第5話

「起きろ、フォンユー。おい、フォンユー――」

 リーチィの声にフォンユーは薄く目を開けた。

 ド真ん前にリーチィの顔がある。

「――!」

「起きたか?」

 リーチィはフォンユーの上で四つん這いになっていた。

 フォンユーが起きたのを確認すると、リーチィは何事もなかったかのように降りた。

「人が来ている。早く来い」

「あ――ああ」

 返事がしどろもどろだが、寝惚けているからだと自分に言い訳した。

 リーチィが部屋を出て行った。

 起き上がって床に足を下ろし、フォンユーは頭を抱える。

 ――リーチィは妹、リーチィは妹。

 息も整えた。

「よし!」

 立ち上がって、部屋を出ると、すぐ横の壁にリーチィがいて、フォンユーはまた驚いてしまった。

「なんでそんな所に」

 リーチィが目で玄関を指す。

 そこにユゥが立っていた。

 その後ろにはヂーリンとリィウィもいる。

 ユゥは泣きそうで、二人は困った顔をしている。

 もう嫌な予感しかしない。

「ユゥさん――何かありました?」

 訊いておいてなんだが、フォンユーは察しがついた。

「まさかあの二人――」

「そうなんです、おぼっちゃまとお嬢様が、逆さ大樹へ行ってしまったんです」

「いつですか?」

「朝起きたらもういませんでしたから、夜中のうちに出たんだと思います」

 フォンユーは部屋へ戻って筆架叉サイを二本取る。

 部屋から出るとリーチィはいない。

 そのまま三人の横を過ぎて外へ出る。

「フンに言って向こうにも動いてもらえ」

「訪ねたら、フォンユーに行かせろって言われましたの」

「あいつ――」

 リーチィが剣を持って追いかけてきた。

「リーチィは家にいろ」

「嫌だ」

 急ぐフォンユーの後ろをリーチィがついてくる。

「危険だから付いてくるな」

「フォンユーが心配」

「それは俺の台詞だ」

 フォンユーは止まって振り向く。

「家にいろ」

「そう言うならお前もいろ」

 話にならない―――フォンユーは困って言葉を失った。

「あたしは強いから大丈夫」

「そんなことはない」

「フォンユーはあたしが守る」

「俺よりも強いって言うのかよ」

 リーチィは答えない。

「分かった。じゃあ、逆さ大樹まで俺について来れたら許そう。だが、見失うくらい離されたら家へ帰れ。いいな」

 フォンユーはリーチィの返事を待たずに走り出す。

 街道から村へ抜けた辺りまではリーチィは追随できていた。

 山道へ入った辺りで差が出来始め、逆さ大樹が見えてくる時にはリーチィは見えなくなった。

「少し大人気なかったかな――」

 フォンユーは呟くと、逆さ大樹へと入っていった。


*        *        *


 森のような葉の部分を通り抜ける。

 入り組んだ枝を渡っていく。

 大きな鳥が時々視界にいたが、それだけだ。争いの気配は全くないようだ。

 幹部分の節くれを足場に登っていく。

 時折ある樹洞を覗き込むが兄妹はいなかった。

 フォンユーは三つ目の樹洞から幹に入った。

 入口と出口が近いのか、光が木の洞窟を見通し良くしている。

 急勾配を上りきると、根の部分に出た。

 枯れた林のようだが、根が佇立しているに過ぎない。節くれだった立ち木は捻じれて、密集しているために簡単に見通せない。

 フォンユーはとりあえず中心へ向かって歩き始めた。

 すぐに人影に出会えた。

 フォンユーは筆架叉を取り出して近付いていった。

「あちきは敵じゃないよぉ」

「どうだか――」

 チュンジュンであった。

 歪曲した根に腰を下ろしている。

 フォンユーはいつでも斬りかかるつもりなのだが、彼女はそんな怖れも気にせず、涼しげにフォンユーを見下ろしていた。

「お前の目的は何だ?」

「お前を助けることさぁ」

 言い方のせいか、どうも信用できない。

「それがなんで俺の知り合いを化物にしたりするんだよ」

「なんのことでしょぅ」

「チャオリンに変な仙術を与えたのはお前だろ」

 チュンジュンは答えなかった。

 核心を突かれて言葉を失ったというわけでもなさそうだ。

 目の嘲るような光は讃えていない。

「もう一度訊くぞ。目的は何だ」

「お前を守りたいのさぁ」

