10 豆乳蜂蜜オートミール粥
七月十日水曜日。
朝五時のアラームが鳴った。
家で朝ご飯を食べて行くことにする。本来は定休日だが、休みが続いたので、久しぶりに店を開ける。いつも三時くらいまで、まともに食事ができない。
しかし、食パンがない。即席ラーメンの残り一袋、キッチンに置いてある。朝五時に食べる気はしない。ストッカーを開けると、包装米飯、スパゲッティ、カップ麺…。
…餅があった。これにしよう。
一個ずつ個包装した切り餅である。広島の雑煮は丸餅が主流だが、スーパーでは切り餅の方が多く置いてある。「もち米粉」で作ったのは、安くて早く焼けるが、煮物に入れると溶けてドロドロになるので、母は買わない。原材料は「もち米」でなくてはならない。我が家は、お正月に限らず、二週間に一回くらい、餅料理が出てくる。僕は一人暮らしになっても、その習慣を引き継いでいる。
三個を袋から出した。いきなりオーブンに入れると、外ばかり焼けて中まで熱が通らない。先に、電子レンジで二分。そして、オーブンで五分。食パンに比べれば、時間も手間もかかる。その間に、あべかわ餅、バター醤油餅、わさび醤油餅の調味料を、三つの小皿に準備する。あべかわ餅には「すき焼きのたれ」、バター醤油餅には「めんつゆ」を使うと簡単で美味しい。わさび醤油餅は、液体を絡めずに、刺身のような食べ方をする。
母親が起きてきた。
「あ、私もちょうだい」
「つけ味は使ってもいいけど、餅は自分で焼いて」
「それなら、自分でフレンチトースト餅を作る」
「また、変なものを」
「美味しいよ」
「とりあえず、自分のを食べる」
餅が焼けた。バター醤油、わさび醤油、あべかわの順だ。冷めない方がいい順。我ながら、旨い。あっと言う間に食べ終えて、行き支度を始める。
母がフライパンでフレンチトースト餅を焼きながら、「野菜がないから、野菜ジュース飲んでいきんちゃい」という。「はい」と言って、冷蔵庫から野菜ジュースを取り出した。
「行って来ます」
「行ってらっしゃい。三佐子さんを守るんよ」
「御意!」
「何、それ」
「塾長の小説では、そういって返事するんよ」
「読んだん?」
「読めんわ。聞いただけ」
「読んでから、話して聞かせて」
「僕、そこは母さんに似たんじゃわ。あ、行って来ます」
自転車に跨り、燕が飛ぶように坂道を下る。
カランコロン。
「おっはよー、魔女様」
「おはよう、勇者様。今日は『女将さん』じゃないんじゃね」
…勇者ヤマショウの話、したっけ?
「以心伝心よ」
「本当に口にしなくても、伝わるようになっとるね。隠し事できんね」
「魔女様じゃけんね。プランターに水を遣ったら、トイレの掃除してくれん? いつも最初にするんじゃけど、順番間違えた」
「御意、御意、ぎょいー」
「御意は一回」
「御意!」
プランターに水を遣り、トイレに入った。自家製の芳香剤らしいが、いつもと違う香りがする。
…この甘い香りはミントじゃない。芳香剤というより、料理で使うにおい。
丁寧に掃除してトイレから出ると、魔女様に叱られた。
「時間かかり過ぎ」
「心を込めて、便器を磨かせていただきました」
「手際が悪いから時間がかかるんよ。技術なくして、真心は伝わらん言うたじゃろ。トイレ掃除も一緒よ」
「名言、胸に刻み申す」
「手を、石鹸でよーくよーく洗って、アルコール消毒して、ゆで卵、お願いね」
「御意、御意、ぎょいー。御意は一回! 御意!」
「オウムか」
恋愛感情を抜きにして、名コンビだと思う。むしろ、抜きの方がそうなのかもしれない。
「トイレの香りが変わったね」
「お、さすが、においの天才。何の香りか分かる?」
「何か、料理で使うスパイスのような気がする」
「鋭い! ローリエよ」
「え、シチューとかに入れる葉っぱ?」
「そうそう。ハーブ畑に木が一本、立っとったじゃろ。あの木」
