第9話
遠くに見える砂煙。数里、いや数十里は続いているかもしれない。
東の高原を更に離れた前にフォンユーは立っていた。
戦いになってもチャオリンたちの畑を乱さないようにするためだ。
もっとも一人対百騎――そんなに周囲に及ぶほどの闘いに持っていけるとは思えない。
保って数分であろう。
――でも、あの気の良い村人たちのためだと思えば、ぜんぜん惜しくないな。
フォンユーはそう思っていた。
川に落ちてびしょ濡れだった服を着替えるため、フォンユーとリーチィは家へ戻った時だ。
そこにはフンと村の中枢人物たちが集まっていた。
フォンユーが濡れた服を脱ぎ捨てている向こうで、原因を追求しているようだ。
どうやらダイユの仕業らしい。
「百安市の軍が我が村に来る理由――それはおぬしが連絡したからなのだな」
聞き取りづらいが、ダイユが返事をしたようだ。
「魔獣を捕らえ、引き渡す代わりに、兄妹で軍に取り入ろうとしてたのか?」
「そこまでは――。ただ……仙人としての力を誇示できれば良いかと思って」
「甘かったな。最近の軍には仙人否定派が多いんだ。あいつらの要求はお前らだ」
フォンユーはそこで我慢できずに顔だけを覗かせた。
「根拠はあるのか?」
発言者のフンへ訊いた。
狭くはない部屋に年配の男が三人、それとフンが机を囲み、兄と妹は入口を背に立っている。入口の向こうにはユゥも見える。
部屋の端の板間にヂーリンとリィウィもいる。二人には角度的に裸のフォンユーが見えるようだ。ヂーリンは顔を伏せたが、リィウィは赤らめながらも視線を外さない。
だからフォンユーは服で裸を隠した。
「向こうの指揮官の親書がある」
フンがそれを手に取った。
「捕らえた獣と仙人の兄妹を差し出せと。そうすれば村に危害は加えないということだ」
「どうするんだ? 獣は追い払って、捕まえてないぞ」
「それは言葉で済むと思うが、仙人の存在は隠せない。となると――だ」
ダイユが身体をびくっと縮こまらせた。
むう――とフォンユーが黙考し始めると、ヂーリンとリィウィと目が合った。
フォンユーは身体を引いて部屋へ戻った。
「何で百安軍は仙人を捕まえようとしてるんだ?」
「この前の事件で仙人の力は強大だと示してしまったから、安全の為にも監視下に置いた方が良いってことなんだろ。建前的には」
「じゃあ、本音は?」
「あの事件で、ある一定水準以上の仙人は力を失い、仙人自体が少なくなってしまった。だから仙術を使える者を確保しておけば、いざという時に国力にする――ってことだろ」
「あくどいな」
フォンユーは服を着終えると、議論の場へと出て行った。
リィウィがあからさまに残念そうな顔をした。それどころかヂーリンまで似た表情をしているから、フォンユーは耳たぶが熱くなるのを誤魔化すために話しに集中した。
「村としてはどうする気だ?」
フォンユーの問いに、フンは三人のご意見番を見た。当の三人は腕を堅く結び、目を閉じている。
一瞬の沈黙の後、横から耳が触られた。
ひっ――と声にならない音が口に残る。
「どうして耳が赤いの」
リーチィであった。いつのまに隣に来てたのか。
やましいことはないのだが、フォンユーは話題を逸らした。
「手が冷たいな。寒いのか?」
「――大丈夫」
そんな小声のやりとりが終わるのを待っていたかのように、重鎮が口を開いた。
「村の意向は既に決まっておる」
他の二人も頷いた。
「村は守らなければならない。村人を危険な目に遭わせるわけにはいかんのだ」
ルンハイも、ダイユも、その後ろのユゥも、覚悟を決めたのか、沈痛な表情で下を向いた。
フォンユーは異論を唱えるべく、フンを見た。
「百安軍と真っ向から戦う事に決めたのだ」
重鎮が通る声で言った。
「へ――?」
間抜けた声を上げたのはフォンユーだけであった。
「こいつらも村に住んでるからには守る対象なのだ。危険な目に遭せられるかっつうの」
「でも、それじゃあ村が――」
ダイユが戦った後の結果を想像してか、気遣わしげに言った。
「なあに、数百ならたいしたことあらんって」
もう一人のお目付役が豪快に笑った。
フンが苦笑を浮かべている。彼にしては珍しい表情だ。
フォンユーは皆の顔を一人一人見回した。
ユゥは嬉しそうに涙を浮かべている。ルンハイは面食らった表情だ。ダイユも似た印象だが、困惑が強そうだ。
自分たちの命と村全体の命を天秤にかけて、それを等しく扱ってもらえた嬉しさと、それを享受して良いのかどうかという戸惑いだ。