「チャオリンにリーチィを襲わせることが、どうして俺を守ることになるんだよ」

「本気の戦いでしか仙人は成長できなぃ。お前は人のためでないと本気にならないからねぇ」

 ――よくもぬけぬけと。

 フォンユーは怒りを通り越して呆れた。

 本気で真相を隠そうとしているわけではないのだ。

 フォンユーは筆架叉をチュンジュンに向けて、近付く。

「お前が直接やればいいじゃないか。なぜ他人にやらせるんだ」

「あちきは力を失っているぅ。お前の傍にいる霊体のせいだぁ」

 フォンユーの頭に、ツージーが思い浮かんだ。

「あいつがどうしたっていうんだ――」

「それは言えなぃ。契約に反するからぁ」

「それで信じろと? 虫が良すぎるぞ」

「強くなって、霊体を倒してほしいんだぁ」

「あいつは――悪いやつじゃないぞ」

「そんなことなぃ。あいつはあちきの自由を奪ったんだぁ」

「そうか、そりゃあ悪いやつだ」

「だろぅ? お前があいつを片付けてくれれば――」

「どうなる?」

「あちきはもっと自由に動けるぅ」

 フォンユーの引っかけである。

 隠すつもりが無いのだから、少し調子に乗せれば、すぐぽろりと漏らすと思っていた。

「おっとぉ」

 チュンジュンは口元を隠したそぶりを見せるが、悪びれもせず、反省の色は皆無であった。

 ――そう、結論で言えば、

「やっぱりお前は信用ならない」

 フォンユーは筆架叉で斬りかかった。

 チュンジュンはふわりと飛び上がり、フォンユーの上を通り過ぎていく。

 後ろの立ち根に降り立つ。

「そうそう、この前の女は役立たずだったけど、今度のは期待してるんだぁ」

「今度――? また誰かに仙術を与えたのか!」

「宝珠をちらつかせたら喜んで受け入れたよぉ。派手好きな奴だからねぇ」

「お前、いい加減にしろよ!」

 フォンユーは助走をつけて根を駆け上がる。

 筆架叉で横薙ぎった。

 チュンジュンはかわして、ふわりと地に下りる。

 フォンユーが宙返りで降りると、今度はふわりと別の木に飛び上がった。

「この――」

「教えてあげるぅ」

 フォンユーは動きを止めた。

「早く戻らないと、お前の女が死ぬよぅ」

「お前――」

 チュンジュンはにやにやと見下ろしている。

 ここでやり合っててもしょうがない――フォンユーは元の道を戻り始めた。

「絶対に後で泣かしてやるからな!」

 捨て台詞は格好悪いが、言わずにはいられなかった。

 本気だ。

 ――後で絶対に決着をつけてやる!

 心に言い聞かせ、フォンユーは枯れ木のような根の間を走り抜けた。


*        *        *


 フォンユーは逆さ大樹の幹の中を滑り降りる。

 樹洞の一つに出る。

「待てよ。あいつ、名前を何一つ言ってないから誰が誰だか」

 幹のでっぱりに跳ぶ。

 チュンジュンが言っていた刺客とは誰か――

 フォンユーは走りながら考える。

 宝好きの派手な奴――それだけが解決の糸口だ。

 ぱっとリィウィが浮かんだ。

「あいつであるはずがない」

 フォンユーは頭を振ってその思考を追い払った。

 チュンジュンが全てフォンユーの知り合いから選択しているわけではあるまい。

 だが、フォンユーも藤林村の女性を全て知っているわけではないから、仙術を付加された人物がいるのは確実だ。

 そもそも男性かもしれない。チュンジュンは『奴』としか言っていないのだ。

 それなのに何故か推理すると、リィウィしか浮かばなかった。

 犯人として怪しいというわけではなく、ただ『派手な奴』でしか連想できていない。

 ――もういいや。

 フォンユーは思考を切り替えた。

 犯人より守る相手の特定をした方が良い。

 狙っているのは『俺の女』。

 ――って誰だ?

 この前、チャオリンの時にフォンユーを本気にするために選んだのはリーチィとリィウィ。

 ――リィウィはおまけだったな。となるとリーチィだ。

 ただ、チュンジュンは『女』と言っている。こっちは確実に『女』だ。

 妹は女だが、フォンユーから見て女とした時、リーチィで良いのか。

 フォンユーの思考がぐるんぐるん廻る。

 ――ならば、標的に選ばれて俺が怒れる相手……

 フォンユーはそういう思考で臨んだ。

 ――誰が襲われたって怒るに決まってる!