「そういえば、あったね」
ハーブ畑は、僕にとって三佐子さんとの一番楽しい思い出の場所。そこの木の香りだと思うと、トイレに嗅ぎに行きたくさえなる。
「昨日、ローリエのスプレーを作ったんよ。インターネット注文が入っていたのを、一週間も気付かずにいたみたい」
「へえ、インターネットにつながるパソコンがあるんじゃ。メールアドレスは?」
「一応ある」
「教えて。あの固定電話だけじゃ、不安でしょうがない。出んし」
「メールも返事は遅いよ」
「時間があるときでいい。もう、来週は岡山に帰るけん」
「以心伝心じゃ届かんかね。『ぎふまふハーブ』と検索すれば、ホームページがヒットするよ」
「あとで探してみる」
七時、開店すると、いつもの三人。
「おはようございます」
例の工場長がニコニコしながら言う。
「おはよう。今日は休みじゃないんじゃね」
その言葉で、ほかのお客さんも定休日であることを思い出した。
「ごめんなさい。ずっと休んどったけん、そろそろ開けんといけんと思ったんです」
「いやまあ、この店はいつが休みでも、不思議はないんじゃけどね。昨日、バイト君が『連絡が取れん』言うけん、心配しよったんよ」
「ご心配、ありがとうございます」
「なんか、変わったことでもあったん?」
「リンダ、ご存じですよね。帰って来たんですよ」
「リンダちゃんが? ほんま?」
…工場長はリンダさんを知ってるんだ。
「お兄さん。リンダもここでバイトしとったけん、古い常連さんはご存じなのよ」
「リンダちゃん、元気なん?」
「いえ、あんまり。今、安芸南病院に入院してます」
「あらぁ。うちの工場の近くじゃない。見舞いに行こうか」
…やっぱり、そうか。昨日見た工場が工場長の工場なんだ。
「いや、やめてやってください。恥ずかしがります。退院したら、ここに連れて来ますから」
「そう。じゃあ、やめとくわ」
工場長はモーニングを食べながら、僕に言う。
「自転車どんな?」
「ありがとうございました。ええ、もうバッチリです」
ここでは、技能実習生の話は控えておこう。よく考えてやらないと、これは結構、デリケートな問題だ。三佐子さんに「テキトーに頑張ってください」と言ってもらい、ニコニコで出勤して行った。
次々と常連さんが現れる。皆、二日間の臨時休店を心配していた。一昨日の大雨の中でも、結構、来てくれていたようだ。
十時頃、初めて店の黒電話が鳴った。
「ほんまに鳴るんじゃ!」
三佐子さんが出る。病院からのようだ。電話を切ると、三佐子さんは、僕に向かって言った。
「リンダが退院するって。私、動けんけん、お兄さん、迎えに行ってくれん?」
「え、一人で?」
「明日はまた、休むことになるかもしれんけん。今日は、店、開けておきたい」
「分かった」
「これ、入院費。十万円入れてある。あと、これを看護師さんたちに」
そう言って、布の巾着とお菓子の詰め合わせを、僕に手渡した。お菓子は、店でコーヒーに添えるハーブ入り特製クッキーだ。
軽バンぎふまふ号で国道三十一号を通り、病院に向かう。同じ埋立地の中に行政境界がある。矢野沖町と坂新地の境目は分かりにくいが、病院は坂町側らしい。
病院に着いて、病棟のナースステーションで、退院の手続きをした。お菓子を差し出すと、「ああ、困ります」と言われたが、「お心配り、ありがとうございます」と受け取ってもらえた。横にいた若い看護師が「わあ、すごい。ぎふまふ特製クッキー! お店でコーヒーを飲まないと食べられないんですよ」と言った。この病院では、純喫茶ぎふまふは有名らしい。
病室に行くと、リンダさんは着替えを済ませて、ベッドの横で椅子に座っていた。最初に見たときの印象と違って、血色も良く朗らかだ。
「山翔さん。ごめんなさい」
「いえいえ、魔女サンザ様の命により、勇者ヤマショウがお迎えに上がりました」