机では早くも軍への対応を話し始めている。
女子供の避難と武器の調達の完了時間と、軍の到達時間との調整を図っているようだ。
軍は明朝、東の高原で半日だけ返答を待つことになっているらしい。
三人は充分な時間だと笑っている。
そうですね――とフンも肯定している。
ヂーリンとリィウィは筵の上でくつろいでいる。
目が合うと笑顔を返してきた。
――彼女たちもその決定に迷いはないということか。
最後に隣のリーチィを見下ろす。
まだ少し髪の先が濡れて光っている。
大きな目は、机を囲んで話すおじさんたちのいつの間にか始まった武勇伝合戦を、呆れ気味に見ているようだ。
フォンユーの記憶は曖昧なままだ。
リーチィが妹なのか、そうではないのか。
未だに両方の想いが心に存在している。
確実なのは、彼女が守るべき女の子だということだ。
フォンユーの視線に気付いたリーチィが見上げてきた。
に――と笑ってみせると、リーチィは小首を傾げた。
しばらくすると年配の三人とフンは帰っていった。
まだ村の決定を受け入れられていないルンハイとダイユ、そしてユゥをフォンユーは見送った。
なるようになるさ――とフォンユーが言うと、二人は、ありがとう――と返してきた。
最後に残ったヂーリンとリィウィを見送る。
「リーチィちゃん、ごめんね。わたし、本当に一生をかけて償いをするわ」
リーチィは頷いた。
「本当はもう少しいたいけど――家族と話しをしなくちゃいけませんの」
「そうだな。でも、大丈夫。なんとかなるよ」
リィウィが泣きそうな顔のまま笑った。
「フォンユーが言うと、本当になんとかなりそうな気がしますの」
「フォンユーは口ばっかしよ」
リーチィが言うと、二人が笑った。
フォンユーには笑うべき箇所が分からなかった。
「そうだ、リーチィ。昨日の肉を薫製にしてあるんだ。二人にあげたいから持ってきて」
ひとしきり笑った後に、フォンユーがそういうと、リーチィは頷いて家へ入っていった。
その姿が暗くなった家屋に消えてから、フォンユーは二人を改めて見た。
「リィウィ、ヂーリン。二人にお願いがある」
「なに?」
「もし――もし、俺に何かあったら、妹を頼めないか?」
「フォンユー?」
驚愕の表情を浮かべたのはヂーリンだけであった。
リィウィは全く動じた様子を見せず、
「もちろん断るわ」
と笑顔を見せた。
「なぬ?」
「何とか生き残って、あなたが見るべきですの」
「そうだけど――」
「心配しなくても、リーチィちゃんはあたいたち村の一員よ。みんなで助け合いますの」
ヂーリンも頷いた。
「だけど、あなたが彼女の側にいる――という意思で臨んでくれないと――」
リィウィはそこで言葉を詰まらせた。暮れてきた陽の影が彼女に陰影をもたらす。
「すまない。――大丈夫だ。最初から死ぬつもりで戦ったりはしないさ」
リィウィは涙をこすり取りながら頷いた。
「泣かせたのか?」
リーチィの声が堅く突き刺さる。
「いや――違うぞ」
「女泣かせのフォンユーだからね」
「ヂーリン?!」
「リーチィちゃぁん!」
リィウィがリーチィに泣きついた。リィウィが落ち着いて言葉を話せるようになるまで、リーチィの睨みは道化師の鹿角刀より鋭く、恐ろしかった。
二人きりになった家は静かであった。
夜鳥の唄、秋虫の声、山谷の音、遠い獣の遠吠え。
昨日以上に音は溢れているのに、それらは心の中で静謐に変わり、そのくせ平穏を奪い去ろうとしていた。
リーチィと一緒にご飯の支度をする。
夕飯は川で獲ってきた魚だ。薄切りにし、甘辛く煮てある。
フォンユーが熱くて、辛くて、痛いと、のたうち回る横で、リーチィは姿勢正しく平然と食べていた。
片付けを終え、陽の落ちた外で涼んでいると、リーチィが隣に来て並んだ。
山の斜面を背に、見えない村の方を向いて立つ。
普段なら何気ない一時だが、明日生死に絡むことがあるとなると話しは違う。
最後になるかもしれないのだ。
何か気の利いたことを言いたいとフォンユーは考えた。
――が、浮かばなかった。
「お風呂はどうする?」
「水浴びしたからいい」
「そうか――」
「明日入る」
リーチィはそう言うと、おやすみを残して家に戻っていった。
一人残ったフォンユーは雲で分断された星空を見上げた。
「明日――か」
フォンユーは重いその一言を口にすると、一度だけ伸びをした。
家に戻って、寝台に横になったが、とても眠れそうにはなかった。
――今日、眠れる村人は何人いるだろうか?