 リーチィか――リィウィか――。

 フォンユーは二択に絞った。

 リーチィが素直に帰っていれば、リィウィも待機しているはずだから、一挙に守れる。

 だが――。

「リーチィが家に戻ってるはずないよな」

 うまく合流できればいいが、大樹の中は見通しが悪く、すれ違う可能性が高い。

 そうなると、リーチィがここで襲撃を受けることになる。

 リーチィを捜し回っている間に家でリィウィが襲撃されたら――。

 しばらく悶々としたまま駆け下りていると、白髪の老人が立っているのが見えた。

 敵か味方か――真っ直ぐ向かいながらフォンユーは頭の中で逡巡していると、老人が人差し指をフォンユーの後方下を指した。

 その瞬間――フォンユーの頭にはリーチィのことが浮かんだ。

 完全に勘であったが、確信はあった。

 フォンユーは足を止め、その方向へ視線を向ける。

 枝葉の部分で、争っているような箇所が外側からでも分かる。

 フォンユーが老人へ向き直ると、腰を屈めながら去っていく姿が見える。

 何者か、その目的も分からない人物に変わりはない。

 だが、フォンユーは心で感謝しつつ、踵を返した。

 幹に絡まる蔦のような出っ張りを跳んで渡っていく。

 葉の中で乱れの一番大きい所へと、フォンユーは勢い任せで飛び込んだ。

 太い枝とたわわな大きな葉の向こうにリーチィがいた。

 その相手は、細身で不可思議な格好をしていた。

 全身が自然界には無い水色で包まれ、随所に明るい黄色が散りばめられている。確かに派手な奴である。

 水色は頭部まで覆い、二又に分かれその先に丸い玉が付いていた。

 異国の『道化師』の姿に酷似している。

 その両手には、三日月形の刃を二本交差させた奇妙な武器が握られていた。

 ――鹿角刀だ。

 持ち手は交差した一箇所のみで、他は全て刃なので重くて扱いが難しいが、使いこなすとこれほど怖いものはない。

 そんな凶暴な得物を容易く操り、間隙を与えず振るわれれば、防戦一方なのも仕方が無い。

 それだけではなく、この《道化師》は手足が柔らかく、自在に伸びるようだ。

 これは、よく持ち堪えた――とリーチィを褒めるべきだろう。

「リーチィ!」

 フォンユーは叫びながら光の弓と矢を具現化し、番えるやいなや放った。

 射程も、命中率も、攻撃力も低い術だが、それでも撃たないよりはいい。

 幸い、矢は二人のいる所までは届いた。

 離れた枝に当たった。

 道化師がこっちを見た。

「フォンユー!」

 リーチィも名を呼んだ。

 しかし、フォンユーの着地地点も二人から離れた所だった。大きく揺れる葉がわさわさと二人を隠した。

 フォンユーは真っ直ぐ走り出した。

 一本向こうの枝にリーチィが見える。

 ――道化師は?

 リーチィの顔の向きから上だと分かる。

 フォンユーも視線を上げた。

 枝二本分上に道化師がいた。飛び降りる所であった。

 飛びながら両の鹿角刀で枝を突き刺し、強引に切り落とした。

 その先にいたリーチィが一緒に落ちた!

