第4話

 家の中に白湯ぱいたんの香りが満ちている。

 油質でありながら優しいのが特徴だ。

 その香りに鼻とお腹を刺激されながら、フォンユーは食卓を準備する。

 ご飯を食べる時は板の間を使っている。

 い草の筵を敷いて、その上にちゃぶ台を置く。

 二人が正座するだけで埋まってしまうほど小さいが、ここが食卓だ。

 フォンユーが勺子を並べ、散茶の用意を始めた。

 今夜はリーチィが食事当番である。

 白湯を主としたお粥で、兎の肉も入れたらしい。

 リーチィが奥の台所から茶碗を持ってくる。

 大小の差がついた茶碗に、なみなみとお粥がよそわれている。

 熱いはずだが、顔色一つ変えずにリーチィはちゃぶ台に茶碗を置いた。

 散茶の準備も終わり、二人が席につくと、いよいよ食事だ。

 ちゃぶ台に向かい合って座り、手を合わせてから食べ始める。

 勺子から粥をすする。

 ――あっさりとしているが旨味は生きてる。

 うまく言えないが、美味しい。

 香味が加わっているようだ。

「わかる?」

 リーチィが訊いてきた。

 味を変えてみたがどうか――ということらしい。

「大蒜しか分からない。他に?」

「丁子と生姜――」

 言われると生姜は感じる。

「丁子って漢方に使われるやつか――」

 リーチィは頷いた。

「失敗?」

「どうだろう――」

 二人で同時に粥をすすり、同時に首を傾げる。

「大丈夫。美味しいと思うよ」

 味は分からないが、正直にそう答えた。

 リーチィが目を伏せるように勺子を運ぶ。

 兄に言われたくらいでも嬉しいんだな――とフォンユーは微笑ましく思った。

「なに?」

 リーチィが視線に気付いて言った。

 多少不機嫌そうなのは照れ隠し。

 証拠に頬だけではなく耳まで赤い。さすがに大蒜や生姜の辛みでなったわけではあるまい。

 それにしても『見てた』と正直に答えても詮無いので、フォンユーは話題を変えた。

「リィウィとチャオリン、仲直りしたよ」

「そう――」

「君の仕立物のおかげだ」

 リーチィは返事をせず頷いただけだが、嬉しそうだった。

 その感情を引き出せたことにフォンユーは満足した。

 昔はリーチィもよく笑ったものだ。

 彼女の十歳の誕生日に、里の皆と口裏を合わせ、突然におめでとうを言ったことがあった。

 彼女の顔は驚きと嬉しさを同時に表現していた。その後ろ姿を覚えている。

 やがて喜びに泣き出した彼女は、両親や村の人に囲まれ、それはそれは幸せそうであった。

 リーチィはすぐ泣く子だったから、《泣き虫》という冠が彼女の名前の前には必ず付いていた。

 ――いつからだろう、表情が乏しくなったのは?

 フォンユーは記憶の引き出しを確かめていく。

 忘れてしまっているのか、引き出しそのものが少ない。

 帰ってくる時に『大丈夫』だと確信した記憶が、大丈夫じゃなくなる。

 思い至らないことを、別の記憶で補ってみる。


 リーチィは感情を押し殺すようになり、泣くことが全くなくなった。


 ――何でだよ!

 自分の思考に自分で駄目出しをする。

 記憶の欠損に不安を覚えてしまう。

 ――そういえばリーチィが感情を爆発させている時があったな。

 ふとフォンユーの頭をよぎった。

『一人でいることはもうイヤ! 一人でいるくらいなら死んだ方がマシだ!』

 叫び声が残っている。

 ――あれ?

 物凄い違和感がある。

 まず声が違う。

 ――今より、なんというか……大人っぽい。

 それに内容がおかしい。

 ――『一人』って?

 フォンユーの存在はどこにいったのか。

 大人のリーチィ――

 昨日もそんな錯覚があった。

 フォンユーは誰かと勘違いしている可能性を記憶の棚に求めたが、めぼしい資料は何一つ無かった。

 誰かというにはリーチィにそっくりで、別人とするのが難しい。

 上品に勺子を動かすリーチィに目を移す。

 さっきの記憶の女性は現在のリーチィと重なる。

 ――なんだろう?

