第7話 深掘り
それから放課後まで、胸に走るちくちくとした痛みが今日はなかった。
……おかしい。
ないに越したことはないのだけど、あるはずのものがないとそれはそれで怖くなる。
噂が広まっていない?
そうでなくとも、俺といりすの関係は、進展していなくとも誰かを嫉妬させるもののはずだけど……、まるで、興味がなくなったみたいに……しかも急にだ。
文化祭からそう日も経っていないのに。
いりすの人気は、一過性のものに過ぎなかった……?
所詮は一年生だし、中学の時のように生徒会長というアドバンテージもない。
上級生からすれば、話題になっている下級生という印象だろうし、いりすを見て盛り上がっているのは同級生だけだ。なにかの拍子に埋もれることもあるだろう。
でも、いりす以外に目を引く誰かが現れたわけでもないから、理由が分からない。
なんだかなあ……、俺にとっては良いことなのに、ものすごく、後味が悪い。
そんなことを考えながら帰路を歩いていると、突然、背後に押し当てられる。
なにとは言わないが、その感触ですぐに誰なのか分かった。
いりすだ。
しかも、裏の方の。
「やっほー、もーぐらっ」
「……なんで簡単にこっちにこれるんだ、お前は」
「ふうん、ステイシアみたいなことを言うね」
俺が裏面にいくと毎回のように言われるが、そうかこういう気持ちだったのか……。
こっちの事情など知らずに頭を突っ込んでくる部外者、とまでは言わないが、流れが切られるとでも言うのか――。連絡もなしにこれられると確かに困るな。
だからと言って、自重する気はないし、いりすもないのだろう。
流れが切られる、と言ったが、今に限れば、切れてくれて良かったのかもしれない。
ぐるぐると同じ場所で考え込んでいたら、ただ疲労が溜まるだけだ。
「元気ない? 怪我、もしかしてちゃんと治ってなかった?」
「そういうわけじゃない。ちょっと考えごと……」
「わたしのこと?」
そうだ、と言うと、裏の方のいりすは調子に乗るので、誤魔化すことにした。
こいつに構うとすぐに相思相愛だとアピールしてくる……、
いやまあ、間違ってはいないんだけどさ。
でも、どうしても頭の中でちらつくのが表のいりすだ。
どっちもいりすなのだから、なにを言っているんだって話なんだけど、なんだかいりすを好きなくせに、いりすの誘惑に乗ることに罪悪感があると言うか……、どっちもいりすなんだけど!
裏表が極端過ぎるのが問題だ。
「悩みごとなら聞くよ?」
「いいって。気にしなくて。ほら、歩きづらいから離れろよ、しっしっ」
「むぅ……なーんか、扱いが雑じゃない? 雑だと思う! すっごいショック!」
「そうか? そういうつもりは一切――んぐっ!?」
ぽふん、と柔らかさに支配される。
両頬に当たる、これは……?
「よしよし……疲れてる時はいつでもわたしの胸を使ってくれていいからね」
「それは……枕として?」
「他にどういう使い方があるのかな?」
純粋に聞かれてこっちが恥ずかしくなる。
……失言だった。墓穴を掘ったとも言う。
そういう意味で、俺はもぐらって名前じゃないのに。
…………何分? 何時間? しばらくこの体勢で落ち着いてしまった。
思考がリセットされるような、疲れがじんわりと落ちていくような感覚。
ずっと浸っていたかったが、そうもいかない。
公衆の面前だ。
見知らぬ人からすれば、バカップルだと思われるだけだろうが、もしも同じ制服のやつに見られでもしたら――。
そんな危惧はしかし、最悪の形として俺の目に飛び込んできた。
クラスメイトどころか、もっと酷い。最も見られたくない相手がそこにいた。
買いもの袋を両手に下げて、目が合った俺のことを、ニヤニヤと見ながら、その場から一歩も動こうとせず、声もかけなかった――たぶん、意図的に。
あらあら、とでも言いたげに、上品に手を口元に持っていかなかったのは、両手が塞がっているからだろう……。
上品さの欠片も元から持っていないくせに、そういう仕草だけは真似したがる癖は、昔から変わっていない。ほんと、最悪な人に見られたものだ……。
「……母さん」
「彼女ができたなら言ってくれればいいのに。
――さて、夕飯でもご馳走しようかしら」
――というのが、事の顛末なのだが、さて、どうかいつまんで説明したものかと、弟と妹を前にして考えるが――、うん、言えねえな。どこをどう切り取っても言えない。
嘘で塗り固めてもどうせボロが出るだろうし、引くに引けないところまでいって、いりすを巻き込むことになってしまいそうだ。
裏の方のいりすなら、どんな無茶ぶりでも演じてくれそうだが、表のいりすにはさすがに……悪いだろう。
ただでさえあの時、唐突に切り替わった表のいりすに、胸に顔を埋めていたことへの罵詈雑言をがまんさせているのだから。
弟と妹から寄せられた、「どうやって口説いたのか」という質問には、
「……そんなこと話せるかっての。最低限、いりすがいないとあいつに悪いし」
「あ、逃げた」
無難にこう答えるしかなかった。
関節技をかけてくる上の妹の拘束から逃れて、弟を盾にする。
「世覇は俺の味方だよな?」
「痛っ!? 背中をつねるなよ兄ちゃんっ!」
「世覇はそっちの味方?
別にいいけど、脆い盾だよね。どれくらい、耐えられるかな?」
「拳! なんで握る!? まったく遠慮する気がないよな!?
おれもお前の兄貴なんだけど、なんで兄ちゃんとこうも扱いが違うんだよかなたは!?」
すると、傍観していたこなたが、ぼそっと呟いた。
「まるでわたしが、世覇を兄として認めてるみたいな言い方はやめて」
「妹が辛辣だー!?」
その時、勢い良く襖が開いて、母さんが顔を出す。
「あんたらうるっさいっっ!!
