第9話 母の悲鳴

 築五十年にもなるボロいアパートで五人暮らし。


 俺、母さん、世覇、かなた、こなた。


 その中に、本来ならいるべき人がいなかった。


 父さんだ。


 あの人はこなたが生まれても、顔を見る前に俺たちの前から去っていった。


 理由は知らない。母さんもわざわざ、幼い俺たちに言うはずもないし、俺たちもこれまで聞いたりしなかった。

 母さんに気を遣ったわけじゃない。話題に出せないほど、家庭内で禁句というわけでもない。

 単純に、父さんが必要だと思わなかったのだ。


 普通なら父親と母親が分担してやることを、うちは母さんが一人でこなしていた。


 俺たちのことをここまで育て上げてくれた。

 たった一人で、だ。


 二十四時間労働をしても倒れない強靱な体を持ち、


 いついかなる時も俺たちに弱音を吐かず、人の悪口も聞かせたりしない。


 堂々として誰にも屈しない頑丈な心を内に秘めていた。


 そんな母さんが、赤魔人になった……?



「ありえない……」


 ざっくばらんな性格的に、敵を作りやすいのは分かる。

 非難なんてものはどんな善人を相手にしても一定数は必ずいるものなのだから。

 だから炎を持つこと自体は珍しくもないが……、世間で流行った病に自分がならないと決めつけているとなったりするものだ。


 それくらいの確率だろう、赤魔人というのは。


 だから俺が言った「ありえない」は、母さんが赤魔人になったことが、ではなく。


 いりすや他の人を襲い始めたことだ。


「母さんが、復讐なんて……!」

「しないと思うのか? おまえの母親だって、人間だぞ」


 ……言われて気付く。


 母さんは俺たちから見て強い。でもそれが、強がりだったとしたら?


 俺たちに弱さを見せられないと意地を張り続けた結果なのだとしたら。


 どこかで糸が切れてしまえば、あとは雪崩のように積み上げたものが瓦解するだろう。


 きっかけが、心ない誰かからの非難で、


 がまんが決壊したことで、赤魔人の特性に憑りつかれてしまえば。


 感情のままに周囲を攻撃する。


 俺に攻撃をしなかったのは、息子だったからだろう。

 だから、あれが母さんの、最後の踏ん張りだった――。


「善人だって、人からうらまれる。

 そんな善人も、嫌いなやつの一人くらい、いるだろ」


 人と人がいる以上、対立は避けられない。


「おまえの母親が例外だなんて、言わせない」

「……ああ、もう、分かってるよ」


 母さんがどれだけ敵を作り、それでも俺たちに向けて気丈に振る舞っていたのかが。


 夜中に抜け出していたのも、どこかでガスを抜いていたからなのかもしれない……、

 俺たちに弱みを見せず、いや、見せてはならないと決めつけていたのだろう。


 母親として。


 母さんからすれば、俺たちはまだ子供なのだ。


 自分が守られる側だなんて、思いもしていない。


「母さんだってのは、分かったよ。

 だったら……あれはなんだ……? 炎を持たない、真っ黒な――」


「黒魔人だ」


 と、ステイシア。


「赤魔人の正統進化、とは言っても、悪化してると思っていればいい……」


「悪化……」

「今のままじゃ、いりすに勝ち目はないな」


 いりすは今まで、勝てる相手を選別して戦ってきた。それが悪いことだとは思わない。


 絶対に失敗できない状況なら、そのやり方は確実とも言えた。いりすよりも強い赤魔人を野放しにしてしまうことになるが、元々弱い赤魔人を余すところなく網羅していたわけではないから、多かれ少なかれ、野放しになっている赤魔人は存在している。


「強いから見逃す」も、

「弱くて数が多いから取りこぼしていても見て見ぬ振りをする」も、変わらないだろう。


 赤魔人が化け物の姿をしていても人間であるように、


 魔法少女だって人間なのだ。


 しかもいりすは、一人だったのだから。


 俺の母親のために、負ける覚悟で戦ってくれとはとても言えない。


「ヒーローなんだから戦え」と脅したら、それは火種になるだろう。


 多少の耐性があるとは言え、いりすが赤魔人になったら目も当てられない。


「俺がなんとかする」


「魔法少女でも勝てないのに、おまえにどうこうできるわけが……」


「世界が表と裏に分けられ表裏一体だと言うなら――表の悪感情が裏に押し込まれていると言うのなら――表で俺が、母さんを説得すればいい」


 結局のところ、俺たちのために気持ちを押し殺していたのが原因だ。


 世界全体が争いを起こさないように、悪感情を裏の世界に押し込め、誰もが空気を読んで対立を引き起こさないように、言いたいことも自由に言えなくなったのだとしても――、

 だとしても、家族は違うだろう。


 家族にだけは、遠慮なんかしなくていい。


 かなたもこなたも世覇も、言いたいことを言い合っているのだから。


 なのに母さんだけがどうしてがまんをしなければならない?