 不安定な思考に怯えそうになる。

「で?」

 リーチィが唐突に訊いた。

 フォンユーの思考を無理矢理に引き戻す。

「で?」

 唐突過ぎて意味が分からず、同じ言葉で聞き返してしまった。

「他には?」

 リーチィは腹を立てることなく補足してきた。

「ああ、町であった事ね。気になるなら一緒に来ればいいのに」

「人が多いのは厭」

「そんなに多くないだろ」

 そんなことないと目だけで抗議しながら、リーチィは勺子を口に運んだ。

 苦笑しながらフォンユーは続けた。

「後は――そうだ。例の農工具の依頼主たちに会ってきた」

「都からの仙人兄妹」

「街中で勝負を挑まれちゃったけどね」

 リーチィが反応する。

「もちろん勝ったよ」

「ケガは?」

 勝敗は大事じゃないとばかりに、リーチィは語尾を被せて訊いてきた。

「向こう? 俺? どっちも大丈夫だよ」

 リーチィは何故か憮然としている。

 綺麗な眉と眉の間に溝が出来てるのは、思うようにいかなかった時の表情だ。

 ちら――と視線を動かした先には剣が立てかけてある。

 そして小さなため息――

 フォンユーにはその挙動の意味が分からなかった。

 あまり触れない方がよさそうだ――と判断し、話題を逸らすことにした。

「仕事は請けてきた。だから鍛冶屋のは明日にでも納品に行って来る。――あ……」

「なに?」

 明日――で思い出したことがあった。一番重苦しい話題が。

「――町でフンに会った」

「面倒ごと?」

 その単語が出てきた辺り、リーチィもフンのことをよく分かっている。

「そう……」

 フォンユーは紙をリーチィに渡す。

「魔物――」

 リーチィは紙を見てから言った。

「フンは《獣》って言ってた。逆さ大樹にいるようだ」

「ふうん――」

「俺は絡むつもりはなかったんだけど――」

「行くの?」

「明日、村の人たちで逆さ大樹に狩りに行くんだって。放っておけないだろ」

「お前に何かあったらどうする」

「大丈夫だ。危なくなったら逃げるよ」

 勺子を咥えたまま、リーチィはじ――と見ている。

「なんだよ」

「この前もそう言った」

 この前とはチャオリンの事件のことだ。

「そうだっけ――」

 フォンユーは覚えていないが、リーチィは力強く何度も頷いた。

「明日はそっちに行くから、納品にはいけないんだ」

「あたしもついてく」

「それはないな」

「あるよ。お前は仙術を使えない」

「だから君を守るので精一杯じゃないか。村の人たちを助けられなくなる」

「それでいい」

「君ねぇ――」

「あたしが傍にいれば、お前は無理をしない」

「だけど、それじゃ――」

「大事なものが分からないほど、あたしは馬鹿じゃない。お前はどうだ?」

「リーチィ――」

 リーチィはまた食べ始めた。この会話は終わったらしい。

 フォンユーも食べ始める。

 まだ粥の下が熱い。

 リーチィを横目で見ながら、怪しい奴や気配はなかったかと訊くべきかを考えた。

 迷った挙句に止めておいた。

 ――誰が狙ってこようとも、リーチィを守って見せる。

 ただそれだけを思った。

「ん?」

 またリーチィと目が合った。

 誤魔化すために口をついた言葉は面白みのない質問であった。

「君の方は今日どうだった?」

「普通」

「普通か――」

 リーチィは最後の一口を食べると、手を合わせてごちそうさまをする。

「それが一番」

 立ち上がって食器を持って出ていく時、リーチィはそう言った。

 その背を見送ってから、フォンユーは頷いた。

「そうとも――。普通な日が一番だ」

 ほんのり湯気を上げる勺子を口に入れた。


*        *        *


 入口を潜ると机や板の間がある大きな部屋がある。

 奥には二部屋――右がフォンユー、左がリーチィの寝室だ。

