9 リメイク・ザ・病院食
七月九日火曜日。
朝五時、アラームで目が覚めた。
昨夜、夢を見たという感覚はあるのだが、内容を全く覚えていない。何か、重要な夢だったような気もするが、思い出せない。
…夢ってそういうものか。
カーテンを開けると、雨は上がっていた。
僕の熱も下がっていた。店に電話をしてみる。やはり、三佐子さんは出ない。
母は僕の体調以上に、三佐子さんのことを心配している。自転車はブレーキワイヤーが切れて、店の前に置いたまま。
…歩いて行くしかない。いや、走るか。
体力には自信がある。しかも、ほぼ下り坂。猛スピードで走る。
函館っぽい坂道の両サイドの街路樹は、アメリカフウという木らしい。今は真緑だが、秋には色とりどりに紅葉する。
純喫茶ぎふまふに着くと、ドアには、昨日貼ってあった「臨時休店」の紙がそのまま。鍵がかかっている。駐車場に行ってみたが、車はない。三佐子さんは、車に乗って出かけているようだ。
店に戻ると、朝の常連の一人、気の良い工場長が、貼り紙を見ていた。
「工場長さん、おはようございます」
「ああ、バイト君、おはよう。昨日は臨時休店じゃったけど、今日は? いつもならこの時間には、中で準備しよるけど、おらんみたいなね」
まだ、通常の開店時間までは一時間あるが、気になって見にきたらしい。
「昨日は大雨だったので、休むと連絡があったんですけど、今日はなかったんです。こちらから連絡しても、ここにはいないようで」
「そうなん。あんたにも連絡がないん?」
「ないんです」
「心配じゃね。心当たりは?」
「特に…」
「ほんまにただのバイト君なんじゃね」
「ええ…」
…ただのバイト君と言われると、ちょっと悔しい。
「どしたん? 自転車、メゲたん?」
「ブレーキのワイヤーが切れたんです」
「直したげよう。ちょっと待って」
工場長は駐車場に行き、自分の車から工具とワイヤーを持って来た。
「ワイヤーまで、持ってるんですか」
工場長は、慣れた手つきで修理を始めた。
「うん。技能実習生に自転車、貸しとるけんね。お国の家族の期待を背負うて、日本に来とるんじゃ。怪我をさせたら、申し訳ないじゃろ。実習生の自転車の点検は、工場長の仕事よ」
「技能実習生、たくさんいるんですか」
「ああ、自動車部品を作っとるんじゃが、うちは女子ばかり預かっとる。細かい作業は、日本人がやるより丁寧なよ」
「へえ。そういえば、あの人たちって、恋愛禁止と聞いたんですが」
「誰に聞いた? そんなことはないよ。そんなことはないんじゃが、誤解されとるんじゃないかと思う」
「誤解?」
「どしたん? 何かあった?」
「いえ、そういうわけじゃ」
「変なことを吹き込む奴がおるみたいなんよ。公民館で、ほかの工場の実習生に会うみたいなんじゃが、『もう行きんさんな』言うたんよ」
グエンさんたちの話と重なる。だとしたら、お互いに誤解している。しかし、ここで、名前を出すのは良くない。
「そうなんですか」
「ほい、直ったで」
「ありがとうございます」
「そうか、今日も休みか。コンビニでサンドイッチ、買うて食べるか。三佐子ちゃんのモーニングじゃないと、調子が出んのじゃがね」
「なんか、すみません」
「いやいや、この店の臨時休店は、先代のときから珍しいことじゃないんよ。三佐子ちゃんも、先代の世話やら畑の世話やら、いろいろ忙しいんじゃろ。常連は皆、分かっとるけん」
「そうなんですか」
「みんな、三佐子ちゃんの応援団よ。ええ子よね」
「あ、はい」
「なんで、ただのバイト君が照れとるん?」
工場長は、僕を冷やかして、にこりと笑い、その場を去った。
自転車は直った。三佐子さんの行きそうな場所と言っても、見当がつかない。
…僕は三佐子さんのことを何も知らない。ただのバイト君だから。
悲しくなった。
昨日の朝、バスの中から軽バンを運転している姿を見た。それから、連絡さえ取れない。三佐子さんは携帯電話を持っていない。店の固定電話に出てもらうか、僕の携帯にかけてもらうしかない。連絡できないのか、しなくてもいいと思っているのか。
いろいろ考えると、切なくなる。腹動脈を押さえる、精神安定ルーティンをやってみるが、不安は治まらない。