 怒ることはあっても、母さんがわがままを言ったことは一度もなかった――。


 だから。

 こんな時ぐらいは。


 弱みを見せたって、いいじゃないか……ッ。


 溜め込んでいたものを全て吐き出させ、復讐心を取り除いてしまえば、裏で暴れている黒魔人化した母さんも、活動を止めるはずだ……。



 表の世界に戻る。

 いくのは難しいが、帰ってくるのは意外と簡単だ。


 裏の世界で精神は外出していたものの、表の肉体は寝たままだったようで――目を開けたら天井が見えた。体を起こして周りを見ると、やっぱり母さんだけがいなかった。


 部屋着の上からパーカーを羽織り、軋む床を通って家を出る。


 眠っている弟と妹を起こさないように、なんて配慮もしなかった。


 行き先にあてはないが、しばらく駆け足で移動すると、近くの公園のベンチに座っていた母さんが見えた。

 片手で持つスマホの光が、母さんの表情を照らしている……、画面の明かりを点けたり消したりを繰り返し、大きな溜息を吐いていた。


 近くにいてくれて一安心だ。俺の足もゆっくりになる。


「母さん」


「……、もぐら? こんな時間に出歩いて、どうした?」


 俺は答えず、自販機で買った缶コーヒーを母さんに手渡す。


「少ない小遣いでこんなの買って……、母親になに気を遣っているんだかね」

「そっちこそ」


 言って、自分用に買った缶コーヒーの蓋を開ける。

 母さんの隣に腰を下ろした。


「悩み相談? 彼女の前では聞けないことだったり? 青春してるわねー」


 それでそれで? と興味津々に母さんが聞いてくる。


「あんたよりも多く人生を歩いてきた私に、なんでも相談しなさいよ」


「じゃあ……。まあ、相談というか、お願いなんだけどさ」


 母さんはまさか、これから俺に非難されるとは思ってもいなかっただろう。


 散々、裏で非難されてきた母さんには、とどめになってしまうかもしれない。

 しかし、母さんを自分の憂さ晴らしのために非難する、あいつらとは違う。


 俺は母さんにとってなんだ?


 息子、だろ?


「俺たちに、頼れよ」


「…………なによそれ。頼るって、家事手伝いで頼っているじゃない。私が仕事で忙しい時は家のことを任せっきりにしちゃってるから……感謝してるわよ? 

 それに、長男のもぐらには世覇や、かなたとこなたの面倒を見るのを、小さい頃から任せちゃっていたから。私は充分に頼っているんだからさ。

 自分のことを頼りない男だとか思っているなら、そんなことないから。自信を持ちなさいよ。じゃないと、いりすが不安になるでしょう?」


 違う、そうじゃない。

 確かにそれも母さんの弱みでもある。だけど、まだまだ浅い部分だ。


 俺が頼ってほしいのはもっと奥。


 遠目からだが、母さんのスマホの画面には、十桁の番号が表示されていた。

 それは滅多に会わない人の番号。母さんからすれば実の母親だ。……なのに、その人にも明かせない弱みがある――言えないからこそ、溜め込んでしまっていたのだ。


 実の母親にさえ言えないことを、息子の俺に言えないだろうことは百も承知だ。


 だが、それでも、俺が欲しいのはそっちの弱みだ。


「俺が生まれてから、母さんはさ……いりすとなにも変わらない女の子から、初めて母親になったんだろ? ……完璧でいなくちゃいけないとか、弱みを見せてはいけないとか、勝手にそう思い込んでるみたいだけど……別にいいじゃんか、間違えたって」


「急にどうしたのよ、そんな話をして。

 そもそも、私は間違えてばかりだしねえ?」


 離婚のことを指しているのだろうか。

 確かに、子供にとってはよくないだろうけど……。


 そうじゃない。


 上辺だけの弱みを見せて、誤魔化そうとしても逃がしてなんかやるものか。


 ここで吐き出さなかったらどこで吐き出す? こっちの世界で無理やり張っている糸をすぐにでも切らなければ、裏面で破壊を繰り返す――。


 まさに今、表向き平気な振りをしていても、裏では警鐘を鳴らし続けている――、

 それを無視できるほど、母親に対して無関心ではいられない。


 だって、俺にとって、親は母さんしかいない。


 父さんのように見捨てたりは、絶対にしない!!


「……誰だ? 母さんを傷つけたやつは――誰だ?」


「ほんとに、どうしたのって。私は傷つけられたりなんかしていな――」



「他の誰が母さんを嫌おうとも! 


 俺だけは絶対に、母さんの味方でい続けるッ!!」



 きっとそれは、世覇も、かなたも、こなたも、同じだろう。


「――世界を敵に回しててでも、母さんの横にいることを誓うよ」


 だから!!

 だからもう――がまんなんか、しなくていい……ッッ。


 ……すると、母さんが微笑んだ。


「そういうことは、私じゃなくていりすに誓いなさい」

「うん……でも、本音だよ。いりすと同じくらい、母さんのことも大切だから――」


「ありがとう……もぐら」


「だから、言えよ。胸の内に溜めてることを、全部。隠しても分かってるから。そりゃ細かい部分は知らないけど、でも、もう限界だってことは、みんな気付いてる」


「…………子供の前で、弱さは見せられない」

「母さん!!」


「そう思っていたけど……はぁ、心配をかけてる時点で母親失格ね」


「違うよ。気付けたのは母さんが俺たちをここまで育ててくれたからだ。……たった一人で、色々なことを堪え抜いてさ。ありがとう、母さん……それと、お疲れさま」


「本当に……っ、ほんとう、に……っっ、私の、息子なのかしら、ね……あんたは」


 どういう意味だよ、とは言えなかった。

 母さんがぼろぼろと泣き始めてしまったから。


「私みたいな失敗作から、こんな子が育つなんて……信じられないって、の……」

「失敗作なんていないよ」


 成功作がいないんだから。


 この世界と同じで。


「だから全部、吐き出していい。どうせここには俺しかいないんだから」


 繰り上げられた家族の大黒柱として。


 長男として、聞き届ける。

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