 戸が無く、空け広げの為、リーチィの方には目隠しの布が吊るされている。

 板の間とリーチィの部屋の間に引き戸が有り、そちらに一段低くなった土間があった。

 元々人の出入りがしづらい位置にあるので、リーチィが湯浴みをする時にしか使っていない。

 格子窓と裏口一つの部屋に、小さい蝋燭を灯した。

 ゆらゆらと光が影と踊る。

 フォンユーは真ん中に盥を置き、沸かしたお湯を水で調節しながら入れていく。

 この盥は空家のこの家に元々置き忘れていたものだ。

 フォンユーが修理し、湯浴み用に補強した。

 リーチィなら少し横座りをすれば、肩ぐらいまでは浸かれる大きさがある。

 フォンユーは手で温度を確認した。

「リーチィ、いい感じだぞ」

 すぐにリーチィが自室から土間へと降りてきた。

 下着姿を隠そうともしないリーチィに、フォンユーは思わず見入ってしまった。

「なんだ?」

「いや――」

 フォンユーは頭を掻きながらリーチィとすれ違う。

「覗くなよ」

「誰が――」

 振り向いた所で引戸が閉められた。

 フォンユーは心ならずもちょっとどぎまぎしてしまった。

 リーチィが盥に浸かったようだ。

 土間から聞こえる水の跳ねる音――平穏な心持ちでいれば瑞々しい爽やかな印象なのだが、気持ちが波打っている時に聞くと卑猥に聞こえるから不思議だ。

 ――そういえば。

 フォンユーの頭に、郷愁に似たうずきを感じた。

 あれはフォンユーが十歳、いや八歳頃か。

 酷似した状況があった。

 土間にいたのは――

「師匠だ」

 フォンユーは思い出した。

 フォンユーを弟子として引き取り、育ててくれた女仙人――シャォウーだ。

 多感な時期を母親代わりとなり、そして仙術を教えてくれた人だ。

 六歳の頃から弟子入りし、ずっと一緒であった。

 肉感的な身体は男たちの羨望の的であった。

 ませていたフォンユーは八歳の時から土間の湯浴みを覗こうとしては何度も失敗した。

 成功したことは一度もない。

 たいていは霧などで見えない――などだが、仙術解除を覚えて臨んだ時には、覗いた途端に転移させられたことがあった。

 泣きながら家へ帰った記憶は今でもかなり鮮やかに残っている。

 街道の外れまで迎えに来ていた師匠の姿を見た時の安心感――。

 家族のいないフォンユーには師匠こそが全てであった。


 ――リーチィはどこだ?


 ふと浮かんだ疑問は至極当然のものだ。

 その時の記憶にリーチィがいないのだ。

 フォンユーが八歳ならリーチィは四歳――いないはずはない。

 ――俺だけだけが居候してたってことか?

 無理矢理だが、フォンユーはそう納得した。

「フォンユー……」

 弱々しいリーチィの声がする。

 フォンユーは思考の波間から顔を出すように現在の家へ戻ってきた。

「どうした?」

「服を――……」

 どうやら着替えを持ってくるのを忘れたらしい。

 フォンユーは苦笑しながらリーチィの部屋に入った。

 確かに机の上に着替えが置きっぱなしだ。

 奇麗に畳まれた服を崩さないように取って戻った。

 目を塞ぎながら土間へ手だけを入れる。

 ほんのり温かい指が触れる。

 そっと手を戻したが、どきどきが止まらなかった。

 妹だぞ――何度も言い聞かせていると、リーチィが戸を開けて飛び出て、そのまま自分の部屋へ走っていった。

 耳が真っ赤であった。

 土間には盥とお湯が残っている。

 フォンユーはずかずかと土間に降りた。

「フォンユー――」

 振り向くとリーチィが顔だけ覗かせていた。頬が桜色に上気している。

「どうした?」

「お湯飲むなよ」

「飲むか!」

 フォンユーは憤慨しながら盥を持って裏口から外へ出た。

 ――このお湯にリーチィが……

 ――だから妹だって!