フォンユーは組んだ手を枕に仰向けになった。
外からの自然光が及ばない天井は平面な闇を視界に伝えていた。
その闇にはツージーではなく、村の皆の顔が浮かんでいた。
普通に眠ることが出来、普通に明日を迎えられ、普通に笑い、また普通に眠る。
――そんな皆の一日を守ってあげられれば、命なんて惜しくない。
フォンユーは思った。
明日、百安軍に一人で挑むつもりであった。
どこまでやれるか分からないが、自分がその仙人だと言って挑めば、村に被害は及ばないだろうと考えていた。
――なにかが引っ掛かってるんだよな。
それは遠い約束。
何層にも重なり合った記憶の隙間に見える言葉。
フォンユーの行為はそれを破る事になる――
それだけは確実であった。
フォンユー――とリーチィの声に、フォンユーは咄嗟に起き上がっていた。
「少し、話ししていいか?」
戸口で枕を抱えているリーチィがいた。
「良いよ――」
フォンユーが言うと、リーチィはそそくさと入ってきた。
陶製の枕を後ろに置くと、ごとん――という音が妙に部屋に響いた。
リーチィが腰を下ろした横に、フォンユーも並んで座る。
虫の声が響く中、リーチィの呼吸音がフォンユーの耳をくすぐった。
話しをしたい――と言いながら、昨晩同様に言葉もない。
かろうじて届いている足をぶらぶらさせているだけであった。
フォンユーはリーチィをずっと見下ろしている。
彼女も視線を感じておきながら、顔を上げようとはしないようだった。
「なあ、リーチィ」
「ん?」
「リーチィは記憶ってちゃんとあるのか?」
怪訝そうな顔がフォンユーを見た。
「お前はないのか?」
「いや――いや? いや、ある。ん――……あると思ってた」
「あたしはある」
視線を戻すと、足をばたばた振りながら、どこか嬉しそうに続けた。
「嫌な事も、辛かった事も。それに嬉しい事も、全部――」
「そうか――」
フォンユーは訊くべきか迷ってた言葉をひねり出すように口にした。
「俺たちは本当に兄妹なのか?」
「――どう思う?」
逆に訊かれてしまった。
フォンユーは記憶を元に言葉へ変換していく。
「リーチィの小さい時を覚えてるんだ。その時から君を妹と認識している」
「それって、何歳くらい?」
「八歳。それは覚えてる。それから八年を一緒に過ごして――。あれ? リーチィって今十二歳だよな」
フォンユーが視線を下ろすと、リーチィは下を向いたままであった。
小さい呼吸の中に、一つため息が混じって聞こえた。
「リーチィ――?」
「そう、あたしたちは兄妹だ。ずっとな」
「そう――なのか?」
「残念そうだ」
リーチィが目だけで見上げて訊いてきた。
言われると、正直その通りであった。
残念なのだ。
自分で言葉にしながら、フォンユーはその理由を探ってみた。
「俺には確かに君を妹として認識し、一緒に戦ってきた記憶がある。なのに俺が一人だけの記憶もある。それに大きなリーチィの記憶もあるんだ。全てを認めると俺は壊れてることになるんだけど、どれか一つ――っていうのもなんか淋しい気がして」
――だが、それはリーチィと兄妹であることが残念な理由ではない。
「大きなあたし――とは、どんな記憶が?」
「それが一番曖昧なんだけどな、一番思い出さなければならない気がする」
無いかもしれない記憶なのだ。頭を逆さにしたって絵は出てこない。
だが、なぜか、その記憶が内包する感情だけは浮かんできた。
「そうだな――幸せな感じだ。一粒の砂くらいの感覚だけど、これが間違いの記憶なら、めちゃくちゃ残念なんだよ」
――それだ!