直してもらった自転車で、昨日、軽バンを見つけた場所に行く。駅前の市営駐輪場の建物の前だ。あの時、バスの中からあの痩せた女を見た。直後、三佐子さんの車を見た。随分、焦っているようだった。
スマホが鳴った。自転車を止めて、スタンドをかけて、画面を見る。
…公衆電話…誰だろう。
「もしもし、お兄さん?」
「三佐子さん!」
路上にも関わらず、大声を出してしまった。
「ごめん。心配しとるよね」
「そりゃあ、心配しとるよ。どこで何しよるん?」
「ごめん。電話ができんかった。今、病院」
「塾長に何かあった?」
「いや、塾長じゃなくて、私の友達に付き添っとるんよ。安芸南病院、分かる?」
「分かるよ」
「今日も、店は休みにするけん、お兄さん、ちょっと病院に来てくれん?」
「もちろん。すぐに行く」
三佐子さんと連絡が取れた。それだけで、それまでの胸騒ぎが落ち着いた。
自転車を、坂町との境界にある病院に走らせた。地域の基幹病院であり、この辺では一番大きい。自転車を駐輪場に止めた。受付で部屋番を聞いて、エレベーターに乗り、その病棟に行く。ナースステーションで面会の許しを得て、病室の前に到着した。
四人部屋だが、一つしか名前の表示がない。
…林田美沙子。聞いたことあるような。
カーテンが閉まっている。これを開けたりすると、また、「スケベ刑事」と言われる。
「こんにちは、伊藤山翔です」
声をかける。
「あ、お兄さん」
カーテンから、三佐子さんが顔だけ出した。そして、小声で言う。
「患者は同級生。ナイーブじゃけん、傷つけるようなことを言わんように」
「分かった」
と言ったが、三佐子さんの言葉の意味は、カーテンを開けるまで分からなかった。
「う」
息を飲んだ。妙な反応をすると、その反応が傷つけてしまう。
「今、眠ったみたい」
ベッドに横たわる、三佐子さんの友達の顔を見て、驚いた。
「じゃけ、そんな顔をしたら、傷つくって」
そう言われても、驚きを隠すことができなかった。こけた頬、落ちくぼんだ目、細い腕。唇が震える。
「いや、違うんよ。彼女なんよ」
「何が?」
「夢で見た、痩せた女」
「え、私のベッドで死んでたという?」
「そう。昨日の朝は、現実の世界で二回見た。大雨の中で、傘を差して」
「どういうこと? 昨日、会ったの? どこで?」
大雨の中、店に行く途中、駅の近くで彼女を見て驚き、自転車で転んだこと。帰りのバスの中から、もう一度見て、直後に三佐子さんが車に乗っているところを見たこと。昨日のことを話した。
「彼女から店に電話があったんよ、弱々しい声で。すぐに、駅に迎えに行ったんじゃけど、おらんけん、迷うとるんじゃ思うて、車であちこち探しよったんよ」
「僕は、そこを見たんじゃね」
「たぶんその後。駅前の駐輪場の裏の柱にもたれかかってるのを見つけたんよ。車を降りて、声をかけたら、意識が薄いの。救急車を呼んで、一緒に乗ってここに来たんよ。心配かけて、ごめん」
「そうじゃったん。大変じゃったね」
横になっている人の寝顔を見つめた。
「なんで僕は、その人の夢を見たんじゃろ」
「不思議なね。この子が『リンダ』よ」
「リンダ?」
「一緒に菊池塾に通い、一緒に講師を務め、一緒に喫茶店でバイトした、私の親友。林田美沙子。もう一人のミサコよ」
「もう一人のミサコ…」
その言葉で、三佐子さんに話さなかった口移しの夢を話すことにした。
「実はね。一昨日も、夢でこの人に会った。塾長から『その女もミサコ』という言葉を聞いたんよ」
「リンダのこと?」
「そうじゃったんじゃね。今、分かったところ。極楽天神の滝の滝壺に、痩せた女が倒れていて、それを助けたんよ」
「極楽天神に倒れとったん?」
「うん。手首に怪我をしとったけん、僕がネクタイを巻いた」
「え?」
三佐子さんは、ゆっくり毛布をめくり、リンダさんの左手を出した。手首に包帯が巻かれている。
「あ! どういうこと?」
「夢と現実がクロスしとるようなね」
「夢ではね、また、カラス天狗が出てきて、『大蘇鉄の実』を食べさせろって言うんじゃけど。気を失っとるけん、口を開けんのよ。そしたら、塾長が『口移し』とか言うて、脅すんよ。仕方ないけん口移しで食べさせた」