 道化師が追って通り過ぎた。

 躊躇無くフォンユーも宙へ飛んだ。

 道化師がぎょっとしたように振り向いた。

「お前の狙いは俺だろうが! リーチィに手を出すな!」

 フォンユーは筆架叉サイを振った。

 道化師が鹿角刀で受ける。

 金属の音が響く。

 フォンユーが出した蹴りが道化師の脇腹に入る。空中で足場もなく、力は入ってないが、道化師は平衡感覚を崩した。

 フォンユーは身体を捻って筆架叉をもう一度振るう。

 道化師の左腕を掠めた。二の腕辺りに横に裂けた。

 道化師が右腕を伸ばして枝に鹿角刀を突き刺し、そのままぶら下がった。

 フォンユーが落ちる速度で道化師と離れていく。

 すぐにその姿は巨大な葉たちで見えなくなる。

 フォンユーは落ちているリーチィへ意識を移した。

 リーチィは他の枝にぶつかることなく、落下している。

 幾ら樹冠部分が大きくてもすぐに抜けてしまう。

 そうすれば下は岩山だ。

 リーチィもそう思ってるようだ。足場の枝で姿勢を低くしている。

 ――飛び移る気だ。

 リーチィが跳ぼうとした時、運悪く足場の枝が他の枝にぶつかった。

 跳び切れず、宙に浮かんだ。

 だが、その時間差分、フォンユーが近付けた。

 フォンユーの腕がリーチィを抱えた。

「お前――」

 リーチィの目が大きく見開いた。

 フォンユーは筆架叉を一番近い枝へ突き刺した。

 二人の身体が筆架叉で支えられ浮かんだ――が、枝はそこから切り落ちた。

 フォンユーはそこまでは読んでいた。

 勢いを殺いだけなのだ。

 その次の枝へと着地した。

 枝が撓む、撓む――で、折れた。

 フォンユーは折れ残った方の枝へ筆架叉を突き刺した。

 今度こそ、ぶら下がって止まった。

「意外と枝が細いんだな。ちょっと計算外だった――」

 フォンユーはリーチィを持ち上げて、その枝に移らせてから、自分も身体を昇らせた。

 そこから下へ降りられる枝へと繋がっているのが見える。

「リーチィ、大丈夫か?」

 リーチィは返事がない。

 ただ、じっと見ている。

「――怒ってる?」

「死ぬ気?」

「そんなつもりはないぞ」

「危険だった」

 リーチィが目で責めている。

 いや、フォンユーを案ずる気持ちが昂ぶって裏返った――そんな感じがする。

 不愉快ではなかった。

「君を助けるためだ。問題ないさ」

「お前が死ぬのは嫌だ」

「俺も君が死ぬのは嫌だ」

 ふざけてない――と、リーチィが沈痛な言い方をした。

 リーチィの心配が心地よくて、フォンユーもつい本音で語ってしまった。

 その勢いが軽薄に聞こえたのかもしれない。

 フォンユーは表情を改めて、気持ちを言い直した。

「俺もふざけてない。君が俺といたいように、俺だって君といたいんだ」

 リーチィは開いた口を二、三度ぱくぱくとさせただけであった。

 頬が薄紅色に染まるにつれ、口はきゅ――と結ばれてしまった。

 眉間に皺を寄せて、目を逸らせたっきり、リーチィは口を聞かなくなった。


*        *        *


 逆さ大樹を抜けて岩山の小道へ入る。

 フォンユーは逆さ大樹を見上げる。

「あの二人いなかったな――。リーチィも見なかったか?」

 リーチィは返事をせず、前を歩くだけだ。

 フォンユーは頬を掻いてリーチィに続く。

 一方的な約束とはいえ、フォンユーに競争で負けたのだから、リーチィは家へ帰ってなければいけないのに、ついてきたのだ。

 怒っていいのはフォンユーのような気がするが、言い出せる雰囲気ではない。

 参った――悪いことはしたつもりはないが、とりあえず謝っておこうとフォンユーは考えた。

 リーチィが足を止めた。

 その理由は彼女の頭越しに見えて分かった。

 リィウィとヂーリンが道の先にいた。

 ――家においてきたはずの二人がなぜここにいるのだろう?