「ふふ。教皇リンダ、心より礼を申す」
驚いた。
…教皇リンダって。
「教皇? リンダさん、教皇なんですか」
「あれ? 塾長の本を読んだのかと思いました」
「ごめんなさい。分厚いので読めないんです」
「そうなんですね。リンダは異世界の教皇なんですよ」
…タロット占いで、女教皇が鍵を握っていると出ていた。このリンダさんが鍵を握っているということか。
「リンダさん、鍵を持ってないですか」
言って後悔した。夢の中での「鍵」という表現はきっと比喩だろう。
「鍵? 何の鍵?」
「謎を解く鍵」
一層、変な感じになった。しかし、夢の中で背負ったとき、リンダさんは首に鍵をぶら下げていた。
「山翔さん…」
怪訝な表情。昨日、メンタルで休んでいる話をしたので、心を病んで変なことを言っていると思われたかもしれない。この話は止めた。
「行きましょうか」
「お願いします」
リンダさんは、傘をついて立ち上がる。普通に歩けるようだが、少し弱々しい。僕が荷物を持って、腕を貸すと、割と遠慮なく掴まれた。エレベーター前で、担当の看護師に見送られた。駐車場まで行き、後部座席を開くと、座布団が三枚敷いてあった。軽バンの座席は硬いので、三佐子さんが置いたものに違いない。
リンダさんを乗せて、運転を始めた。
「山翔さん、ありがとう」
「リンダさん、少し、元気そうになりましたね」
「お陰様で」
「お家はどちらなんですか」
「サンザのマンションに転がり込んでます」
「三佐子さんのマンション? え、今は喫茶店の三階に住んでるみたいですよ」
「え、え。塾長と一緒に?」
「あ、ご存知ないんですね。塾長は意識のない状態で入院しています」
「ああ、私ったら…。本当に三年経ってるんですね」
リンダさんの表情が曇った。
「すみません。考えもなく話してしまって」
「いえ、昨日はサンザとも話せませんでしたから…」
「そうですよね。とてもお話ができる様子ではありませんでしたよ」
「ごめんなさい。…あ、武瑠君は? お元気ですか」
「あ、それもなんですね。…行方不明です」
「…東京かどこかに?」
「いえ、失踪です、三年前から」
「え、そんな…」
ミラーを見ると、リンダさんは唇を噛んでいた。
「あ、ごめんなさい。心が弱っているのに驚かせてしまって…」
「大切な人たちが、そんな大変なことになっているとも知らずに。…私、どこで何をしていたのかしら」
耐え切れず、顔を両手で塞いで泣き始めた。
「ああ、僕がこんなところで話すことじゃありませんでした」
しばらく泣いて顔を上げ、涙を堪えながら言う。
「いえ、これをサンザに言わせたら、お互いにもっと辛かったわ。山翔さん、ありがとう」
その後、黙って運転したが、気詰まりなのでカーラジオを付けた。正午のニュースが始まった。矢野沖町の工場街にサイレンが鳴った。
常連の工場長の工場の前を通ると、休憩に入った外国人らしき人たちが歩いていた。その中に見たことのある人たち。
…悲しんでいるリンダさんには申し訳ないが、このチャンスを逃してはいけない。
車を寄せて、声をかけた。
「ホーさん、レーさん!」
二人は怯えたような目で、僕を見た。周りの人も一斉に振り返った。男性との接触には、実習生たちも敏感だ。
「ああ、ギフマフのお兄さん。びっくりしました」
「ごめんなさい、ごめんなさい。驚かせてしまいました」
「何ですか?」
「立ち話でするような話でもないんですけど、恋愛禁止は誤解なんですよ」
「タチバナシ?」
リンダさんが後部座席の窓を開けた。目の周りは涙で濡れたままだ。
「その日本語、難しいですよ。なんて言えばいいですか。通訳しますよ」
「リンダさん、英語できるんですか」
「東南アジアに住んでたから、この人たちともコミュニケーションできると思うわ」
…行ったことがあるということじゃなくて、住んでた?
