第8話 合図の火柱
風呂から上がった女子たちと入れ違いに、俺と世覇もカラスの行水のように、一瞬で水を浴びる……、お湯を浴びれるに越したことはないが、今に限れば頭を冷やすという意味でも冷水を浴びて良かった。
ついさっきのことを思い出す。
拭い切れずに水滴が乗る、濡れた肢体と火照った肌。脱衣所が狭いので、女子たちはバスタオルを体に巻いたままだった。
妹のそんな姿を見てもなんとも思わないが、今日はいりすがいる。好きな子を前にしてなんとも思わないわけがなかった。
「やばっ、いつもの癖で出ちゃったけど、今日はいりす会長も一緒なんだった」
すぐに襖を閉めてキッチンで着替える三人の声と音が聞こえてくる。
衣擦れ音。
女子同士がじゃれつく声。
想像が膨らむ。
それにしても、恥ずかしがるいりすもいいよな……。
胸や尻が隠れていて安心している中で、剥き出しの肩に魅力を感じたりもするし。
そればかりが頭の中に映像として残っていた。
「兄ちゃん、いつまで頭から水を被ってんだ?」
「もう少し……邪念を消してから部屋に戻る」
世覇を見送り、それから数分、俺は水を浴び続けた。
部屋に戻ると、並べられた布団の上に座るいりすと目が合った。
同じ布団にはかなたが。今年も引き続き、生徒会役員である妹が元会長のいりすにアドバイスを求めている最中だったらしい。
俺の布団は、もちろんいりすの隣ではなかった。意図的に離されている。
彼氏彼女と認識されてはいても、隣にはしてくれないようだ……、女子同士、男子同士で分けられている。
「――ねえ、いりす会長ってば……もしかして眠い?」
「え、あ、うん。ちょっと、ね……」
視線が逸らされる。裸同然の姿を見られたら、気まずいのも無理ない。
俺も今、さっきのいりすの姿を今のいりすに重ねてしまって、声が出なかった。
自分の布団に腰を下ろす。隣では二リットルのペットボトルに水を満タンに入れて、ダンベル代わりにしている世覇がいる。
スマホをいじるこなたと、家計簿を前にしてうんうんと唸る母さん。
そんな中で俺は……、
――ふと目を覚ますと、部屋の電気が消えていた。
それでも明るいのは、月明かりが部屋を照らしていたからだ。
「寝てたのか……」
疲れが溜まっていたみたいだ。
それもそうか、朝にあんなことがあればな。
「……あれ?」
周りを見回すと、布団には空席があった。
一つは母さんのものだが、夜中にいなくなることは珍しいことではない。シフトによっては仕事にいっていることもあるし、そうでなくとも、寝ている俺たちを起こさないように外で電話している時もある。
見て分かる空席とはまた別。
かなたと同じ布団を使っていたいりすがいなかったのだ。
「あいつ、どこいったんだ……?」
荷物はある。
玄関を見ると、靴もあった。
え、靴も履かずに一体どこに……?
瞬間、
遠くから聞こえてきた爆音。
流れてくる突風にカタカタと窓が揺れ始めた。
すぐに窓を開けて視界に見えたのは――、
天に一直線に昇っている、火柱だった。
―― ――
火柱が上がった根元に辿り着くと、そこには見たこともない炎の量を纏う人間が。
炎を纏うというより、炎の球体の中にいるみたいだ。
……一体、どれだけの敵を作ればここまで燃え上がるのだろう……。
芸能人並だ。
周囲には敵しかいないのでは? と思わせる。
その人の性格が、そもそもで敵を作りやすいのか、何事も上手くいかない不憫な人なのか分からないが、可哀想な赤魔人だった。
対面には青い魔法少女、いりすの姿がある。
「なんか、どんどん炎の量が増えているような気が……」
空気を入れ続けている風船のように、球体型の炎が膨らんでいっている。
膨らめば膨らむほど、本体の赤魔人に槍を届かせるには、炎の中に踏み込んでいくしかない。
当然、無傷とはいかない。
距離があればあるほど、いりすを焼く時間も比例して長くなってしまう。
「戦いを長引かせるほど、いりすの不利になっていくな」
隣で足音が止まる。
「ステイシアか。……いりすもそれは分かってるよな?」
「たぶんね」
「じゃあ、なんで攻撃しないんだ? こうしてる間にも炎は広がっていっているのに」
炎が広がれば、それだけ被害も大きくなって――、いない?