「へえ、キスしたんじゃ。で、意識戻った?」
「キスじゃない。一応戻ったけど、声は出んの。夢のことじゃけん、言うけど、塾長は『お前はその女と口づけをしたから、その女を愛するはずだ』とか無茶苦茶なこと言うんよ」
「やっぱり、キスじゃん」
三佐子さんが拗ねたように見えた。
「夢の中のことよ。僕はこっちの三佐子さんのファンなんじゃけん」
気付くと、ベッドのリンダさんが目を開けている。ハッとした。悲しそうな顔で、僕を見ている。夢の中で、同じようなことがあった。
「三佐子さん!」
「リンダさんが目を開けている」と続けようとしたが、二人が同時に「はい」と言った。二人とも「ミサコさん」なのだ。どちらを呼んだのかを明らかにしないことにした。
「リンダ! 声を出したのね」
「今まで、声が出んかったん?」
「そうなんよ」
三佐子さんはリンダさんの手を取った。
「リンダ。武瑠君のお兄さんよ。知っとるよね」
リンダさんは頷いて、初めて笑顔を見せた。色白で、ちょっと日本人離れした目鼻立ち。健康さえ取り戻せば、美人だと思う。
三佐子さんが包帯の巻かれた手を優しく握る。リンダさんは、安心したような表情をすると、また、眠り始めた。
「談話コーナーに行こ」
三佐子さんはカーテンを開けて、廊下に出た。それについて、病棟の角にある談話コーナーの椅子に腰を掛けた。
「何?」
「リンダね、実は武瑠君がいなくなるちょっと前から、ずっと音信不通じゃったんよ」
「え、そんなに」
「海外に行って連絡が取れんのは、いつものことじゃったけどね。さすがに半年、帰って来んけん、塾長が捜索願を出した。私の前から武瑠君、リンダ、塾長、大切な人が次々と離れていった…」
「そうじゃったん」
三佐子さんは、疲れた顔をしている。
「まだ、話ができんのじゃけど、リンダ、心を病んでるね」
「メンタル?」
「お兄さんのと違って、本物のうつじゃね」
「僕のが偽物みたいじゃん」
「ごめんごめん。それなりに辛いんよね」
…それなりにって。
「リンダの手首、夢で見たんよね?」
「うん。怪我をして服が血に染まっとった」
「あれ、リストカットの痕よ」
「リストカット?」
「手首を切って自殺しようとしたんじゃろうね」
「え、自殺…」
「包帯をめくってみたら、ためらい傷が何本かあった。最後の一本は新しかったね」
「確かに、僕のとは比べ物にならない重症じゃね」
「何があったんじゃろ。本当はよく笑う、明るい子なんよ」
「無理に聞き出さない方がいいね」
「うん、そうじゃね。メンタル患者には気持ちが分かるんじゃね」
「皮肉?」
「違うよ…」
「でも、見つかって良かったね」
「うん。リンダが出てきたけん、武瑠君も出てきそうな気がする」
「そうじゃね」
三佐子さんは、テーブルに顔を伏せた。リンダさんが現れたことがうれしいのか、武瑠のことを思い出したのか、泣いている。僕は躊躇しながら、肩に手を置いた。
…三佐子さんの肩の筋肉すごい。
違うことを考えてしまった。
「重いフライパンを振っとるけんね」
また、声に出してないことに返事がきたが、だんだん、不思議ではなくなってきた。
「あ、九時になったら、隣のスーパーが開く。ちょっと買い物して来るけん、リンダについておいてやってね」
「え、僕一人で? 目が覚めたら、どうしよ」
「大丈夫じゃろ。塾長の予言を確認してみたら?」
どうも、僕がもう一人のミサコを愛するという、夢の話に引っかかってくる。話題を変える。
「リンダさんは病気なん?」
「昨日、検査してもらったけど、体のどこかが病気というわけじゃないらしいんよ。メンタルは別にして、体力さえ回復すれば、元気になるって」
「そうなんじゃ」
九時になって、三佐子さんは隣のスーパーに出かけて行った。待っていたかのように、リンダさんが目を開けた。
「山翔さん」
いきなり、名前を呼ばれて、ドギマギする。
「あ、はい。リンダさん、気分はどうですか」
「ごめんなさい。お手間を取らせて」
「いえ、僕は何も」
声は小さいが、言葉ははっきりしている。
「あの、うつ病患者の妄想だと思って聞いてもらえればいいんですけど…」
何か、僕に話したいことがあるようだ。