フォンユーは心で密かに快哉を叫んだ。
ただの妄想とするのが惜しいほど、幸せの瞬間だった気がするのだ。
ふふ――。
小さいが、確かにリーチィが笑った声がした。
フォンユーが確かめるため、顔を覗き込もうとした時、こてん――とリーチィはフォンユーの腿に頭を倒してきた。
うぉ――とフォンユーは心で吠えた。
左腿に程良い重みが加わっている。
仄かに立ち上る香りが鼻をくすぐる。
血流の流れが早くなるのを自覚していた。
リーチィの耳が直接触れているのだから、どきどきに気付かれてそうであった。
ふわりと膝に小さく暖かいものが触れた。
リーチィの手だ。
「忘れないでいれば、きっといつか思い出す」
「言外に謎めいた意図を感じるんですけど――」
リーチィが妹だという記憶が正しいと結論づけておきながら、今の言い方ではそれ以外の記憶も正しいのだと聞こえる。
――リーチィが妹じゃないのなら何だ?
静かだなと思ったら、リーチィはフォンユーの腿に埋もれるように小さな寝息を立てていた。
フォンユーは優しくリーチィの頭に触れた。
柔らかい絹のような感触が指を流れる。
花のような甘い香りが直接心に届くようだ。
「――思い出せないままでごめん」
フォンユーは小さく、本当に小さくつぶやいた。
リーチィを膝に乗せたまま、壁に背を預けてフォンユーは少しだけ眠った。
白い空気が窓から入り込んでくる頃、フォンユーは後ろ髪を引かれながらもリーチィの頭を枕へ移した。
小さく丸まるように寝入るリーチィの、小さな寝顔を目に焼き付けると、フォンユーは静かに家を出た。
しん――とした朝の道を一人で歩いていると、水車小屋の門にフンが立っていた。
「やっぱり来たか」
「昨日の時点で思ってたろ」
「まあな――。申し訳ないけど、お前に託すしか道はないんだ」
「見抜かれてたのが癪だけどな」
フンが薄く笑った。
「じゃあ、行ってくる」
と歩き出すフォンユーに、フンが手紙を取り出した。
「こちら側の親書だ。おれの書いたものだが、効力はあるだろうよ」
「怪しいもんだ」
フォンユーは笑いながらも礼を言って受け取った。
静かに歩き出したフォンユーを、フンはずっと見送っていた。
遠く、門の全景が朝靄に霞む位置まで来ても、視線は感じられた。
チャオリンの家の横を過ぎる。
彼女は《
村の病院に祖母と移動している。
他の農家の人達も今は門の内側へ、昨日のうちに避難しているはずだ。
チャオリンが入院しているのは不幸中の幸いかもしれない。そういう状態でなければ、彼女は意地でもここに残ったろうから。
軍の進行が見える位置に来た時、太陽の光は角度を付けてフォンユーを照らしていた。
司令官が共を連れ立って、フォンユーに接触してきた。
フンからの親書を手渡すと、司令官はその場で読み、無骨な顔を向けてきた。
「魔獣は村から追い出したので捕まえていない。妹は仙力を持たないため仙人ではない。だから渡せない――ということか。――で、お前だが……」
ここで司令官は溢れるばかりの眉を顰めてフォンユーを嘗めるように見た。
「竜を素手で倒すこと四回、仙人一派を潰すこと二回、天体異常を仙術で解消すること十二回――」
――フンめ!
