第6話 裏から表へ

 柔道部の先輩に非難を向けたわけではない保健の先生が襲われたのは、単純な話、巻き込まれたからだ。


 赤魔人は復讐を果たしていくごとに、理性を失っていく。纏う炎のせいか、達成感もあるのか、熱に浮かされて、復讐対象と無関係な人間の区別がついていない。

 近くにいた動くものに反応して炎を操り襲いかかってくる……そのため、いりすが言うように基本的に赤魔人は責め立てられた被害者であるが、一歩踏み違えば加害者になる危うい立場だ。


「けどさ、俺は先輩を責めたつもりはないのに、狙われてるんだよなあ……」

「おまえが直接の原因だからだろ。周りの空気も読まずに好き勝手した結果がこれだ」


「えぇ……、なんだよ、ステイシアは俺の味方じゃないのかよ」


「おまえこそ! アタシが作った世界からはずれるようなことしやがってっっ!」


「俺は自分に正直に生きてるだけだ! ステイシアを否定してるわけじゃないっ!」


 そうだ、俺は昔から曖昧な『空気』という雰囲気に左右されることが嫌いだった。


 ステイシアがこういう世界にしたから、生き様を変えたわけではない。


 俺の生き方は昔から変わらない。

 誰かのために変えたりもしないと思っている。


「いりすだって知ってるだろ!? 俺は昔からこうだったって!!」


「うん、そのせいか、クラスでも浮いてたけどねー」


 まったく知らなかった暴露をされてびっくりした……え、浮いてたの?


 露骨に避けられているわけではなかったと思うけど……。


「だと思うよ。だって浮いているだけで、嫌われてるわけではなかったから」


 ほっと胸を撫で下ろす……まあ、昔の同級生と連絡なんて取っていないから、今更、嫌われていようがどうでもいいんだけど……だって今はいりすがいるし。


 逆に言えば、いりすしかいないんだけども。


「周りに流されない……そういうところが格好良かったんだから」


 いりすが俺の腕を抱きしめ、密着してくる。

 あ、そっちの腕は……って、あれ?


「……さっきの火傷痕、治ってる……?」


「わたしのおかげだね」


 べたべたと触ってくるのは、どうやら魔法で治すためだったらしい。


 長く続いていたひりひりとした痛みも消えてなくなっている。


 もしかして、会う度に密着してくるのは、怪我を治してくれているからなのだろうか。


 理由の一つ、ってところだろう。


 それを理由に密着したいだけな気もするが……。


 まあ、悪い気はしない。


「おい、イチャイチャするなら表にかえれ」


 しっしっ、とステイシアが手で虫を払うように。


「そんな雑に追い返さなくても……」


「やってもらいたいことが残ってる。とうばつされた赤魔人がどうなるかは説明しただろ。近くに誰かがいれば対応してくれるが、一時的に意識を失うんだ……人目のつかないところで倒れていたら危ない。それは裏面の事情を知るおまえしか、表面に持ち帰れないんだ」


 表裏一体とは言うものの、表面の人間は裏面で起きた出来事を知らない。

 表のいりすが赤魔人を知らないのがその証拠だ。


 その逆、裏面に、表面で生じた悪感情を押し込めているだけあって、裏は表を把握している。

 表があって裏があるからこそ、裏は表を理解しているのだろう。

 表は裏があることを思いもしない。そんな発想さえ出てきたりしないのだから。


 でも、だったら、俺に密着しているこのいりすがどうして表面にいたのだろう……?


 視線を向けるも、その本人は首を傾げるだけだった。



 ふっ、という浮遊感の後、見えたのは真っ白な天井だった。


 ベッドで横になっている。


 左腕に圧迫感。

 そこには、俺の腕を枕にしてすやすやと眠っている、いりすの姿。


「……どういう状況だ、これは」


 表と裏の世界に時間差は存在せず、同時進行している。

 つまり、俺が意識を裏面に飛ばしている間も、表面の世界は秒針と同様に動いている。


 裏面は精神、表面は肉体と、はっきりと切り分けられるものではないけど(俺という前例がいるし)、表面にいた位置が裏面に影響されるのとは別に、裏面から表面に切り替わる時は、まったく別の場所、状況に立っていることも珍しくもない。

 ちょっとした浦島太郎の感覚だった。


 俺が裏面に意識を飛ばしている間、表面の俺は、なにも意識を失って倒れているわけではない。俺としていつも通りに動いている(周りから、表も裏もないと言われているけど、実際はあるのだ……、いりすみたいに二重人格ってほどではないにせよ)。

 なのであまり裏面に滞在し過ぎると、表面に戻ってきた時に、いまの自分の置かれている状況に追いつけないことになる。


 ふうむ、これはどういうことだろう……?


 どういう過程を辿れば、俺といりすが同じベッドで横になっているなんて状況に?


「ん……ううん……?」


 身じろぎをして、まぶたをゆっくりと開けたいりすと近距離で目が合う。


 時が止まる。


 かろうじて俺の方が早く「よ、よう」と声をかけることができた。


 たぶんだけど、裏のいりすがこの状況を作り、そのまま元に戻ったのだろう。


 裏のいりすが表にいるからと言って、じゃあ表と裏が逆転した、わけではない。


 裏面で赤魔人と戦っていた裏のいりすと、表面に突然現れた裏のいりすの二人が同時に存在していた……? というのは、あり得るのだろうか?


