11 ローリエとオリーブオイルの軟膏
七月十一日木曜日。
いつものように、六時に喫茶店に着いた。
「おはよう。魔女様」
「おはよう。勇者様」
昨夜、リンダさんと積もる話をして、涙を流したのか、少し瞼が腫れぼったい。
「昨日、リアルな夢を見た」
「どんな夢?」
塾長が「極楽天神、魔女の呪文、教皇の鍵」と言ったことを話した。三佐子さんは「魔女は私? 教皇はリンダ? 私の呪文とリンダの鍵があれば、何かが起こるということなんかね」と、数秒首をひねり、話題をかえた。
「今日は、モーニングの常連さんが終わったら、店を閉めて、リンダを塾長に会わせに行くけんね」
「分かってます」
「あ、それでスーツを着とるんじゃね」
七時に開店。工場長が来店。まだ、技能実習生のことは切り出せない。どんな顔をして良いのか分からないので、外に出て、もう一度、プランターに水を遣る。この時間になると、駅に向かう人が増えるようだ。僕は見知らぬ通行人にも「おはようございます」と挨拶をしていた。
「山翔君?」
声をかけられた。顔を見ると、高校のとき付き合っていた矢吹七海。大人の女性になっている。
「七海…」
「久しぶりじゃね」
「元気? あ、結婚したんとね。おめでとう」
「ありがとう。山翔君は、ここの三佐子さんといい感じだって、おばあちゃんに聞いたよ」
「じゃけ、違うんだって」
「いや、違わんと思う。女の勘を舐めたらいけんよ」
そう言って、いたずらな笑みを浮かべた。こないだのおばあちゃんとそっくりだ。
「三佐子さんには好きな人がおったみたいじゃけど」
「え?」
「ほら、気にしよる」
「かま掛けたな」
「そうじゃないよ。私には分かる。三、四年前かな。聞いても教えてくれんかったけど、あれは恋する女の顔じゃった」
…武瑠と付き合ってた頃かな。
言葉に出てしまいそうなので、話題を変えた。
「今から仕事?」
「うん。毎日、ここ通るんよ」
「そうなん。結婚しても矢野に住んどるん?」
「うん。旦那は大阪におるけん、実家から通勤しよる」
「いきなり別居?」
「十日前に籍入れたばっかりなんよ。お互いに仕事があるけん、まだ、一緒に住めんの。週末、交互に行き来する約束したけど、お金かかるけんそうもいかんかも」
「ふーん。週末婚か」
「そんなことより先に、相手が誰か気にならんのん?」
「あ? ああ、知っとる人?」
「もう、言わん。ヤマショウ、昔からズレとる」
「ごめん…」
「自覚しとらんと思うけど、その鈍感なところが女心を引きずりまわすんよ。優しくして惚れさせといて、放置。悪いやつ!」
…放置って…。
笑って言ったが、冗談で言ったわけでもなさそうだった。
「スーツ姿、初めて見た。かっこええよ」
「そうか?」
「いつまでこっちにおるん?」
「今週いっぱい」
「やっぱり岡山に帰るんじゃ」
「うん」
「三佐子さんを放置して?」
「放置なんかせんって!」
「やっぱり好きなんじゃん」
「あ」
…これが、三佐子さんが言っていた七海の誘導尋問か。
「一緒におらんと、愛は薄れるよ」
「え?」
「私、あんなに山翔君のこと好きじゃったのに、広島におらんくなったら、あっという間に冷めたよ」
「そうなん。なんか、ごめんな」
「何を、今さら謝りよるん。好きなら、一緒におれる方法を考えんちゃい」
「うん」
三佐子さんのこと、認めてしまった。
「七海も離れて暮らしとるんじゃろ?」
「うちは大丈夫。ここ、赤ちゃんおるけん」
お腹を指さしながら、そう言って笑い、「行って来るね」と駅に向かった。
…できちゃった婚…あ、また、「そんなことより先に」って言われる。やっぱ、ズレてるのかな。
九時までの常連さんがひと通り現れて、帰って行った。
店を閉めて、三佐子さんは着替えのために三階に上がった。そして、リンダさんの手を引いて、階段を下りてきた。三佐子さんは水玉のワンピース。髪を下ろしている。リンダさんは太めのスラックスに白いワイシャツ。痩せ過ぎた体が分かりにくい。髪を高く結い上げている。二人ともサングラスをして、ファッション雑誌のようだ。フェミニンな三佐子さんに、メンズっぽいリンダさん。ちょっと、恋人同士にも見えてしまう。