リンダさんに「ここの工場長と話した。『恋愛禁止というのは誤解。間違ったことを言う人がいるから、公民館には行かない方がいいと言った』と話していた。あなたたちのことは話していない」と伝えた。
リンダさんは「ありそうな話ね」と言って、何語だかで彼女らに伝えてくれた。通訳の仕方が良かったようで、二人は顔を見合わせて笑った。
「今度、グエンさんたちとまたお店に来てください」
「ありがとう。グエンさんは、ギフマフの人は信じていいと言っています」
「大丈夫、信じてください。じゃあ」
バックミラーを見ると、二人は車に手を振ってくれていた。
店の駐車場に着いた。リンダさんの手を持って支えようとすると、手のひらを広げて断った。
「サンザがやきもち焼くといけんから」
…リンダさんは、三佐子さんが僕のことを好きだと思ってるのかな。
「そういえば、今朝の僕の朝ご飯、お餅でした」
「朝からお餅? しかも真夏に」
リンダさんは軽く傘を突きながら、店まで自力で歩いた。
カランコロン。お客さんはいなかった。
「サンザ、ただいま」
「リンダ、おかえり」
「懐かしい」
「コーヒー飲む?」
「うん、飲みたい。サンザのコーヒーは天下一品じゃけんね」
リンダさんも三佐子さんと話すときは、広島弁になるようだ。三佐子さんはサイフォンを準備して、アルコールランプにパチンと指で火を点けた。
「見事な魔女ぶりじゃね。私、結局、それできんかった」
「誰かから一緒に習ったんですか?」
僕が聞くと、リンダさんが答えた。
「大魔王からです」
「大魔王って、塾長のことですか」
その言葉を聞いた三佐子さんは、落ち着かない感じで言った。
「リンダ。話さんといけんことがある」
リンダさんは真顔になった。
「塾長と武瑠君のことなら、さっき、山翔さんに聞いたよ」
「え?」
「うん。僕が話すことじゃなかったね」
「いや、リンダがここに戻れば『塾長は?』って聞かれるよね。なんて話そうかと、気が重かったんよ」
「ごめんね、サンザ。一人で辛い思いさせて…」
「ううん。帰って来てくれてありがとう…」
「私がどこで、何をしとったか言わんといけんよね」
「言いとうなかったら言わんでええよ」
「ありがとう。でも、実はね。…この街を出てから昨日までのこと、何も思い出せんのよ」
「何も…そう、大丈夫よ。もう思い出さんでええけん」
リストカット痕のことを考えると、記憶喪失になるような、辛い出来事があったのだろうと想像がつく。
三佐子さんはリンダさんの手を取り、微笑みかけた。リンダさんも返した。見つめ合い、視線で感情のやりとりをしている。
しばらく様子を見る。タイミングを感じて、「コーヒー冷めますよ」と言うと、リンダさんが「そうですね」と答えた。
「リンダさん、僕とも広島弁で話してもらえますか? 僕もタメで話しますから」
「いいですよ。あ、ええよ。ふふ」
三人でコーヒーを飲んだ。ハーブ入りクッキーを初めて食べた。
…噂のクッキー、思ったよりハーブがきつい。
「リンダ、疲れたじゃろ。三階に布団敷くけん、横になっときんちゃい」
リンダさんは立ち上がったが、立ち眩みがするようだ。
「まだ、無理しちゃだめ。お兄さん、おんぶしてあげて」
「いや、歩けるよ」
「ええけん、おんぶしてもらいんちゃい」
「妬かん?」
「妬かん、妬かん。真夜中のケトル」
「ああ、夜間のヤカンね。塾長が好きそうじゃわ」
僕はおんぶの態勢で待っている。
「ええけん、早よ背中に乗ってや」
「御意御意」
「御意は一回」
「トリオ漫才ができるね」
「中二男子のおふざけさんよ」
「早よ、せえや!」
三人で大笑いして、ようやく、リンダさんが僕の背中に体重を預けた。
…軽い。けど、温かい。
三佐子さんが、昼食のトレイを持って先を進み、その後ろについて階段を上がった。リンダさんが何か耳元で言っている。
「ありがとう。ありがとう」
夢の中で同じことがあった。
…ん? 泣いてる?
