた。
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