 すると、寝ぼけたままだったいりすが、はっと意識を覚醒させる。


「な、なん……なんでっ! あんたとあたしが一緒に寝てるのよ!?!?」


 さすがにグーで殴ってくるような非常識なことはしなかったようで安心した。


 いりすが顔を真っ赤にし、目をぐるぐるさせるまでは、生きた心地がしなかったが。


「いや、分かんないけど……、

 でも俺の服を掴んでるのはお前だし、嫌々、俺が寝かせたわけではないよな……?」


「そ、それは……そうみたいだけど……っ」


 気付いたいりすがそっと指を離す。


 それにしても意外だった。


「な、なにがよ……!」


「指を離すよりも早く、飛び起きて俺から離れるかと思ったのに。

 案外、文化祭で告白したのがお前の中で変化になってくれてるのかと思ったりして」


「……っ」

 どういう沈黙なのかを探るよりも早く、いりすの出た足が俺の腹を蹴る。


 うげっ、と潰れた蛙みたいな声を出して、ベッドから落ちた俺を覗き込んだいりすが、


「――そんな気ないから。バカじゃないの?」


 いつものように、言葉と行動で俺を突き放した。



「そう言えば、ここに倒れていた先生と三年生たちは?」


 乱れた髪を手櫛で直しているいりすとは別のベッドに腰かける。


 周囲を見回せば、保健室がさっきよりも広く見えていた。


「呼びかけても体を揺すっても反応がなかったから、先生に伝えて……、今は職員室で対応してもらってる。救急車を呼ぶんじゃない? 

 目に見えて大怪我はないと言っても、だからこそ意識が戻らないって怖いでしょ」


 倒れた人を運ぶ作業を、俺といりすも手伝っていたらしい。


 その記憶が俺にはないけど……、不自然に全身が重たいのは作業後だからか。


 ん? じゃあ、いりすはその時にはもう表のいりすだったわけだろ?


 裏のいりすが俺とベッドに寝ている状況を作ったのかと思ったが、作業の記憶があるってことは、目の前のいりすが、俺と一緒にベッドに寝転がったことになる。


 疲れて思わず、というのなら、まあ、分からないでもないけど。


 俺を毛嫌いするいりすが、いくら疲れていても、それを許すとは思えなかった。


「なにしてんの、教室に戻るわよ。ぎりぎり走れば、遅刻しない時間なんだから」


「そうか、長く感じたけど、まだホームルーム前なのか……」


 半日過ごしたような倦怠感だった。


 それでもサボるわけにはいかないし、重い腰を上げていりすの後を追って――待て。


 今、いりすと並んで教室に向かうのはまずくないか?


 朝、裏のいりすの過剰なスキンシップを、少ないながらも生徒には見られているわけで。

 目の前のいりすはそれを知らないわけだ。


 誤解も解いていないまま一緒にいれば、狭い噂が一気に広がってしまう。


「なにしてんの?」

「今、出るのはまずい。というか、いりすだけ先に……」


「遅刻するでしょうが」


 元・生徒会長の性なのか、僅かな遅刻も許さないとばかりに腕を掴んでくる。


 いりすに引っ張られて保健室から出ると、女生徒の集団とばったりと出くわした。


 女子生徒たちは当然ながら、ばっちりと俺たちを見ている。……うわぁ、よりにもよってこういう噂が好きそうな集団だ……。

 見て見ぬ振りをしてくれと頼んでも、絶対に誰かが言うだろう信用のなさがある。


 だけど、放置するわけにもいかない。

 しているであろう誤解だけでも、言葉にして解いておかないと――、あとでどう脚色されるか分かったものじゃない。


 ――しかし、だ。


 その集団は俺たちをばっちりと見ていたものの、興味がなさそうにそのまま去っていく。


 ……え?


 遠ざかる女生徒の背中を見つめていると、ぐいぐいといりすが腕を引っ張ってくる。


「ねえ、本当に遅刻する」

「お、おう」


 男子なら食いついてくるだろうけど、女子は意外とそうでもないのか?


 ……それもそうか。男子ならいりすと一緒にいる俺を羨んでその結果、悪感情が裏に押し込まれるのだろうけど、女子からすればいりすが誰といようが関係ない。


 好きな人がいりすに夢中、であれば、他の誰といようが、いりすだけを良く思わないはず。


 だとしても、やっぱり誤解だけは解いておきたかった。


 悪意がなくとも、広められた噂で痛い目を見るのは俺なのだから。


 しかし、女子集団の背中は既に見えなくなっていて、いりすの腕も振り解けない。


「……誤解を解くのは後回しだな。それか……、なあ、いりす。

 今日もいつもみたいに接してくれ。結構きつめに、拒絶してくれていいから」


 ある意味、いりすが俺のことを嫌いでいてくれて良かったのかもしれない。


 そうでなければ、嫉妬の悪感情が裏面で俺を襲うだろうから。


 すると、俺を引っ張っていたいりすが、急に足を止めた。


「?」


「――あっそ」


 ぶっきらぼうにそれだけ言って、再び歩き出す。

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