後ろから強く抱きしめられた。
三階には、昨日、三佐子さんと作った畳ベッドがある。プラスチック製のビール箱を並べた上に畳が敷いてある。もともと、塾長が来客用に持っていたセットらしい。三佐子さんは、そこに新しい布団を敷いた。
リンダさんは、泣き止んでいるようだ。僕におんぶされている彼女に向かって、三佐子さんが言う。
「いつまで、くっついとるん?」
「やっぱ、妬いとる」
「真夜中のケトル!」
「はいはい。山翔さん、降ろして」
二人は本当に気が合うのだと思う。
布団の上に下ろすが、リンダさんは横にならずに座った。三佐子さんはテーブルの上にトレイを置いた。
「これ、食べて。オートミール粥よ。まだ、胃腸に負担のないものにせんとね」
「ありがと。でも、何それ。相変わらず、実験料理?」
「そうね。初めて作った」
「はいはい、実験台になります」
「そんなに変なものじゃないよ」
「どうやって作ったん?」
「オートミールを豆乳で炊いたんよ。蜂蜜で甘みをつけてみた」
「蜂蜜大好き」
「じゃったよね。食欲が出ればと思ってね」
「オートミール、ダイエットで三食食べてた時期があったけど、調子悪くなった」
「そうじゃったん。それはたぶん食べ過ぎよ。繊維質が多いいけん、胃腸に負担がかかる。でも、水分をたっぷり含ませて、適量を摂取すれば、腸をきれいにしながら、善玉菌を増やしてくれるんよ」
「そうなん。さすが、管理栄養士兼薬剤師」
「兼調理師よ。たぶん、胃が小さくなっとるけん、何回にも分けて、ちょっとずつ食べようね」
「御意」
「あ、そう。あと、秘密の木の実も入っとる」
「なんなんそれ?」
これには僕が答えた。
「昨日も病院で食べたやつ。大蘇鉄」
「それって小説に出てくる万能薬よね。実在するん?」
三佐子さんが答える。
「大蘇鉄は実在せんよ。これ、デーツらしい」
「デーツ、知っとる。中東におったときに、ドライフルーツを食べたよ。日本でも売りよるん?」
「僕が夢の中で恐竜にもらった」
「疑ってない。だって、私と同じ夢を見たもんね」
…まずい。口移しの話になりそう。
三佐子さんは、僕の心の声を聞いたのか、「真夜中のケトル」と言った。
「はは。いただきます。お二人さんは、お店があるんじゃろ。どうぞ、行ってらっしゃい」
「うん。テレビでも見る?」
「じゃあ、BGM代わりにつけといて」
三佐子さんはテレビのスイッチを入れ、リモコンをリンダさんに渡した。
「何か用があったら、下の電話鳴らして」
「うん」
三佐子さんと僕は、店に下りた。
お客さんはいない。
「リンダさんって、何者なん? 東南アジアとか中東に住んでたみたいなこと言うてたけど」
「フォトグラファーよ」
「写真家? どんな写真撮りよるん?」
「世界の貧困とか飢餓とか」
「へえ。ハードなジャンルなんじゃね」
「でも、リンダは悲惨な写真は撮らん。世界標準からみれば、貧しいと思われる環境にある人々の、笑顔を撮ってきたんよ」
「貧困の中の笑顔か。それを撮るためには、撮られる人と仲良くならんといけんね。あ、じゃけ、一緒に住んどったんか」
「いわゆる帰国子女じゃけん。視野も考え方もグローバルなんよ。大学を卒業する前に、世界に飛び出して行ったよ。しかも、政情不安定な国や紛争地域みたいなところばっかり。案の定、何回も音信不通になった。ゲリラに拉致されて、殺されたんじゃないかって心配でしょうがなかったよ」
「か弱い感じじゃけど、芯は強いんじゃろうね」
「うーん。強いと言えば滅茶苦茶タフなんじゃけど、弱いと言えば滅茶苦茶脆い」
