第3話 管理人・ステイシア
「スーテーイーシーアーッッ!!」
体育館から無事に逃げ延びた俺は、それから一目散に校舎の屋上へ。
普段から施錠されている、立ち入り禁止の場所にどうして簡単に入れるのか――施錠されているはずの扉がなぜ開いたのか、理由は簡単なことだ。
屋上に入る前に、世界の裏面に入ってしまえばいい。
こっちの世界では、入ることができない場所などないのだ。
扉を勢い良く開けると、小さな背中が、「!?」と、びくんっと跳ねたのが見えた。
屋上の縁に立てられた鉄柵の上に座る小柄な少女。
最初に見た時は小学生、低学年くらいかと思ったが、なんと驚け、俺の下の方の妹と同じ中学一年生(自称)らしい。
その証拠に、赤いセーラー服を着ている……、確かにその制服は俺の妹たちが通う中学の制服だ(ちなみに去年までいりすも着ていた。妹が引き続き着ているので、見たところで懐かしくもなんともない……。言ってしまえば朝も見ているし)。
まあ、しかし制服を着ているからと言って、じゃあ中学一年生の証拠になるか、と言えば弱いが……、正直に言えばどっちでもいいし、中学生でも小学生でも、結局、この子が裏世界を管理していることに変わりはないのだ。
名は――、
母親がイギリス人らしく、染めたわけではない綺麗な金髪を腰まで伸ばしている。
そんな少女の足下には、大量のプラスチックの容器があった。空のものもあれば、食べかけのものもある。どれもこれも文化祭で売られているものばかりだ。
口元にソースをつけながら、ステイシアがむすっとしてこちらを振り向く。
「……なーんで、おまえはスイッチをぱちって切り替えるみたいに、かんたんにこっちに入ってこれるんだ……っ」
「さあ。それは俺にも分からないけど。ステイシアに会いたいって思うと入れるわけでもないんだよなあ……。ほんと、ふとした時に裏面に入った時はびびった――、急に近くの人が赤魔人になるんだもんよ」
炎に包まれた人間――赤魔人。
それが生まれる時、激しい爆音と赤光でよく目立つため、たとえ遠くても、ステイシアか魔法少女のいりすがすぐに駆けつけてくれるので、危機感は大してなかったりする。
「いや、もてよ」
呆れながら、ステイシアが容器を持ち替え、焼きそばを食べ始める。
箸の扱いに慣れていないのか、おぼつかない手つきで、麺を口に運ぶのに苦戦していた。
「持とうとは思ってるよ。……それ、食べさせてやろうか?」
「おい、子供あつかいするなっ」
「どちらかと言うと妹扱い? 遠慮するなよ、これくらい普通なんだから」
普通、という言葉に弱いステイシアが熟考した後、容器と箸を俺に渡して雛鳥のように口を開けた。なぜか一緒に目も瞑って。
年齢差のせいか、ステイシアも美少女ではあるのだけど、ドキドキしないんだよな……。たとえるなら学園のアイドルと呼ばれるほどの美少女でも、教師からすれば他の生徒と変わらないし、なんとも思わない、みたいなものだろうか。
やっぱり、ステイシアのことは妹として見ちゃうからだろう。
仮に同級生だとしたら、取っつきづらい上流階級のお嬢様って印象がする美少女なので、やっぱり違う意味でドキドキしてしまいそうだが……。
ともあれ、あーんができるドキドキなシチュエーションではあるけど、まったく心が揺れない。ステイシアの位置がもう少し低ければ、そのまんま歯科医みたいな体勢だった。
「……? はやくっ、焼きそばが冷める」
「はいはい、と。紅ショウガはダメだったよな? いま取ってやるから待ってろ。
――そう言えばこれ、どうやって買ったんだ?
こっちの住人は会話が成り立ちそうで成り立たないじゃんか」
箸でつまむと、ごっそり取れるくらい麺が固まっていた。ある程度ほぐしてから、ステイシアの口の中に向かわせる。
舌で気付いたステイシアが箸にかぶりつく。麺を箸から奪い取り、
素人の料理でこれなら、プロならどうなっちゃうんだろう……。
「うん、成り立たないよ。だからかってに取っただけ。表の世界の行動を真似してるだけで、そこに強い意思はないしね。横から取ったって、なにも言われないよ」
「そんなもんか。だからこっちでも文化祭をやってんだなあ……人も多いし。
あれ? でも人が全然いない時もあるよな? あれはなんでだ……?」
俺が初めてこっちの世界に迷い込んだ時は、人っ子一人いなかった。
建物の中にはたくさんいたけど……時間帯の問題、でもないだろう。
あの時はまだ、夜の十九時台だったはずだ。
「赤魔人が近くにいれば、危険をさっちして、そりゃ逃げるだろ」
なるほど、確かに人がいない時は決まって赤魔人が出現している時だ。
思えばそりゃそうだ。化け物が近くにいた時、平常通りに生活しているかと聞かれたら、俺たちだって当然のように避難するだろう。
表裏一体なら、俺たちと同じように裏面の人たちも避難するに決まっている。
町から人が消えたことを珍しく思ったものだけど、それ以前に炎上している人間が目の前にいる方が珍しい……、少し前なら珍しくもなかったが、今に限れば、あり得ない。
ステイシアによる世界平和が作られてから、俺たち表の世界に争いごとはなくなった。