 しかも二人はどうやら言い争いをしているようだ。

 リィウィはともかく、ヂーリンは争いとは無縁そうなのに。

「リーチィはここで待ってて」

 フォンユーは二人の下へと駆け寄った。

 リィウィがヂーリンに一方的に怒っているようだ。

「どうしたんだ、二人とも」

 ヂーリンは目を逸らして答えない。

 だからフォンユーはリィウィへ視線を移した。

「なんでもありませんの」

 ――二人まで思春期か。

 思ってみたが、フォンユーは言葉にしなかった。

 気付けばリーチィがすぐ後ろにいた。

 待っててという言葉は、聞いてくれなかったようだ。

 思わずフォンユーの口からため息が洩れた。

「「「なに?」」」

 三人に同時に言われた。

「いや――」

 フォンユーが返事に窮していると、ヂーリンが歩き始めた。

「ヂーリン!」

 リィウィが追いかけた――が、フォンユーがそれを止めた。

 頭を冷やさないと延々と言い争いは終わらない。

 痛っ――とリィウィがフォンユーの触れた左腕を抑えた。

「散歩くらい、放っておいてよ!」

 ヂーリンがいらつきながら言って幽水湖の方へ歩いていった。

 リィウィが小さくヂーリンの名を呼ぶ。

「リィウィ、怪我してるのか?」

「さっきヂーリンを探してる時に転んだの」

「探してた?」

「フォンユーの家で待ってたのに、いつの間にかヂーリンがいなくなってて。二人を追ったのかと思ってここまで来たんですの」

「ヂーリンは何を?」

「教えてくれなかった――」

 去っていくヂーリンの背中をリィウィは寂しそうに見ている。

「ヂーリンを探しにきたのにって言ったら、頼んだわけじゃないって怒り出したんですの」

「機嫌悪い時は誰にでもあるさ」

 そうね――リィウィは無理矢理笑って見せたが、直ぐに左腕に気遣った視線を向ける。

 リィウィと道化師が結びつきそうになるのをフォンユーは必死に抑えた。

 後ろからリーチィが服の裾をつまんで呼んだ。

「獣が――」

 小声でそれだけを言ったが、フォンユーには伝わった。

「そうか。まだこの辺は危険なんだ」

「ヂーリン――」

 リィウィがヂーリンの歩いていった方へ駆け出した。

 フォンユーとリーチィがそれを追う。

 丘上に立ち、湖を見下ろす。

 ヂーリンの姿はなかったが、代わりに兄妹を見つけた。

 そしてそれを追い詰める獣の姿を認めた。

「フォンユー、あれ――」

「助けに行って来る。リーチィはここに――」

 ここまで言いかけてリィウィへの疑念が浮かぶ。それが晴れない内はリーチィを置いていくわけにはいかない。

 「リーチィも来てくれ」

 リーチィが目を輝かせて頷いた。

「リィウィは村へ援助を要請に」

「だけどヂーリンは――」

「獣があそこにいるってことは、ヂーリンは無事だってことだ」

 リィウィは迷いを振り切れない中途な表情で頷いた。

 フォンユーは友達を疑っている自分が嫌になりそうであった。

 振り払うように坂道へ踏み込んだ。

 後ろにリーチィが続く気配を背負って湖へ。

 獣に迫られ湖ぎりぎりまで下がっているルンハイとダイユが見えた。

 フォンユーはそのまま湖に入っていった。

 その水は幽玄で、水面下に魚などが棲息しているのに水は存在していない。

 いや水はある。走っているフォンユーの足元で水が跳ねている。ないのは深さかもしれない。

 水溜りのような湖を中心に向かう。

「ルンハイ! ダイユ! こっちだ!」

 フォンユーは二人を呼んだ。

 二人がこっちを見た。

 一瞬の躊躇を振り払って駆け出したのはルンハイだ。怖気づく妹の手を取り、湖へ駆け込んだ。

 フォンユーと追随するリーチィは、向こうの兄妹と合流すべく方向を修正する。

 ――このまま獣が見逃してくれれば。

 フォンユーの僅かな期待虚しく、獣も湖に入ってきた。

 二人よりも大きな水飛沫を上げながら、こちらへ向かってきた。

「戦うしかないのか――」

 フォンユーは速度を上げた。さっきリーチィを引き離した脚力を活かし、ルンハイとダイユとすれ違い、そのまま獣へと飛び込んだ。

 真正面から蹴り――獣は頭を下げた。両脇の角と額の飾りが繋がってる。その額でフォンユーの足裏を受けた。

 印象通りの硬質な感触だ。

 獣は足を止めない。

 フォンユーは体重差で負け、上方へ弾かれかけた。

「この――!!」

 フォンユーは獣の肩を手で掴んだ。身体は獣の上で逆立ちした。

 そこから勢いをつけて身体を戻し、顎に蹴りを入れる。宙で後方へ反り、力任せに蹴りぬいた。

 フォンユーは着地と同時に更に後方へ水飛沫を上げて滑った。

 獣は顎を晒しているが、倒れるまではいかなかった。

 隣にリーチィが掛けて来ると、剣を引き抜いた。

 フォンユーも筆架叉を二本取り出して構える。

 獣が体勢を直し、歯をむき出して睨んでいる。

「殺すの?」

 リーチィが小さく訊いた。

「思った以上に強い。手加減できる相手じゃない」

「生かしておいてどうすんの!」

 ダイユが後ろで叫んだ。

「生殺与奪の権利がどうして君にあるんだ」

「わたくしたちを食い殺そうとしてるのよ! 権利も理由もあるわ!」

「お前たち、あいつに攻撃しただろ?」

 リーチィが静かに言う。

「それが何よ、関係ないでしょ――」

「お前たちを殺そうとするのがあいつを殺していい理由なら、あいつを殺そうとしたお前たちもあいつには殺す権利がある」

 ダイユが絶句した。

「確かにそうだ――」

「お兄様!」

 リーチィの意見は正しい。だが、二人を見捨てることもできない。

 ――どうする?