フォンユーは心で怒鳴った。
開いたら塞がらなくなりそうだから、口強く閉じて黙っておく。
「経歴は立派だが――」
司令官が飲み込んだ言葉は想像がつく。
――疑うのも当然。嘘ですから。
「ま、いいだろう。名前は――」
「フォンユーだ」
「フォンユー。どうする? 親書によると村からは放免されている。村とは無関係と言うことだが、我々と一緒に来るかどうかはお前次第ということだ」
「仙人と戦うつもりの戦力だろ」
「そういう想定ではある。ま――――竜には到底及ばない火力ではあるがな」
横のお供の兵士が笑いを堪えている。
恥ずかしさと怒りのない交ぜの感情が溢れそうであった。
表情に出さないようにするのも限界である。
「仙人としての誇りがある。傀儡になるのはごめんだ」
「承知した。万が一、生き残ってもお尋ね者になるぞ。わが国の同盟国全てに手配書は回る。安息の地はなくなると思え」
フォンユーは強く頷いた。
「では、もう二刻もしたら攻撃を開始する。それまでに心が変わったら言えよ」
司令官が馬の向きを変えて去っていった。全員の背が笑いを堪え震えている。
進軍を停止している部隊に彼らが合流する頃、やっとフォンユーは大きくため息をつけた。
「心が変わってもこの距離で言葉が届くはずはない。最初から殺す気なんだろうな」
それから二刻はあっという間であった。
だが、心を改めて決心するには充分な時間であった。
フォンユーは
正面からぶつかるつもりだ。
「さあ、行くか」
「ここで迎え撃った方が良い」
「――リーチィ?」
横にリーチィが立っていた。
「どうしてここに? いや、いや、そんなことじゃない。君は帰るんだ」
断る――とリーチィはじとぉっと睨んだ。
「何だよ」
「お前が約束を忘れてるのは気に食わんが、お前とあたしはこういう仲なのだ。諦めろ」
「半分以上意味が分かんないぞ」
「分からないのはお前が悪い」
「何でそうなるんだよ」
もう軍の姿が見え始めている。
「君に死なれると――いやなんだ」
「それはあたしも一緒だ。不本意だがな」
むむぅ――とフォンユーは途方に暮れた。
このまま押し問答は無理だ。リーチィには勝てない。
――強引に気絶させて村へ届けて再度軍に挑む――って手があるな。
「あたしを置いていったら後を追うぞ」
思考を見抜いたのか、リーチィは口走った。
後を追うとは自殺することだろう。
――さりげなく怖いことを言う。
横目で見るリーチィはもう決めているようだった。
「どうしたら俺を喜ばせてくれる?」
リーチィが今度は横目で見てきた。
「ここを二人で乗り切って、村を救って、一緒にまた旅に出てくれれば、あたしは嬉しい。あたしが嬉しいと――」
「俺が喜ぶわけね」
フォンユーは苦笑した。
――なるほど安易に玉砕するなってことか。
とはいえ、フォンユーの仙術ではあの大群には効果はない。リーチィはもちろん仙術を使えない。
仙術なしであの大人数をどう相手にするか――だ。
ときの声が谷間を駆ける。
「さて、どうしたものかね」
「作戦はないのか?」
フォンユーは熟慮してみた。
ところでさ――とフォンユーは思い切って訊けなかったことを切り出した。
この状況では本当についでだ。
「リーチィは全部覚えてるって言ってたけど、俺の仙術ってあの飛ばない光矢弓なんだ。それじゃあ、リーチィの仙術って何だったんだ?」
リーチィは軍に目を向けたまま、一瞬間躊躇った後、答えた。
「死霊系仙術――。東黄六河派の技よ」
「死霊系?」
フォンユーの頭にツージーが浮かんだ。
――俺に憑いている霊体は、本来リーチィに必要なのものだったということか?
「あいつがいないからリーチィは術を使えないんだ」
フォンユーは小さくつぶやいた。
それが何故、フォンユーの身体にいるのか?
崖下に矢が飛来し始めた。百安軍の前列は剣を装備している。隊列の後半は弓矢隊だ。まだ届いていないが、もう少しで矢の射程距離に入る。
「俺に――何が起こったんだ?」
「どうした?」
「手掛かりが見えそうだ」
フォンユーは実態が薄い部分の記憶を探る。
――弓と矢。飛ばないのは術のせいか? いや、弓が違うんだ。
フォンユーの遠い記憶に、弓が朧げに浮かんでいる。
家族であり、師匠だったシャォウーから受け取ったのは術だけではなかった。
谷の長の反対を押し切ってフォンユーに託した仙具――。
そう、弓は実態のある仙具だったのだ。名前もあった。
――なんだっけ?
フォンユーは静かに記憶の中の糸を、無数もある糸の中からそれを引き当てた。
名前は――。
「《
短い悲鳴をリーチィが上げた。
――矢が当たったのか?!