 を繰り返して、二度目でやっとお湯を捨てた。

 空の星に気付く。

 山間の隙間を埋めた星々が、明かりだけで降り立ってくる。

 フォンユーは湯浴みを外ですることにした。

 盥を庭の真ん中に置くと、お湯をそこまで運んだ。

 フォンユーは盥に座り、伸びをした。

 冷たい空気が火照った心を鎮めるにはちょうど良かった。

 ふと自分の左肩の痣が目に入る。

 痣と呼ぶには痣に失礼なほどくっきりとした形だ。

 三日月の開いた部分が咥えているように丸があり、それを挟んだ反対側で片翼を広げるように小さい三日月が六つ並んでいる。

 焼印でもない。

 生まれつきなのだろう。

 目線を上へ向け、星を散らしたような夜空をぼぉっと見てると、リーチィが外へ出てきた。

 リーチィは歩いてくると、遠慮なく盥の横に立った。

「君が覗くのはいいのか?」

「覗いていない。いるだけ」

「――――それ、俺にも使える手か?」

「お前がやったら斬る」

「だよね……」

 二人で満天の空を見上げた。

 虫の声が静けさを強調している。

 フォンユーの視線は下だから、リーチィの顔は星空の手前に入っていた。

 表情は夜闇に押し固められたように微動だにしないが、いつもの覇気は感じられない。

「何か不安でもあるのか」

「いろいろとね」

「大丈夫。意外となんとかなるものさ」

「そうか――」

 フォンユーはリーチィだけに視界を移した。

「一人じゃないんだ。心配ない」

 リーチィも視線をフォンユーに向けた。

 小さく首を動かして頷いた。

 夜の影を越えて瞳が潤んでいる。

「フォンユー――……」

 星の動く音までが聞こえそうなほどの静けさを破ってリーチィが名を呼んだ。

 少し声が掠れている。

 返事をせず、フォンユーはただリーチィの次の言葉を待った。

「意外と見えるものだな」

 思いがけない事をリーチィの口が発した。

 フォンユーは盥の中で股間を隠す。

「リーチィ!」

 その時には既にリーチィは家の中へ入っている。

 揺れ動くお湯の音が間抜けに聞こえた。

 ぷ――

 堰を切ったようにフォンユーは笑い始めた。

 高い星空に笑い声が突き抜けていった。


*        *        *


 フォンユーは寝台に横になった。頭の後ろで組んだ手を枕にして、天井を見上げる。

 ほとんど何も無い部屋であった。

 入ってすぐに机と椅子が有り、その横に箪笥が一竿置いてある。

 壁際に寄せられており、戸口から丸見えの位置であった。

 反対側の壁に寝台が膝の位置の高さで取り付けられている。

 全て、この家に元々あったものだ。

 フォンユーの私物はほとんどない。リーチィが仕立ててくれた服だけだ。

 彼女の稼いだ金は、食べ物と布に変わっている。

 フォンユーが猟で獲った肉もほとんどが生活必需品になるだけだ。

 リーチィの部屋も仕立用の布や道具以外はフォンユーの部屋と変わらない。

 唯一、彼女の寝台には陶製の枕が置かれていた。

 これはフォンユーが《猩朱シンチュー》事件を解決した際に、リィウィから贈られたものだ。

 解決したのはフォンユーなのに、リーチィへ贈り物を用意する所などは、リィウィもよく分かっている。

 リーチィへの物なら、フォンユーは断らないと思ったらしい。

 家の外で蟋蟀が鳴いている。

 季節柄、少し弱々しく感じた。

 途端、寒さが急に主張してきた。

 薄い布を足下から引き寄せる。

 目を瞑ると、仙人大戦の時の様子が浮かんで来た。

 最早正しいかどうかも怪しい。

 というのも、対面している相手の肩に光が吸い込まれていく記憶――これはチュンジュンによって引き出されたものだ。

 繰り返し再生している内に映像が固定された気がする。

 光が吸い込まれた相手がリーチィだとすれば、これは仙術が使えなくなった理由になる。

 ならばフォンユーの仙術が弱まった理由は何なのか――?