「お兄さん、悪いけど、車を店の前に持って来てくれん?」
「ええよ」
キーを預かり、店の前に車を持って来ると、二人とも後部座席に乗り込んだ。
「僕が運転するのはいいけど、助手席が空いたら、タクシーの運転手みたいで寂しい」
「私が横に座ったら、リンダが妬くけん」
「なんで、ワシが妬く! そりゃあ、サンザの方じゃろが」
「真夜中のケトル」
三佐子さんの顔が赤くなりでもしたのか、リンダさんが冷やかす。
「おお、ケトルが沸いとるで。勇者ヤマショウ、モテるのお」
リンダさんは運転席の背もたれごしに、僕の背中を足で強めにつついた。
「あ、リンダが蹴っとる」
おふざけが止まらない。
「あんたら、ほんま、中二病じゃの」
「躁うつ病よおね。ほいじゃが、勇者の広島弁、きつうなっとるで。おっさんみたいなど」
「塾長仕込みじゃけえのお」
…塾長の講話のメニューの一つに広島弁講座があった。
「おお、怖! やーさんみたいなど」
「いやいや、リンダさんの広島弁の方が、だいぶん濃いいで。さっき、『ワシ』言わなんだや?」
「ワシゃあ、ハワイからの帰国子女ですけえの。知っとるか知らんかしらんが、県人会の人らは今の県民より、きれいな広島弁を喋りよりますで」
「女子は『うち』言わんにゃ」
三人は車の中で、声を上げて笑った。
三佐子さんとリンダさん、一人ずつは立派な大人なのに、二人揃うと子どものようにはしゃぎだす。たぶん、昨夜は二人で、この感じを取り戻していたに違いない。
さすがに病院の敷地に入ると、静かになった。駐車場に車を止めて、サングラスを外して、病棟に向かう。リンダさんの瞼は三佐子さん以上に腫れている。
塾長の病室。リンダさんがベッドに駆け寄る。
「塾長!」
酸素マスクに口を覆われ、どこに繋がっているのか、管が何本も…。
「塾長。私よ。リンダ、林田美沙子。分かる?」
手を握って、語りかける。
「心配かけて、ごめんなさい」
「…」
「もう、何も分からんのん? 意識があるうちに、話がしたかったよ」
「塾長、聞きよるよ。話してみんちゃい」
「私ね。週一の塾長講話が大好きじゃったんよ。世界の話、歴史の話、科学の話…。ワクワクしながら聞きよった。先生の話で、写真始めたんよ。『写真は人類最高の発明。真実を写し、世界に届ける。未来に届ける。人の心に届ける。その時、写真は、真実の裏にある物語をも記録する。塾長、私まだ、真実の裏側にある物語を、人の心に届ける写真が撮れん」
「…」
「え? 塾長、何か言った?」
…テキトーに頑張れ。楽しく頑張れ。
塾長の心の声が、リンダさんと、僕と三佐子さんにも聞こえた。
「リンダ、塾長の言葉、聞こえたね。良かったね」
「うん」
リンダさんの腫れぼったい瞼から、涙が滝のように流れ出した。首に下げたペンダントを、胸から引っ張り出して握る。
「塾長、もう死にたいとか言わんけんね。サンザと一緒にテキトーに頑張るけんね」
三佐子さんも泣いている。僕も我慢できなくなった。塾長は半透明のマスクの下で笑っているような気がする。
主治医の先生が「菊池さんの脳は引き続き、活発に動いているようです。夢の中で、誰かと話しているのでしょうかね」と言う。三佐子さんが「私たちの夢に出てきてますよ」と答えると、先生はちょっと「気持ち悪い」と言いたそうな顔をした。
僕にはもう一つ気になることがある。
「リンダさん、そのペンダント」
「あ、私のロザリオよ。心を決めるときに握って、勇気をもらうの」
ロザリオといえば、普通は十字架だが形が違う。
「それ、鍵じゃろ」
「そうよ。純喫茶ぎふまふの鍵よ。バイト時代から預かったまま」
「店の鍵?」
「うん。あの建物は私の原点。塾時代は帰国子女で友達のいない私を、温かく迎え入れてくれた。塾長と出会い、サンザと出会い、私は勇気をもらって飛び立った。私、弱いけん何度も死にたくなったけど、私には帰るところがある。鍵がそのことを思い出させてくれるんよ」
三佐子さんも知らなかったようだ。