「そうなん」
「ジャーナリストというより、アーティスト気質なんよ。目標を見つけたらまっしぐら。じゃけど、納得いかんと、とことん落ちていく」
「なるほど。それが手首の傷?」
「じゃろうと思う。昔から情緒不安定なところはあったよ」
「リンダさんの作品って、どんなん?」
「写真集あるよ」
三佐子さんは、店の本棚から写真集を取り出した。
「『スマイル・フォー・フーム』というタイトル。『誰のための笑顔』という意味かね。『先進国と呼ばれる国の人々は、経済発展の遅れている国の人々を可哀想だと思っている。でも、ただの哀れみは蔑視に等しい。お金がないことが不幸なんじゃない。愛さえあればこんなに幸せなんだ』ということを描きたいと言ってたけど、たぶん、矛盾に陥ったりして、うまく表現できんのじゃと思うよ」
「うーん。貧困の中の幸福って、テーマが難し過ぎるよ」
「そこにチャレンジするのが、リンダよ」
写真を見ると、子どもも大人も皆、すごくいい笑顔をしている。
武瑠と三佐子さんのツーショット写真の、いい笑顔を思い出した。
…あの写真を撮ったのはリンダさんじゃないのかな。
日中、そこそこのお客さんがあった。三佐子さんは、仕事の合間に、リンダさんの食事を作って、三階に持って行った。オートミール粥のバリエーションのようだ。
リンダさんは、また少し元気になったようで、閉店前には傘をついて、下りてきた。ちょうど、カラオケスタンドのママ、つまり、三佐子さんの叔母さんが来ていた。
「あらあ、リンダちゃん! 元気…じゃなさそうね」
「おばちゃま、お久しぶりです」
「痩せたね。どしたん」
三佐子さんが「叔母ちゃん!」と言って質問を制した。
「ごめんごめん。ここには、心病みが集まってくるんかね」
叔母さんは、リンダさんが精神的なダメージで激痩せしてしまったことを見抜いたようだ。
「悩みがあるんなら、占いしてあげるよ」
「ありがと。そういえば、私らが高校生のときから、おばちゃまのタロットは当たるって、女の子たちの噂じゃったよ」
「ほうなんよ。ただ、私が別れんちゃいとか、諦めんちゃいとか、ズバリ言うてしまうけん、占いのお客は減っていったよ」
みんなで笑った。
叔母さんに、「タロットに魔女とか女教皇とかいうカードはありますか?」と尋ねてみた。「女教皇はあるけど、魔女はない。その代わり、魔術師というのがあるよ」と教えてくれた。三佐子さんとリンダさんは、僕がなぜそんな質問をするのか分からない。
…そういえば結局、あの夢の話はしてない。
叔母さんが帰り、店を閉めた。
「明日もお店を開ける?」
僕が三佐子さんに聞く。
「朝の常連さんが終わったら店を閉める。リンダを塾長に会わせておきたい」
「僕も行く」
「うん。じゃあ、一緒に行こう。ここを朝九時に出発する」
「分かった」
…三佐子さんとリンダさんは、今日は水入らずで話すんだろうな。いや、三佐子さんはあれこれ聞かないような気がする。
いずれにしても、二人の友情のブランクを埋める時間が必要だ。
僕は自転車で帰宅した。
母親にオートミール粥のことを話すと、手を叩いて言う。
「よし、今日の晩ご飯はシリアル!」
「シリアルって、コーンフレークのこと?」
「グラノーラ」
「どっちにしても、朝ご飯じゃろ」
「それは固定観念」
「手抜きしようとするにおいがする」
「三佐子さんは、オートミールを豆乳で炊いて、蜂蜜をかけたのね」
「うん」
「そのまま、グラノーラでやってみよう」
僕が「はい、先生」と言って手を上げると、母は「はい、山翔君」と指さした。