赤魔人が出現しているにもかかわらず、少ないながらも通行人がいた。深夜と考えれば普通……だけど、赤魔人が目の前にいるのに、まるでそれに気付いていないかのように歩き続ける通行人が、広がる炎の中に巻き込まれてしまった。
しかし、巻き込まれたはずの通行人は、そのまま炎の中を歩き続ける。
まるで気付かなかったとでも言うかのように。
「なあ、あれ……」
「あの赤魔人は、人をおそわないみたいだな」
「だからいりすも、討伐するのを躊躇ってるって?」
討伐と言いはしたものの、赤魔人となった人を助けるためにいりすは槍を振るう。
救済——魔を祓うと言った呼び方が本来なら正しい。
赤魔人を倒すわけじゃなく、救うために。
だから躊躇う必要なんかない。赤魔人が人を襲わずに堪えている、復讐に身を任せない善人であるなら、尚更、すぐに槍を刺して助けるべきなのだから。
「いりすっ、早く倒してやってくれ!
でないとあの人が苦しみ続けることになる!」
俺がいることに気付いていたのか、驚く素振りもなくいりすが答える。
「分かってる、けど……この量はちょっと、今のわたしでも難しい……っ」
「それって……」
「突っ込んだら、わたしが負ける」
……いりすは攻撃をしなかったわけではない――できなかったのだ。
討伐するどころか、手を出せば逆に討伐されてしまう状況に足を止めていた。
初めて見た……いりすよりも上をいく、赤魔人の存在を。
「そんな赤魔人はいくらでもいるよ」
ステイシアが苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「アタシたちが知らないだけで、世界には数え切れないほどいて、苦しんでる」
それでも、ステイシアはこんな世界にしたことに、後悔だけはしなかった。
「表の世界で人が死ぬよりはマシだろ」
実際、表の世界で他殺はほとんどなくなった。
事故や自殺はあるので、死者が一人もいなくなったわけではないものの、他殺がなくなっただけでニュースも見やすくなった。
ただその分、他殺を埋めるように自殺が増えてしまっている。
赤魔人による精神へのダメージ。
それは表の世界の人間を廃人化へ追い込み、果てに自殺を促してしまう。
加害した赤魔人も炎で自身の心を崩壊させ、同じ末路を辿る。加害者も被害者も、被害者も加害者も、無関係な者も、等しく自殺する。
裏面とは水面下であり、表の人間はそれを認識できない。
だから自殺した弱さに注目して、それが人為的なものであるとは気付けないのだ。
真実が露見しないまま、人々の記憶から消えていく――。
自殺だからそれぞれが強くなるしかない。
問題から目を逸らしているわけではなく、見えていないわけだから対処もできない……、それって、目に見えて問題として浮き上がっていた争いが常態化していた以前の方が、改善のしようがあったとも言える――でも。
そんな世界に失望して、根本から作り替えたのが、こんな小さな少女なのだ。
突発的な行動に思えても、ステイシアには確固たる核心があったのだ。
『争いをなくす? 無理に決まってる。かいぜんなんてできるわけないだろ』
改善の道が見えても、その先に成功があるとは思えなかった。
だから徹底して争いを消して、平和を作り出した。
それが理想郷だと揶揄されることになるとしても、それで救える命があるなら、以前の世界で加害者になっていたであろう人が、変わった世界で自殺しようが構わない、と。
覚悟の上で、だ。
ステイシアは間違っていない。
正しい、とも言えないわけだけど。
正解も間違いもないだろう。世界を作ったとされる神様……、その神様が作ったステイシア以前の世界だって、間違いだったと言えるのだから。