「今はもう、その鍵は変わっとるんじゃけど、古い鍵じゃけんこそ意味がある。大切な鍵じゃね」
…きっと、これが教皇の鍵だ。
リンダさんにも、昨夜の夢のことを話した。
病院を出るとき、三佐子さんが「リンダにもハーブ畑を見てほしい」と言い出した。「じゃあ、着替えなきゃ」ということになり、店に帰って、二人は作業着に着替えた。畑に行く途中、僕の着替えのために、家に寄る。
母親が出てきて、「三佐子さんのハーブ畑? 私も行っていいかしら」と言う。三佐子さんが「どうぞ、どうぞ」と答え、四人で軽バンに乗った。運転は僕、助手席に三佐子さん、後部座席にリンダさんと母親。
三佐子さんがリンダさんに母親を紹介する。
「リンダ、山翔さんのお母様よ」
「こんにちは。君島三佐子の友人の林田美沙子です。よろしくお願いします」
「こんにちは。山翔と武瑠の母です。こちらこそよろしく。へえ、二人ともミサコさんなんじゃ」
「そうなんです。菊池塾のときから仲良しで、いつも一緒だったので、塾長が私をリンダ、こっちをサンザと呼んでたんです」
「はあはあ、林田さんじゃけん、リンダさんなんじゃね。細いわね。モデルさんみたい」
「母さん、その話は」
「いいんですよ。ちょっと、摂食障害で。でも、サンザと山翔さんのおかげで、ご飯も美味しく食べられるようになったんですよ」
「あら、知らぬこととはいえ、ごめんなさいね」
「大丈夫です」
母親もリンダさんの手首の包帯に気付いた。
ハーブ畑に着いた。ニュータウンの僕の家からは近い。
四日前に、三佐子さんと幸せな時間を過ごした場所だ。
「わあ、きれい。これ、全部ハーブ?」
「野菜も作ろうとしたけど、月に二回くらいしか来ないので、ほったらかしにできるハーブだけ」
「それでも、これだけ面倒みようと思ったら、大変じゃろ」
「うん。実は、奥の荒れ地も塾長が買った土地なんよ。こっちの倍ある」
僕が割って入った。
「へえ、人手さえあれば、いろんなことができるのにね。ハーブ商品のネット販売は、喫茶店の倍の売り上げがあるんだって。ね、三佐子さん」
「うん。だから、リンダやお兄さんが帰って来ても、仕事はあるよ。力仕事じゃけどね」
「面白そうじゃけど、私まだ、写真諦めてないけん。山翔さんだって、警察官じゃしね」
「ごめんごめん。例えが悪かったね」
「あの、私にやらせてもらえんかしら」
言ったのは母親だった。
「武瑠君とお兄さんのお母さんじゃけん、塾長も喜ぶと思うけど、一人じゃ大変ですよ」
「うん。近所のお年寄りと一緒にやりたい。ここなら、団地から歩いて来られる」
「母さん、そんなこと手伝ってくれる人おるん」
「私、地域のお年寄りのアイドルじゃ言うたじゃろ。私が頼めば、草刈り機でもチェンソーでも、『よっしゃ』言うて担いで来てくれるおじいさんがいっぱいおるんよ。山翔と武瑠とリンダさんが帰って来たときの土地を、切り拓いとかんとね」
「え? 奥の土地を開墾するという意味ですか」
「うん。おじいさんいうても、七十代はまだまだエネルギーが余っとるよ。たぶん、みんなイキイキしてやってくれると思うわ」
「じゃあ、無理なさらない範囲でお願いします」
「ほんま? 切り拓いた後は、おばあさんらとも一緒に野菜作りたい。農協の理事もおるけん、栽培や販売も教えてもらえると思う」
「地元の人たちの役に立つなら、どうぞ、お使いください」
「山翔もリンダさんも、今の仕事が嫌になったら、安心して帰っておいで」
「なんか、私の心配までしていただいて、ありがとうございます」
リンダさんがそう言うと、みんな笑った。そして、三佐子さんに解説してもらいながら、ハーブを収穫した。母親もリンダさんも興味津々で聞いている。
リンダさんが、小屋の横に立っている木を見ながら言う。
「あの木、ローリエよね」
「そうよ」
「店に帰ったら、二階でやらせてほしいことがある」
「いいよ。私も今日は蒸留をするつもりだった」
そのまま四人で店に帰り、二階のハーブ部屋に上がった。
「なんだか気味悪くて、素敵」