「グラノーラは加熱しない方がいいと思います!」
「そうか。グチョグチョのグラノーラは確かに気持ち悪い」
母はグラノーラに豆乳と蜂蜜をかけた。デーツの代わりに干しブドウをのせた。二人で食べ始めた。
「はい、先生」、「はい、山翔君」。
「グラノーラのガリガリ感と、レーズンのブニョブニョ感が馴染みません」
「ほかのフルーツがあれば違和感がなくなると思うんだけど、この二つだけを口に入れると、確かに気持ち悪い」
「はい、先生」、「はい、山翔君」。
「味と栄養はオッケーですが、結論的には『気持ち悪い』です」
「課題は食感だね」
「そうですねー。でも、やはり、これは朝ご飯だと思います」
ネットテレビでグルメドラマを見る。ずっと見ていた番組のシーズン2だ。この番組の重奏低音は「意外な組み合わせ」。固定観念を覆すように、食材や調味料を組み合わせる。母親はこの番組に影響され、三佐子さんの料理に興味を持った。確かに、三佐子さんの実験料理には「意外な組み合わせ」が多い。母は毎日、三佐子さんのメニューの話を、僕から聞き出そうとする。
一気に三話見ると、十時になった。
眠くなる。夜、寝るべき時間に眠気がくるということは、メンタルの症状が改善されているということになるはずだ。その一方、夢を覚えているということは、睡眠の質が良くないことを表している。しかし、最近、僕が見ている夢は、明らかに意図をもって上映されている。
…そんなことを考えること自体、精神疾患なのか。
スマホの電話が鳴った。
…こんな時間に。
菊池塾長と表示された。
…まさか。
「塾長!」
「主治医です。もしかして、そちらは孫娘さんの旦那さんですか」
「あ、先生ですか。びっくりした」
「それはごめんなさい。菊池さんが、先ほどから、寝たまま、何かを言っておられまして、メモを取ろうとしたのですが、私には意味が分からないので、直接、聞いていただこうと。孫娘さんに電話をしたんですが、お出にならないので、一番最後の発信履歴にかけてみました」
「そうなんですか。聞かせてください」
「あ、今また、喋り始めました。聞いてください」
主治医の先生は、スマホを塾長の口に近づけたようだ。酸素吸入器をはずしているのか、辛そうな息が聞こえる。
「ごくらくてんじん、まじょのじゅもん、きょうこうのかぎ…」
それを繰り返している。三回聞いて、意味が分かってきた。
…極楽天神、魔女の呪文、教皇の鍵。
「塾長、もう少し具体的にお願いします」
「あ、主治医です。話すのをやめられました。聞き取れましたか」
「はい。なんとか」
目が覚めた。
現実との区別がつかないリアルな夢だった。
極楽天神、魔女の呪文、教皇の鍵、三つの言葉をメモした。
…これが武瑠を見つけるためのヒントなのか?
タロット占いで出て来た魔女と女教皇は、三佐子さんとリンダさんということで良いのだろうか。そういえば、夢の中でリンダさんを背負ったとき、首に鍵をぶら下げていた。現実世界で、初めて話したとき、「鍵を持っていないか」と聞いたら、変な顔をされたのでやめた。
塾長が、夢で武瑠の居場所を示そうとしているのは分かるのだが、知っているなら、もっと分かりやすくしてもらいたい。
…しかし、あれか。いつかお医者さんが言っていた「明晰夢」。夢はコントロールできるとは限らない。塾長自身ももどかしく思いながら、夢を見ているのかもしれない。
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