 フォンユーは筆架叉を腰に戻した。

「フォンユー?」

「何とかしてみるさ」

 獣が向かってきた。水面が割りながら近付いてくる。

 フォンユーも自ら距離を詰めた。

 獣が突き出した太い腕を掻い潜り、懐へ――膝蹴り、次いで前蹴りを振り上げた。踵がさっきと同じ顎を打ちつける。

 しかし獣は耐え切り、身体を振った。

 尻尾が唸る。

 フォンユーは蹴りのままの体勢で避け切れない――。

 がっと音を立ててリーチィが尻尾を受け止めた。剣は鞘に収めたままだ。

 だが、体重差は歴然、力負けして水飛沫を上げ滑っていった。

「リーチィ!」

 フォンユーは着地と同時に両脚を跳ね上げた。

 獣が体勢を戻す前に、厚い胸板へフォンユーの両足が突き刺さる。

 獣は数歩だけだが下がった。

 フォンユーは背中から水へ落ちた――が、間髪を入れずに跳ね起きる。

 横へリーチィが駆け寄ってきた。

 着物が水を吸い重くなっている。

「何をしてるの! 剣と筆架叉で突き刺せば殺せるでしょうに!」

「止めるんだ、ダイユ! 誰のせいでこうなったんだ!」

「――どういうことよ?!」

「言い争ってないで、二人は村へ逃げるんだ」

 獣が四つん這いの姿勢を取った。

「逃げるわけないでしょ」

「は?」

 リーチィが不機嫌に訊き返した。

「お兄様があなたたちの手伝いをするわ。感謝しなさい」

「無理だ――」

「お兄様?」

「僕には無理なんだよ。フォンユーくんの邪魔になる。僕らは引くぞ」

「嫌よ! 福王派の跡取りでしょ、何を言ってるのよ!」

「うるさい! お前は何も分かってないんだ!」

「――どうして――どうしてそんなことを言うのよ――」

 ――兄妹喧嘩なら余所でやってくれ!

 フォンユーは怒鳴りそうになるのを必死に堪える。

「フォンユー、こいつ何だと思う?」

 リーチィは兄妹を無視することに成功したのか、落ち着いた声で訊いてきた。

「野生の魔獣だろ。違うのか?」

「仙力を感じる。何らかの術だ」

「分かるのか――?」

「仙力を発しているわけじゃないから、術者本人ではなく――」

「術そのものってことか」

 獣が四足で水を掻き分け、猛進して来た。

 元々距離はない。フォンユーは勢いづく前に角を掴まえた――が、体格差は埋めようがない。

 フォンユーの身体は持ち上がりかけた。

 横からリーチィが鞘で目を打ちつける。

 獣が痛みを訴えるように唸りながら頭を戻した。

 フォンユーは更に押さえつけ、その間に術の正体を探ってみる。

 チャオリンのように変化型ではない。あれは術者そのものだ。仙力は内から湧き上がるため、フォンユーでも感じ取れた。

 二度目の投げに入ろうとした獣を、再びリーチィが阻止した。

 変化系でなければ召喚系だ。

 仙力を元に契約している魔獣を呼び出すもので、これは術者が近くで操作する必要があるはず――。

 だが、その気配はない。そもそもこいつは一人で行動していたと聞く。

 ――自分で考えて行動する魔獣を召喚する方法。そんなものがあるのか?