母親は、目をキラキラさせて驚いている。
「錬金術師の実験小屋らしいですよ」
三佐子さんは、黒いローブを羽織った。
「皆さんも着る?」
「着る着る」
四人の怪しい錬金術師ができた。
三佐子さんは、一番大きい銅製の蒸留器に精製水を注いでいる。四日前に収穫したセントジョンズワートを蒸留すると言う。
「リンダは何がしたいの?」
「ミキサーある?」
「ミキサー、ここでは使うことないけど、奥の大きい棚の中にあったような」
棚の扉を開けると、いくつかの機械類が入っていた。
「あったあった。動くかしら」
一緒に棚を開けた母親が、手動のかき氷機を見つけ、「これ、使えるよ」と言う。「本当ですか。使ったことないんです。今度ぜひ、お願いします」と三佐子さん。
一方、リンダさんは、ミキサーのプラグをコンセントに差し込み試運転。
「動く動く。大丈夫みたい。オリーブオイルある?」
「下にある。お兄さん、取ってきてやってくれる?」
僕は店のストッカーからオリーブオイルを持って上がった。
リンダさんが、興味深い説明を始めた。
「中東にいたとき、『アレッポの石鹸』というものを知ったんです。素早く汚れが落ちて、お肌に優しい。通販やネットなら日本でも買えるみたいですけど、まだまだ一般的ではないですね」
「あ、通販番組で見たことある。アレッポって、あの辺の地名よね」
「はい。よくご存じですね。石鹸って、油脂とアルカリの化学反応でできるんですけど、油脂の種類はいろいろです」
「昔、公民館の環境講座で、揚げ物の残り油で作ったよ」
「それはエコロジーでエコノミーな石鹸ですね。アレッポの石鹸は、オリーブオイルやローリエオイルで作るんです」
「お料理の香りになりそう」
「確かに」
さっきハーブ畑で採ってきた、ローリエの葉を十枚ほどミキサーに入れる。
「で、この葉っぱを、オリーブオイルと一緒にミキサーにかけます」
オリーブオイルをミキサーに流し込むと、蓋を押さえてスイッチオン。
グオーーン!
「おお、懐かしい音」
ドロドロになっていく様子を見ながら、止めたり、点けたりを繰り返す。
「もう、いいかな」
蓋を開けると、ローリエの甘い香りが漂った。
「これが、アレッポの石鹸になるのね」
「いえ、アレッポの石鹸はオリーブオイルかローリエオイルで作るのであって、両方を混ぜたりはしないと思います。これは私の思い付きです」
「思い付きなの?」
「はい、やったこともありません」
「ここまでのこと、全部初めて?」
「はい。うまくいくかどうか、全く分かりません」
「リンダさんも面白い人」
「ありがとうございます。サンザも似たようなものだと思います」
三佐子さんが蒸留器の滴りを見ながら、「こらー、聞こえとるよー」と叫んだ。
…行き当たりばったり。むしろ母さんに似てる。
「サンザ、これ、どうやって濾したらええ?」
「知らんよ。リンダがやり出したんじゃん。もう、全然、先のこと考えずに動きだすんじゃけん」
「そうか、考えて考えて、動かんサンザとは、やっぱり似とらんね」
「何のこと? それね、コーヒーフィルターじゃ詰まって落ちんけん、ガーゼで濾して、沈殿させて上澄みを掬うしかないと思うよ」
「さすが、サンザ」
リンダさんは、三佐子さんの言うようにして、濃い緑色の油液を抽出した。
「ローリエの英語
「ロレロレオイル?」
「そんな感じです。しかし、これは意外に手間ですね。石鹸を作る量のオイルを作るには相当時間がかかります。方針変更、ソープは諦めて、オイントメントにします」
「オイントメント?」
「軟膏ですね」
リンダさんは、鞄から自分の使っている白色ワセリンを取り出した。スプーンで全部掬い出し、小さいビーカーに落とした。そして、鍋に水を張り、ビーカーを湯せんした。
「ワセリンって、湯せんで溶けるんですよ」
透明に液化したワセリンに、ロレロレオイルを垂らし込む。そして、軽く混ぜて、一気に白色ワセリンの元の容器に戻す。
温度が下がり、見る見る白濁していくが、しっかり固まるには時間がかかる。待てないリンダさんは、冷蔵庫に入れてしまった。