「何でしょうか。僕も自律神経失調症で、仕事を休んでいます」
「そうなんですか。仲間ですね」
笑った。
「聞いてほしいことというのは?」
「あの、私、夢で山翔さんと会っていたんです」
「え?」
鳥肌が立つ。
「どんな夢ですか?」
「自殺しようとして、睡眠薬をたくさん飲んだんです」
「夢で?」
「いえ、現実で」
「…」
「ごめんなさい。やっぱり、引きますよね」
「大丈夫ですよ。話してください」
「ここからは夢なんですけど、夢の中でも意識朦朧としていました」
「夢でも、現実でも生死の境をさまよっていたんですね」
「そういうことですね。で、私をずっと、おんぶしてくださっていました」
「誰が?」
「山翔さんだと思います」
サブいぼが背中から頭に駆け上がり、髪の毛が逆立ちそうだ。
「かなりぼんやりしてるんですけど、恐竜が出てきて、私をおんぶしたまま、戦おうとしておられました。確か『絶対に守る』と言われました」
…信じられないが…。
「その夢、僕も見ました」
「え? それは冗談ですか」
「いえ、冗談ではありません。その後、不思議な木の実を、あなたに、口移しで食べさせました」
「え? 確かに、夢で木の実を食べさせてもらいました。朦朧としてたので、どうやって食べたのかは分からなかったんですけど、口移しだったんですね」
リンダさんは、驚きを表したあと、恥ずかしそうにした。
「同じ夢を見た? というか、同じ夢の中にいたということでしょうか」
「そんなことがあるのかしら…。夢の中に菊池塾長はいました?」
「いました。カラス天狗の恰好で」
「そうです。あれはカラス天狗というのですね」
「塾長が見せている夢なんだと思います。僕は毎日、そんな夢を見せられています」
「へえ。夢の中で塾長は『サンザのもとへ帰れ』と言いました。私も、きっと心配しているであろう親友、サンザ…ああ、君島三佐子のところに帰らなきゃと思ってたんです」
「そうだったんですか」
「山翔さん、助けてくれてありがとう…」
自分が救ったのは夢の中のことであるが、不思議と不自然に感じない。
「昨日、朝早く矢野駅に降りました」
「え? 昨日の朝は、大雨で電車止まってましたよ」
「え?」
「…」
「…そう言われれば、どこから電車に乗ったのか記憶がありません。というか、この街を出てから昨日までのこと、何も…。薬のせいですかね。そもそも、いつどこであの睡眠薬を飲んで、あの夢を見たのでしょう。あれも夢?」
辛そうな表情になった。
「無理に考えない方が…」
「そうですね…」
「…」
「そして、駅前からサンザに電話したんです。そこは現実なんですよね。大雨が降っていたので、迎えに来てもらおうと思って」
…それで、三佐子さんは出かけたんだな。
「その後、自転車に乗った僕を見ませんでしたか」
「あ、目の前で自転車が転びました。あれ、山翔さんだったんですか。ごめんなさい。気の毒に思ったんですけど、あまりの大雨なので、雨宿りができる駐輪場の裏に避難したんです」
「なるほど」
「たぶん、そんなところに行ったから、サンザに見つけてもらえなかったんですね」
「その後、もう一度見ましたよね」
「はい。一旦、バス通りに出たら、バスの中に、夢で見た男の人がいたんです。びっくりしました」
「僕も、夢の中の女の人が、現実に現れたので、びっくりしました」
「あのあと、雨に濡れて体温が下がったせいか、気が遠くなって、柱に寄りかかっていました。そこをサンザが見つけて、救急車を…」
リンダさんは話し過ぎて疲れたようだ。肩で息をしている。
「あ、ごめんなさい。もう、無理をしないでください」
鞄の中に、例の木の実が入っている。
これを食べたら、リンダさんは元気になる。というのは夢の中の話。しかし、この木の実自体、夢の中から現実化した不思議の木の実だ。
…食べてもらおうか。いや、三佐子さんに相談してからにしよう。
一瞬、口移しの光景が蘇る。今思えば、唇の感触さえリアルだった。
痩せ衰えた若い女性が横たわっている。いろんな意味で目のやり場に困る。首を横に振って振り払い、窓の外を見る。
ようやく、三佐子さんが帰って来た。レジ袋ではなく、自前の買い物バッグを持っている。