 フォンユーの仙術は《光矢弓》という光の矢を放つものだ。

 フォンユーはこれをシャォウーから伝授してもらった。

 仙人が術を得る方法は幾つかあるが、口伝で教えてもらうのが一般的だ。

 仙人になるには、生まれ持った内包力――仙力が備わっていなければならない。

 だが、それだけでは仙人ではない。

 仙術を使えるようになるための修行が必要となる。仙力を引き出し、術に変えるための修行を。

 仙力が引き出せるようになると、その仙力の方向性を決めるのだ。

 術式系、武闘系、召喚系といった大別がここでなされる。

 その大別により術は選ばれる。

 大別せずに術だけでも会得はできる。

 ならば何故方向性を決めなければならないのか。

 仙力の拠り所が変わるからだ。

 仙力は心の奥深い所から生まれ、身体から発する。

 この《入》と《出》を一致させることで一段上の術になる――これは師匠の受け売りだ。

 つまりは格闘系でなくとも格闘仙術は身につけられるが、召喚系仙人の格闘術と格闘系仙人の格闘術では雲泥の差となる。

 流派に合ったものを選択するのが王道だ。

 師に大別を見極めてもらうのが、良い仙人になる最良最短な方法である。

 フォンユーも師匠に手ほどきを受け、結果選んだ技が光矢弓だ。

 谷に伝わる術の中で、五本の指に入るほど有名で難易度の高い技であった。

 フォンユーの記憶によれば、射程距離、命中度、攻撃力は申し分なかったはずだ。

 フォンユーは仙力が多いから、この技はうってつけだ――シャォウーはそう豪語した。

 雨のように矢を打つことも、尚かつ正確に狙うことも、それにより生死をも掌握できる大技だ――と。

 今は、『飛ばない』『当たらない』『威力ない』の三拍子だ。

 ――どこでこうなった?

 その記憶も定かではなかった。

 定かでないといえばもう一つある。

 チュンジュンによると、光が当たったのは仙人大戦の真っ最中だということだ。

 しかし、

 ――その時にフォンユーとリーチィは何をやっていたのか?