ステイシアが否定した世界を、正解だとは言えないだろう。
神様でさえ間違えることを、俺たち人間の末端も末端がどうにかできるはずもなく。
間違えても、自分がこうした方がいいと思ったことを貫いていくしかない。
だからこそ、ステイシアは決して間違っていなかった。
「救えなかった赤魔人も、おそわれた人もたくさんいたよ……これまでにも何千人とな。そのぜんぶを、いりすには任せられない。だから選別する必要がある。
手のとどく範囲で、いりすでも救える赤魔人にしぼって戦っていたけど……これは難しいな」
「じゃあ、なんで今回は戦って……?」
「……おまえのために決まってるだろ」
……うん? と首を傾げる俺を、ステイシアがバカを見るような目で見つめ――、その言葉の真意を確かめる前に、事態が先に動いた。
徐々に、広がり続けていた炎が小さくなり始めたのだ。
球体が萎んでいき、中にいた本体が遂に球体から出てきた。
巨大な炎が今や、ろうそくよりも小さな火となり、やがて、ふっと消える。
焼かれて真っ黒になって見えていたシルエットは、そのまま黒い炭の塊だった。
炭の塊を体に塗り込んだような真っ黒な人間。
輪郭の曲線的に、女性だろう。
少女でも老婆でもない、大人の女性だ。
目が開く。
次に口が開き、歯と舌が、黒い体を背景にしてよく映えている。
「あれは……? 自力で赤魔人から抜け出したってことか?」
良い方向に動いたと捉えていた俺とは違い、ステイシアは顔面を青くしていた。
「――ッ、いりす逃げろっ、そいつは赤魔人よりも桁違いに強いッッ!!」
回転しながら槍が飛び、俺たちの真横に突き刺さった。
反射的に瞑ったまぶたを持ち上げた頃には、燃え尽きた人影はもうそこにはおらず、離れた場所にある民家の屋根に立っていた。
そこにはさっきまで、いりすが立っていたはずだが……?
そんな彼女は並んだ民家を破壊し、数百メートル先まで吹き飛ばされていた。
民家には、まるで大きな車輪が上を通ったような破壊痕が刻まれている。
「なっ――なんだよ、あいつッ!」
「おまえも逃げるんだよっ、はやく!!」
ステイシアに手を引かれるも、もたもたしている俺たちを見逃すはずもなく、炭色の人影が消えた。脳が追いつかないほどの早さで移動している……のだろう。
俺が次に相手の姿を見たのは、俺の目の前で振りかぶった拳を上げたまま、腕を震わせながらぴたりと止まっている時だった。
見えない糸に吊り上げられているかのような拮抗状態。
どちらが勝ったのか分からないが、震えていた拳がゆっくりと下げられた。
そして、炭色の人影が突風を生み出しながら跳躍する。
二十メートルほど吹き飛ばされた俺とステイシアの目には、もう相手の姿は見えていない。
気配もない。だが、破壊音だけは聞こえている……、存在が消滅したわけではない。
炎がなくても赤魔人であることに変わりはないのか、人を襲い始めたのだろうか。
でも、だったら。
……どうして俺を殴らなかった?
……どうしていりすは自分よりも強い敵に立ち向かっている?
『おまえのために決まってるだろ』――と、ステイシアが言った。
そして、近くだったからこそ分かった、相手の瞳。
その正体。
「…………そんな、わけがねえ。だって、こんな風になるほど、弱くなんか……!」
人を恨むとか復讐をしようとか、誰かを不幸に陥れようって思わない人だ。
たった一人で戦ってきた、強い人だと俺たちは――。
いつだって、尊敬していたんだ。
「…………かあ、さん……?」
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