「あら、リンダ、目が覚めたん?」
リンダさんは、頷いた。
「今、少し、話をしたよ」
「話ができるようになったん?」
「うん。小さい声じゃけど」
「そう。また教えて。お兄さん、朝ご飯食べてないんじゃない? はい!」
小さい布袋を差し出した。スーパーの中のベーカリーで買った惣菜パンと飲み物が入っているようだ。
「あ、ありがとう。お腹ペコペコ。三佐子さんは?」
「リンダの病院食を代わりに食べた。もったいないけん、看護師さんにお願いして」
「リンダさん、全然、食べんのん?」
「うん。食欲はないみたいね」
リンダさんは、申し訳なさそうな表情で聞いている。
「これ、食べても大丈夫かな?」
「何? あ、夢から出て来た大蘇鉄ね。私らも食べて、何ともなかったけん、大丈夫じゃとは思うけど。リンダ、食べれるかね。噛む力がなさそう」
「口移し?」
「ばか。なんか変態」
「冗談…」
リンダさんはびっくりしている。
「夢の中で食べさせてもらった、あの木の実が実在するん?」
「夢の中でお兄さんが恐竜からもらって、リンダに口移しで食べさせたんだってね」
口移しの話になると、三佐子さんはちょっと不機嫌になる。
「夢を信じて、リンダにも食べてもらおうかな」
紙袋を渡すと、三佐子さんは一個取り出して平皿の上に乗せた。果物ナイフを器用に使って種を外し、果肉を五ミリくらいに刻んだ。
電動ベッドのスイッチを入れて、リンダさんの姿勢を起こし、スプーンで掬って、口に持っていった。リンダさんも意を決したように口を開けて、スプーンを受け入れた。三佐子さんは、追いかけるように水差しで水を飲ませた。
「美味しい」
リンダさんは言った。三佐子さんは、リンダの意欲をみて、もう一つ刻んだ。それを食べさせながら、「お兄さんも食べて来たら?」と言う。
僕は談話室に行って、三佐子さんに買ってもらったパンを食べる。袋にはコロッケパン、野菜サンド、野菜ジュースが入っていた。
…野菜中心。さすが栄養士。
病室に戻ると、二人が手を取り合ってニコニコしていた。特に何かを話しているわけでもない。リンダさんの顔が赤みを帯びている。
僕が「顔色が良くなったね」と言うと、三佐子さんは「そうじゃね」と答えて、僕を振り返る。
「あ、お兄さん。お願いがある」
「何?」
「喫茶店の車。救急車に乗るとき、駅前のうどん屋さんの駐車場に置かせてもらったんよ。いつでもいいとは言うてもらっとるんじゃけど、取りに行ってくれん?」
「ええよ」とキーを預かり、駐輪場から自転車に乗った。
矢野沖町は埋立地なのでまったいら。一キロ近くまっすぐな道路が格子状に通っている。
広い敷地の工場が並んでいる。
…あ、ここがあの工場長の工場だ。
純喫茶ぎふまふまで行って駐輪し、歩いて駅前のうどん屋さんに顔を出した。お礼を言うと、昨日の女性は大丈夫だったのかと聞かれたので、大丈夫みたいだと答えた。
ぎふまふ号は、今朝、三佐子さんからの電話を受けた場所のすぐそばで、あの時振り返れば見えた駐車場に置いてあった。
車で病院に戻る。病室に行くと、カーテンが開いていて、楽しそうな笑い声が聞こえた。リンダさんは体を起こして、笑っている。どんどん元気になっていく。朝来たときとは、随分印象が違う。
「さっき、先生と面談したけど、割と早く退院できそうよ。そしたら、しばらく、私の部屋に来てもらおうと思うの」
…リンダさんには帰るところがないのか。何度も自殺しかけているらしい。余程の事情があったのだろう。
「サンザ、ごめんね。何から何まで…」
「二人のミサコ、リンダとサンザの仲じゃん。水臭いこと言わんのよ」
「ありがと。心配かけてごめんね」
「お礼はええけん」
二人の関係は特別なものだと感じた。
お昼の病院食が運ばれてきた。
「問題はこれよ。先生も食事ができれば、退院って言われたんよ。これくらい食べられるようになってもらわんとね。お兄さん、手伝って」
「はいよ」
僕は、三佐子さんについて、病院食をお盆ごと談話コーナーに持って行った。三佐子さんはスーパーで買ってきた物が入った袋を持っている。横の給湯室には、電気コンロと電子レンジがある。