 曖昧であった。

「何だ……記憶ぼろぼろじゃねえか……」

 改めて整理してみると、全く整合性が取れない記憶ばかりであった。

 リーチィに聞いてもわからないであろう。

 あの時――光が溢れた後――気付くと、リーチィは地面にぺたりと座り込んでいた。

 顔は涙で濡れ、力が抜けたように、呆然としていた。

 リーチィ――何度呼んでも答えなかった。

 相当な衝撃を心に負ったようであった。

 やっとフォンユーを認識すると、声にならない状態で胸へと抱きついて、泣いていた。

 フォンユーにはその直前の記憶が曖昧だが、余程のことがあったに違いないのだ。

 光に打たれたせい――全てがそれで説明がついてしまう。

 その後しばらく、リーチィと会話が成り立たなかったのも、彼女の記憶が飛んでいたせいだ。

 その時リーチィは、自分がフォンユーの妹であることさえ忘れていたのだ。

 そこから世界改変の混乱の中をすり抜け、この藤林村へたどりつく頃には、やっと兄妹であることを思い出したようであった。

 ここでの生活も二ヶ月――ようやく落ち着いてきたように思える。

 この家は既に自分の城となっていた。

 月明かりの角度も微妙に変わり、濃い光は窓から入って部屋の闇を切り分けている。

 怪我の功名か、《猩朱》事件は村への定着を早めてくれた。

 ――よくよく考えると、俺たちがここに来たせいで起こった事件なんだよな……。

 手放しでは喜べない。

 そういえば、ツージーの存在もかなり曖昧だ。

 リーチィにやたら過保護だから、彼女の中の仙石が影響している――とも考えられる。

 だからリーチィへの庇護の気持ちが強く、フォンユーを否定しているのだろう。

「《娘は嫁にやらん》精神か――」

 フォンユーは大きく伸びをした。

 リーチィを嫁にするには第一障壁になるということだ。

「いやいや、妹、妹――」

 呪文のようにつぶやいた。

 深呼吸して続ける。

 チュンジュンの狙いはリーチィの身体にある仙石。ということは彼女も仙人だろうか。

 チャオリンに本来持っていない仙術を付加した張本人だとしたらそうだろう。

 ――他人に能力を与えられる仙人なんて聞いたことがない。

 もしかしたら獣も彼女の仕業か――

 また誰かをたぶらかせている可能性を考えると、帰りにすれ違った老人と獣の姿がやはり被る。

 どちらにしろ、狙いがリーチィなら明日一緒に連れて行くことはできない。

「俺がおびき出されている可能性もあるな――」

 そうなると一人にしておくこともできない。

 フォンユーは目を瞑った。

 外で秋の虫が鳴き交わしている。

 夜に紛れて虎視眈々と狙うチュンジュンの姿が思い浮かぶ。

 ――どうやったらリーチィを守りきれるか。

 フォンユーの思考はそこへたどり着いていた。

 その時、衣擦れの小さな音が近付いてきた。

 部屋の入口で止まったようだ。

 目を凝らすと人影が立っている。

 リーチィだ。

「独り言か?」

「まあね。どうした、寝られないのか?」

「見回り」

「そりゃあ、お疲れさん――」

 ――何に対しての警戒なんだか。

 どこまで本気か分からないリーチィの言葉に苦笑が浮かぶ。

 じ――とリーチィが待っているようだ。

「ここへ、座るか?」

 リーチィが無言でそそくさと入ってきた。

 妹、妹――と呪文のように考えながら、寝台に座って横を空ける。

 そこへリーチィがちょこんと座る。

 仄かな花の香りがふんわりと匂う。

 くらくらとする思考に耐える。

 隣に座ってもリーチィは何も言わない。

 この沈黙はフォンユーは嫌ではなかった。

 逆に、声を出してしまうと、壊れしまう気がした。

 とはいえ、朝までこうしているわけにもいかない。

 眠らないと身体も壊すし、成長もしない。

 妹のことを思えば仕方ないのだ。

 もったいないと思いつつ、フォンユーは口を開いた。

「どうした?」

 リーチィの影がゆっくりとフォンユーを向く。

 夜に慣れた目にはリーチィの顔がよく見える。

 大きな瞳が揺れている。

「――いれば良い」

 リーチィはそれだけを言い置いて、足早に出て行った。

 彼女が残した香と体温に悶々としながらも、リーチィの言葉の意味を考えた。

 いれば良い――冷やりとした印象がある。

 一人になることを怖れているのだ。

 ――心配ない。

 フォンユーは胸を張って言える。

 リーチィを独りにしたりしない。

 兄として、村の中でやっていけるように見守ってやるつもりだ。

 良き人生の先輩や友を見つけてあげたい。

 そしていつかは良き夫を――。

 なぜか、ここでフォンユーの胸の奥がちりちりと痛んだ。

 更に浮つくような感覚までが支配している。

 淋しいような、不安なような。

 まるで自分が孤独を感じているようであった。

 ――ずっと一緒にいられたら良いのに。

 フォンユーはゆっくりと目を閉じる。

『なぜ一緒にいる、と言い切らないのだ。だからおぬしは軟弱者なのだ』

 フォンユーは目を開ける。

 部屋にツージーはいない。

 だが、いたとしたら確かに言いそうな台詞であった。

 ――自分の想像にやましい所があるのか?

 苦笑しつつ、再び目を閉じる。

『あちきは諦めないわよぉ。絶対に自由になってやるぅ』

 フォンユーは飛び起きた。

 頭の辺り、台の上に気配があった。

 声も現実のものだ。

 だが、今は月光の向こうには何もいない。

 ――あいつの本当の狙いはなんだ?

 荒くなった呼吸を整える。

 遠吠えが山を越えて響いてくる。

 逆さ大樹か、もっと遠い所。

 誰かを呼ぶような、孤独を嘆いているような――そんな声で。

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