 獣が三度目の投げ――は引っ掛けだ。近付いたリーチィに手を振り回してきた。

 かろうじて鞘で受けたが、リーチィは水へ転げた。

 倒れたリーチィに尻尾が迫る。

 フォンユーは妹の名を呼んで角を手放すと、転げたリーチィへ覆いかぶさった。

「お前――」

 尻尾がフォンユーの背中を打った。

 打ち抜けるかと思った衝撃は戻っていくと、代わりに水飛沫が降りかかってきた。

 フォンユーが急に手を離したため、獣は力の受け手を無くし、背中からひっくり返ったらしい。

 そのために尻尾攻撃もそれほど威力がなかったようだが、痛みはある。

 全然動けそうにない。

「フォンユー! 大丈夫か?」

 リーチィが下でもがくが、背中の痛みに耐えるので精一杯であった。

 ――力を抜くと悲鳴を叫びそうだ。

「フォンユーくん!」

 ルンハイの声が響く。

 理由は分かる。獣が立ち上がったのだ。

 水が滴る音が妙に怖ろしく聞こえる。

 痛みはやっと熱さに変わったところだ。

 素早く逃げるなんてことは出来そうにない。

 ――リーチィだけでも……

 フォンユーは頭の中で手立てをいろいろ思案する。

 獣の足音が近づく。

『軟弱者!』

 頭に直接響いた声――ツージーだ。

 獣がフォンユーの影に入った瞬間、ツージーが影内を渡って飛び出た。

 体当たりが獣を数歩遠ざける。

 ――今だ!。

 フォンユーは光の弓に光の矢を番えて、振り向きざまに放った。

 この距離ならば外さない自信がある。

 召喚系ならば術者の仙力の源を身体のどこかに設定している。

 大抵は首だ。

 フォンユーはそれに賭けた。

 光の矢は体勢を整えようとしている獣の首へ刺さった

 だが、太い手が矢を掴んだ。

「浅い!」

 フォンユーは再び矢を具現化する。

 獣は矢を握りつぶすと、二、三度唸った。

 じりじりと後退している。

 首で正解のようだが、この状態では撃っても当たらない。

 距離を取られても一緒だ。

 召喚系の仙術は、魔獣の体力を限界まで使いきらせるか、仙力の源を破壊すると解除できる。

 体力はありそうだから、首を打ち抜いて術を解除するしかない。

 ――ここで決めてやる。

 フォンユーも矢を番えたまま獣を追う。

 背中の痛みがじんじん――と訴えてきているが、フォンユーは無視した。

 獣が逃げ出す。

 大樹の方ではない。さっきまでフォンユーたちがいた方だ。

 その向こうには村もある。

 フォンユーは背中の痛みを引きずりつつも、走った。

「フォンユー、無茶をするな!」

「リーチィはそこにいろ!」

 四足で水飛沫を纏いながら駆けて行く獣の背中が遠ざかる。

 根性ではどうにもならないほど痛手が尾を引いてるようだ。

 差は付く一方だ。

 向こうは既に湖を上がって、丘を駆け上がっている。

 フォンユーが湖の岸に着いた時には獣の姿は見えなかった。

 それでも丘を駆け上った。

 丘上での奇襲にも備えていたが、その気配はなかった。それどころか獣自体も見えなかった。

 村が一望できる。

 さえぎる物は無いというのに、獣はいなかった。

 あの体重と湖で染み込んだ水の気配、足跡も残っていない。

 村へ向かって下る坂にも痕跡は残っていなかった。

「どこへ――?」

 一番近い道にヂーリンが歩いているのが見える。

 他に人影もちらほらと見える。

 あの獣を見たら、こんな静けさでは済むまい。

 水門から畑にかけて、穏やかな朝の日常だ。

 畑にはチャオリンも見える。

 ふらふらと蜻蛉が畑の方へ遠ざかっていく。

 逃げられたようだ。

 フォンユーは座り込んだ。限界であった。

 ――軟弱者か。違いないや。

 フォンユーはツージーの手助けに感謝した。

 返答はないが、彼がどこにいるのかが分かった気がした。

 山道の方からフンと村の有志たちが駆けて来るのが見える。

 振り向くとリーチィも湖を走っている。

 その奥で、ルンハイは座り込み、ダイユは呆然と立ち尽くしている。

 ――後でお小言を言ってやる。

 ため息混じりにフォンユーは思った。

 更にその向こうの崖上に人影があった。

 白髪の老人だ。

 彼が獣だという発想は、今はない。

 だが、全く無関係だとも思えていない。

 ――彼を捕えるのが魔獣騒動を解決させる近道だ。

 勘というより、むしろ結論に近い。

「ここからじゃどうしようもないけどな――」

 フォンユーや呟くと仰向けに倒れた。

 直前に丘を登ってくるリーチィが見えていたが、きりりと口を真一文字に結んでいる。

 怒っている表情だ。

 この後にひと悶着があるのをフォンユーは覚悟しながら目を閉じた。

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