しばらく、三佐子さんの鮮やかな手際の蒸留作業を見学した。やはり、何かを呟いている。
「まさしく、魔女が怪しい媚薬を作っている光景じゃね。動画を撮ってアップしたら?」
リンダさんが冷やかすが、三佐子さんは集中している。
…邪魔せんの。
リンダさんには、僕の心の声は聞こえないようだ。
そして、最後の一滴が落ちるのと同時。
「ナムアフ・サマンタ・ヴァジュラナム・ハム!」
三佐子さんがついに、はっきりと声に出した。
「今のが呪文?」
「そうよ。塾長の小説の中に出てくるサンザの呪文」
…これが、塾長の三つのキーワードの一つ、「魔女の呪文」に違いない。
「サンザは、あの小説の中で、最もミステリアスな呪術師、別名、
「鬼女姫。どんなことができるん?」
「人の記憶を操作する。記憶を消したり、偽りの記憶を植え付けたり…」
三佐子さんの作業が終わった。僕とリンダさんの会話は聞こえていなかったようだ。
「ふー」
「お疲れ様。いつも、ああやって?」
「うん。草を薬にするんじゃけん、心を込めなきゃね」
「高く売れるん?」
「一万円のエッセンシャルオイルも二百円の焼きそばも、同じように心を込めるよ」
「さすが、真心サンザ」
「ありがとう。リンダも出来た?」
「いやあ。サンザのに比べたら、私のはええ加減なものよ」
母親が冷蔵庫からワセリンの容器を出して、蓋を開けてにおいを嗅いだ。
「リンダさん、ローリエの甘い、いい香りよ」
リンダさんは、指に取って、手に塗り込んだ。
「よく馴染む。とりあえず、成功」
三佐子さんはリンダさんの手を取って、馴染み具合と香りを確かめた。そして、手首の傷を撫でながら、解説を始めた。
「ワセリンはそれだけで保湿効果がある。オリーブオイルは皮脂に近い成分だし、ローリエには炎症を緩和する成分があるわ」
「さすが、薬剤師」
「これ、商品化できる」
「やった! 初めて、サンザに褒められた」
三佐子さんが、軽バンに乗って母親を送ってくれた。僕は自転車で追いかけた。
帰宅して、テレビを見ながら、母親と今日のことを話す。
「リンダさんも素敵な人ね。どして、摂食障害なんかになったんかしらね、あんなに明るい人なのに、手首に包帯巻いとったね」
「アーティスト気質らしいよ。いい作品が出来んと、とことん落ちていくんだって」
「死ぬほど苦しいなら、やめりゃええのにと思うけど、そうもいかんのかね。やっぱり、心を病んどるんかね」
「僕のうつ病が初心者コースだって、三佐子さんの言った意味が分かったよ」
「人間の心は、宇宙と同じじゃね」
「塾長と同じこと言うとる」
「そうなん」
一人になり、塾長の小説の文庫本を出してみた。武瑠と三佐子さんのツーショットの写真が挟んであるページ。蒸留器の前で三佐子さんが唱えた呪文があった。
―ナムアフ・サマンタ・ヴァジュラナム・ハム!―
…何語だろう。しかし、たぶん、これが魔女の呪文で、リンダさんのロザリオが教皇の鍵なんだろう。あとは、極楽天神の場所だ。
写真と同じページに挟んであったはずのタロットカードがない。本をパラパラ漫画のようにめくると、最後の方にあった。カードの位置が動いている。
カードの図柄が、叔母さんの占いで出た「女教皇」だと気づいた。鍵を持っている。挟まっていたのは、巻末の付録資料で見開き地図のページだった。夢の中で神殿にあった古地図。イラストのようなものではなく写真だ。
…写真があるということは実在するということか。
教皇は「地図はすでに勇者の手にある」と言った。女教皇のカードが示した地図。これがその地図ということなのだろう。
折り込みで文庫本に対しては大きくはしてあるが、文字はかなり小さい。ルーペを持ち出して読んでみる。文字はほぼ仮名書きである。
…「しろあと」は城跡。「ふなたまり」は船溜まり、港のことか。「ちやや」は茶屋、昔も喫茶店があったのかな。「ちこくはし」? 遅刻橋? そりゃないか。
探しているのは極楽天神だ。山の中に黒く塗り潰れた部分を発見した。よく見ると、手の形をしている。
…教皇が付けた血の掌紋?