ドタバタすんな下の階に響くでしょうがッッ!!」
ごんっ、と母さんの拳骨が落ちたのは、俺ではなく次男の世覇である。
「――なんで!?」
「あんたの頭、はたきやすいのよ」
「グーじゃん!」
「冗談よ、本当はね、あんたなら殴られ慣れてるから」
「だからってさあ……」
と、文句を垂れる世覇は、実はボクシング部に在籍している。
日頃から殴られ慣れているため、体は頑丈だ……だからって、殴られてもいい理由にもならないわけだが、世覇もなんだかんだで受け入れている節がある。
他の誰かが殴られるくらいなら、自分が殴られた方がいい……そんな優しさを持つ。
勝負事には向いていないように見えるが、何事も全力で取り組む世覇は、大会で準優勝を果たしている。あと一歩、及ばなかったのは、その優しさなのだろうと思う。
それを理解していながらも、世覇は優しさを捨てることはなかった。
実力はあっても、やっぱりあいつは勝負事には向いていない……。
なぜなら、世覇には『なにをしても勝ちを求める』強い気持ちがなかったのだから。
勝負師としては、一人前にはなれないけど、
でも、人としては理想に近い自慢の弟だ。
「まあ、それでも盾にするけど」
本来なら長男の俺が殴られる役のはずだ。
ある程度は痛みに慣れてきたとは言っても、母さんの拳骨は痛い以前に、昔からの影響で怖いんだよ……。赤魔人よりも怖いかもしれない。
「あの……料理、できました、けど……」
母さんの背後から、そっと声をかけてきたのはいりすだ。
「ありがと。ほらほらあんたたち、さっさと食器の準備をしなさい」
ぱんぱんっ、と手を叩いて、俺たちを統率する様子を見て、いりすが呟いた。
「…………いいなあ」
どれのことだろう……。
支配願望でもあったりしたら、と考えて戦慄してしまう。
いりすは確か、一人っ子のはずだから……そう、
そう納得することにした。
「なら、いりす。今日は泊まっていきなさいよ」
「……え?」
食事をしながら俺との仲を色々と詮索されている内に、夜遅くなってしまった。
母さんがいりすの親にお詫びも含めて連絡をしようとしたところ、いりすが、「今、一人暮らしみたいなものなので……問題ないです」と言った。
夜遅くなっても家に親がいないのだから、心配をかけることはないと言ったつもりなのだろうけど、母さんとしては家に一人という部分が引っかかったらしい。
で、出たのが「泊まっていけば?」だ。
「大丈夫よ、世覇もかなたもこなたも私もいるし、もぐらもこの状況でいりすになにかをするほど見境ないわけじゃないでしょ。
それに、悲鳴を上げてくれれば、一家総出で、もぐらをボコボコにするから安心して」
「それなら安心、ですけど……」
その言い方だと、俺がなにかすると思っていた、みたいじゃないか。
なにもしないよ。表のいりす相手だと、本当に冗談では済まないだろうし。
「嫌なら構わないわ」
「嫌ではないです! すっごく、嬉しかったですから……っ」
「じゃあ泊まっていきなさい。
さて――、かなた、こなた、先にシャワー入ってきな」
「はーい」と、かなたがいりすの手を引いて、狭い風呂場へ。
こなたは三人分の着替えを淡々と用意して後を追う。
「え? ええ!?」
と、戸惑ういりすは状況に追いつけず、流されるままだ。
「あれ? 水道代の節約、しないのか?」
世覇が呟くと、こなたが足を止めた。
「家族だけならまだしも、お客さんがいるのに一緒に入るつもり……?」
軽蔑の眼差しが向けられた。なんで俺まで……。
兄弟で揃えて謝ると、下の妹はぷいと視線を戻して、風呂場へ向かった。……ふう。
こなたのやつ、たまに昔に戻るんだよな……良い傾向なのかどうなのか。
素直に喜びづらい。
「節約はいいの?」と世覇。
「今日くらいは仕方ないでしょ。いりすがいるんだから」
なら無理に泊めなくても良かったのでは、と思うが、確かに家に一人きりと言った時のいりすの表情を見たら、そのまま帰すのは良心的に難しかった。
「これで、明日のおかずが一品減るとか、ないよな……?」
「心配なら、あんたら二人は水で流しなさい。
浮いたガス代でおかず一品が増えるかもね」
「いやいや……、夏も過ぎた今の季節に、水はちょっと――」
「よしっ! 兄ちゃん、お湯は使うなよ」
「いやいや……バカ言うな、風邪でも引いたらどうすんだよ……」
「おれは別に」
「俺はお前ほど頑丈じゃないんだ! 俺を巻き込むな、俺を!」
「じゃあこうしよう兄ちゃん。
兄ちゃんを殴って気絶させるから、その内に全部おれが洗っておいてやる」
「頷くと思うか!? たかがおかず一品のための犠牲がでか過ぎるだろ!!」
「たかがって――なめるなよ兄ちゃん。
おかず一品を食卓に並べるのに、どれだけ大変なのか考えたことあるか?」
料理をせず、家計簿をつけない俺には想像もできない苦労があるのだろう。
「それは……、ううん、確かに出てくるのが当たり前になってる感じだなあ」
「だろ? だったらこれくらい、がまんするべきだとおれは思う」
「……ふうむ。納得してしまった……完敗だ、世覇。お前の説得に乗ってやる」
握手を交わす俺たちを見て、母さんが呆れて小言を漏らす。
「あんたら、それだけ分かっていながら、一切キッチンに立たないわよね」
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