ただし――、人々のどす黒い感情が、綺麗に消えたわけではない。
変わらずそこにあるが、その全てを、ここ、裏面に押し込んだだけなのだ。
人の嫉妬や悪意による攻撃から生まれる争いが集約された結果、赤魔人という被害者が出現する。被害者がいれば復讐も連鎖的に生まれ、繰り返されるターン制の戦争。
その争いが裏面だけで終始すればいいが、表裏一体であるため、裏側のダメージは表にも影響を与えてしまう。
軽度だろうが重度だろうが、ダメージは肉体ではなく精神に影響を与えるため、向かう先はどれもが廃人化だ。
その末に自殺が起きれば、世界を跨いだ他殺と変わらないだろう。
表面の人間からすれば、心の弱さゆえに自殺したようにしか思えず、だからこそ裏面の存在なんて考えもしない。
自殺に追い込まれたのでは? という、人を非難するような感情も、全て裏面に押し込まれるので、表面でのアクションは限りなく少なくなる。
何事もなかったかのように日々の暮らしを繰り返す。
平和と言えば、そうだけど……。
言いたいことを好きに言えなくなった世界、とも言えた。
「……いや、いりすは俺に好き放題、言ってるよな?」
「お前がからむとな。いりすだって、他の人のまえだと空気を読んでると思うぞ」
ふむ。思えば確かにそうだ。
いりすが口調を変えるのは、俺に向けてだけだった……。
「え。じゃあ、めちゃくちゃ嫌われてるじゃん……俺、なにかしたかなあ……?」
「そんなことより、はやく焼きそば」
口を開けて待っているステイシアに、残りの焼きそばを与えていると、
頭上からの落下物が視界の端に映る。
「んむ!?」――咄嗟に箸を強く押し込んでしまい、ステイシアが咳き込んでいたが、俺の視線は鉄柵に着地した青い魔法少女に向いている。
神酒下いりす――裏面バージョン。
「うおっ。び、びっくりした……っ」
「それ、いいなぁ」
俺が持つ容器を見て、いりすが物欲しそうな目で見つめてくる。
「これ? じゃあ……」
ステイシアから箸を引き抜き、焼きそばをつまむと、いりすが柵から飛び降りた。
こいつの癖なのか知らないが、顔と顔がぶつかりそうなくらいに急接近してくる。
それから――、「あーん」と言って口を開いた。
俺がそこへ持っていくよりも早く、いりすの方から箸にかぶりついてくる。
「――おまっ、危ないだろッ! 箸が喉に刺さったらどうすんだッ!」
「心配してくれるの? やっぱり優しいね……ほんと好きぃ……っ」
急にがばっと抱きついてくるものだから、慌てて容器と箸を持つ両手を頭の上へ。
……うわぁ、温かい柔らかい良い匂いが超近い!
「っ、なんでこれで表のあいつは俺にあんな攻撃的なんだよっ、なあステイシア!?!?」
「おまえ、アタシの喉に箸を突いておいて、ごめんなさいもないのかッ、ばーかッッ!!」
ステイシアが涙目で、俺の足をげしげしと蹴ってくる。それはごめん……。
「でもさ、どういうことなんだよ!? この好意があるから勝算があると思ったのに、即答で断られたんだぞ!?
くっそー、文化祭マジックに頼ったのが失敗だったか? 人の視線がない時に普通に言った方が成功してたか……?」
「晒し者にされたのが逆効果だったりしてなー」
ステイシアの意見は俺と同意見だ。やっぱりそうか……。
「そもそもの話なんだけど、こっちのいりすがおまえのことを好きなのは分かったけど、おまえはいりすのことを本当に好きなのか?
表と裏でちぐはぐになってる好意を確かめるために、告白して、受け入れられたがってるように見えるけど……」
それを聞いていたいりすが、俺の体をさらに強く抱きしめた。
「っ、そんなの、好きだよ好きに決まってるだろ。九年間の片想いなんだよこっちは」
幼馴染と言うほど、積極的に関わってきたわけではない。互いにとって、クラスメイトの一人という印象だ。それでも九年間の付き合いだ……今年で十年目になる。
さすがにこれだけ顔を合わせていれば、思い出深いことなんてなくても、身近に感じてしまう。心細かった高校のクラス、初顔合わせでも、あいつが近くにいてくれたおかげで、いくらか気が楽になったのだから。
いりすがどう思っているかは知らないが、俺にとっては九年間のほとんどを片想いで過ごしてきた。本音を言えば最初は顔だ。昔からあいつは、飛び抜けて可愛かったから。
ただ、次第にあいつの中身も見えてくるし、距離が縮まらなくとも決して遠くもならなかった――だから、俺の中にあいつはずっと居続けたのだ。
縮まらないし、離れもしないから、距離感は昔から変わらない。
実ることも散ることもなく、
小学生の頃の初恋が、今もずっと続いているわけだ。
「えへへっ、初恋、一緒だねっ」
「…………」
嬉しいけど、俺はあくまでも表の人間だ。
このいりすが表にきてくれたらなあ、と思うが、しかしどちらもいりすなのだ。
表裏一体。
だから、嫌悪を隠さないあのいりすも、愛好を示してくれるこのいりすと同じ。
二人で一人の女の子。
「……なあ、ステイシア。一回、世界を元に戻してくれない?」
「むり」
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