一昨日の夢で、そこが極楽天神だと言った。しかし、周りに目印となるものがない。手掛かりを探すと、比較的近い場所に、薄い小さな字で何か書いてある。「おんてん」と読める。
…温点、恩典、音転、怨天、御添…。
いろんな文字を組み合わせて考えているうちに眠くなった。ベッドに入る。
暗闇に塾長が病院着で立っている。酸素マスクを着けて、点滴のスタンドにもたれかかっている様子は、嘴のあるカラス天狗が錫杖を突いている姿に似ている。
「ヤマショウ、もう少しだ。私も最後の力を振り絞る」
「塾長! 魔女の呪文と教皇の鍵は、それらしいものを見つけたけど、『極楽天神』が分からない」
何か言いたげな顔をしているが、闇にフェイドアウトした。
極楽天神、夢では何度か現れたが、場所が分からない。ヒントは「おんてん」という場所の近くではないかということだけ。
夢の中の山道、どこだか分からない。僕が先頭を歩いている。後ろには三佐子さんとリンダさん、そして、母親までいる。
母親と三佐子さんが話し出す。
「犬、猿、キジを連れた桃太郎みたいじゃね」
「そういえば、お兄さんのお土産の吉備団子がお店に残っとったんじゃけど」
「そういえば、うちにもある」
リンダさんが冗談っぽく、割り込む。
「桃太郎さん、桃太郎さん。桃太郎さんはサンザを置いて、岡山に帰ってしまわれるのですか」
「そういうこと言うかなあ」と困る僕を見て、三人は笑った。
藪の中で、ゴソゴソと音がする。
「何かいる…」
三人の女性は、僕の影に隠れた。
…桃太郎、いや勇者ヤマショウとして、彼女らを守らなければならないんだろうな。
僕はその辺に落ちている木の枝を掴んだ。
…似たような光景があったよ。あの時は恐竜が出てきたが…。
出て来たのはイノシシ。牙のある大きなオスだ。猪突猛進、こちらに向かってきた。後ろの人たちを横に下げ、自分が進路に立った。向かって来る獣の眉間に木の枝を振り下ろす。
「面!」
打ったあと、左に避けて行き過ごさせると、イノシシは十メートルほど先で転倒した。
「チェストー!」
とどめをさしに行こうとすると、母親が言う。
「無用な殺生はやめなさい」
イノシシが逃げて行った方向に、黄色い蝶が飛んでいる。
…シカがいれば、
過去にも蝶に導かれたことがある。蝶の方向に進んでみる。しばらく行くと、神社と滝が現れた。夢では何度か、訪れた場所。見るたびに大きくなっているような気がする。
神社の前をよくみると、ペットボトルほどの大きさで、よく見ないと見えないくらい透けている塾長が立っていた。
「七月十三日、正午…」
「七月十三日、正午。それが、事が起こる時刻なんですね」
塾長は消えた。
僕が「今日は何月何日?」と聞くと、三佐子さんが「七月十三日よ」と答えた。
僕は時計を見た。
…間もなくだ。
映像は、突然、途切れた。
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