フォンユーはぞろりとした感触で、隣のリーチィを急ぎ見た。
リーチィの左手が光り、大きな弓が具現化していた。
それこそがフォンユーの使っていた
「リーチィが持っていたのか――」
「これは……?」
リーチィの目も大きく見開かれている。彼女自身も知らなかったことのようだ。
――ともかく、これでどうにかできるかもしれない。
「その弓を俺に渡して」
フォンユーが手を出すが、リーチィは動かない。
「リーチィ?」
「この弓、あたしの手にくっついてる」
フォンユーはリーチィに近付いた。
見ると確かにそうだ。
いや、くっついていると言うよりも、手から直接具現化しているという感じだ。
ならば――とフォンユーはリーチィの背中にくっついた。
「お――おい――」
リーチィが慌てた声を上げた。
フォンユーは無視し、リーチィの左手の上に自分の左手を添える。
彼女の背中を抱え込むように右腕を前へ持っていく。
片膝をついて頭の位置を合わせる。
リーチィの柔らかい髪の毛を頬に感じて、フォンユーは鼻の下が伸びそうになった。
――いやいや。
意識を軍へ向ける。
敵の矢がフォンユーとリーチィがいる高台にまで届いてきた。もはや一刻の猶予もない。
フォンユーは右手に光の矢を具現化した。
「リーチィ、手を貸して」
リーチィは無言のまま、フォンユーの右手に自分の右手を合わせた。
手の甲にさらりとした感触が心地よい。
幸せを感じながらも、フォンユーは光の矢を《蘭光》に番えた。
しかし完全に動きを止めた二人は、飛んでくる矢さえ避けられない。
「良い的だぞ」
「なら死ぬときは一緒だな」
――我ながら臭いな。
自嘲的に思ったが、リーチィは顔を真っ赤にしている。
――効果覿面過ぎる!!
リーチィにそんな顔をされると、フォンユーも照れる。
そんな思いも全部含めて弓を引いていく。
矢に仙力を集中する。
「たったの一本だが、仙力の矢だ。ただの矢じゃない」
フォンユーは引き絞りながら、仙力を込めていく。
矢を高く、高く向けていく。
雲が厚めに立ち込める空へ――。
敵の矢の量も増えている。幸いまだ二人まで届いてこない。
「リーチィ、ありがとな」
「ん?」
「来てくれて。君を助けたくて一人で来たけど――やっぱり独りは嫌だ」
「うん――」
リーチィの右手の力が強まる。
フォンユーも左手に力を込める。
――行け!!
光の矢を放った。
戒めを解かれた一筋の光はただ高みを目指して飛んでいく。
雲を蹴散らし、差し込む陽光をも切り裂く勢いで光の矢は天へ――そして止まった。
瞬間――
矢は数十、いや数百にも分散した。
驟雨のように、百安軍へと降り注いだ。
大雨を番傘で受けた時のような音に、図太い兵たちの叫喚が重なる。
光の雨は地上で土埃を高く積み上げた。
風が砂塵を振り払うと、そこには立っているものはいなかった。
「うわ――……」
「すご――……」
撃った当人たちが一番驚いているというのは、攻撃を受けた者たちには不本意なことかもしれない。
何重にも倒れ合う兵隊たちと馬たち。無事だった馬が奔走していくのも見える。
地面の方からうめき声と泣き声が重なり湧き上がっている。
ぱっと見ではあるが、死んでいる者はいないようだ。
矢は致命傷を避けるように撃ったのだが、
ただ、あの勢いでぶつかり転んだのだから、馬の下敷きになった者もいるかもしれない。
全員無事とは言い切れないだろう。
リーチィは呆然となっている。
「仕上げといくか」
フォンユーはリーチィの頭を一撫ですると立ち上がった。腰に手を当て、まだ倒れたままの軍隊へ人差し指を向けた。
「俺の名前はフォンユー。東黄六河派の暴れ仙人だ!」
リーチィが仰天の表情を上げた。
「お尋ね者――上等だ。命のいらない者だけ掛かって来い! 次は手加減なんてしないぞ!」
息を呑む軍人たちを尻目に、フォンユーはゆっくりと高台から降りていく。
リーチィが後に従う。
「どうして、東黄六河派だなんて――」
「他に仙派なんて知らなかったんだよ。まずかったかな?」
「――知らない」
「それよりも早く撤退しようぜ」
フォンユーは高台を降りると、リーチィの手を取って走り出した。
あ――リーチィの声が小さく洩れると、手が熱く感じられてきた。
その熱さがフォンユーの感覚かどうか――
リーチィの顔を見て確認することが恥ずかしくて出来ず、二人はただ東の高原を駆け抜けた。
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