この日の献立は、お粥、おでん、茶わん蒸し、オレンジゼリー。
「全粥(ぜんがゆ)の軟菜食。昨日の昼、夜、今朝の食事は、結局、私がほとんど食べた。食べながら、病院の栄養士さんも大変だなと思った。カロリー、栄養素、アレルゲン、柔らかさ、いろんな制約の中で、献立を考えんといけんのよ。そうすると、味や香り、見た目みたいなことが、どうしても後回しになってしまうんよねって。それは、決して手抜きということじゃなくて、優先順位の問題なんよ。ただ、ほんのひと工夫で美味しくできるんじゃないかと思ったんよ」
「なるほど、病院食をリメイクする気じゃね」
「そうじゃね。もちろん、それを入院患者全員に、となると、予算や人手の問題があるけん、簡単にはできんのじゃと思うけど」
エレベーターから白衣を着た女性が現れた。
「こんにちは、この病院の管理栄養士です」
「こんにちは、林田の付き添いの者です」
「君島さん、ですよね。薬剤師で栄養士で調理師なんでしょ。雑誌で読みました。私も一度、お店に行ってみたいと思っていました。今日は、美味しい病院食を作る方法を教えてくださるとかで、楽しみにしています」
「いえいえ、教えるだなんて。栄養士さんと一緒にリメイクしてみたいなと思ったんです」
「ありがとうございます。病院食は不味いご飯の代表みたいに言われています。頑張ってはみるのですが、塩分、糖分、脂肪分と使える量が限られているので、家庭の味やレストランの味に近づくことが難しいんです。私らも食事を作るプロです。本当は入院患者さんに、美味しいと言ってほしいんです」
「ですよね。ご苦労お察しします」
三佐子さんは、作業を始めた。
「まず、お粥さんです。このお粥には塩が入れてありますか」
「いいえ、お米と水だけです」
「そうなんですね。塩結びよりシンプルだ。お粥さんも本当は美味しいんですよ。ただ、濃い味に慣れてしまった日本人は、その味を感じなくなっちゃってるんです」
「雑炊と違って、具も調味料も入れませんし、おかずと一緒に、という食べ方でもありませんからね。それに、あまり、噛まないので、お米自体のおいしさも感じにくいかもしれないですね」
「そういうことか。あの、この患者で、気をつけなきゃいけないことって何ですか」
「そうですね。林田さんは、臓器の病気ではないので、咀嚼、嚥下、消化に気を付ければ、特に材料としてのNGはないですね」
三佐子さんは、スーパーで買ってきた物の一つを袋から出した。
「海苔の佃煮、入れてもいいですか」
「海苔の佃煮? おもしろーい。お粥の意味を壊さずに、味を付けるんですね。風味も増しますね」
栄養士さんは、成分表示を確認してOKを出した。
「次におでん。このゆで卵、林田には無理だと思うんです」
「そうですね。ごめんなさい。行き届かなくて」
「いえいえ。こんな大きな病院だと一人ずつに合わせるのは難しいですよね」
「いくつかのパターンはあるんですけどね。軟菜食の次は流動食になってしまうんです」
「段階としては、軟菜食でいいと思います。少し、栄養価を増すために卵は摂りたいところです。マヨネーズ、いいですか」
「いいですよ」
おでんのゆで卵を、小皿に移しで、マヨネーズをかけてフォークで潰した。
「黄身でむせるといけないので、おでんの出汁で薄めていきます」
「マヨネーズでカロリーも上がりますね。でも、おでん出汁が混ざると、どんな感じ? あ、しょうゆマヨネーズがいけるんだから、大丈夫ですね」
「大丈夫だと思いますけど。私の料理、結構失敗するんです。ね」
そう言って、僕の方を見た。
「うん。こないだ、くさやで大失敗したよね」
「具体的に言わんでええよ」
和やかな雰囲気になった。
三人は給湯室に行き、三佐子さんがスーパーで買って来た陶器やガラス食器を洗った。
「これ、全部、百円ショップです」
「そうは見えないわ」
「ですよね。病院食のプラスチック食器も、最近は無地ばかりじゃないんですね。見た目は華やかになったんですが、食器と箸やスプーンが当たる音も食事の要素だと思うんです」
「器の見た目や重量感は大事だと思うけど、音、ですか」
僕が割り込んだ。
「それ、分かる。職員食堂のカツ丼を掻きこむとき、カコンカコンていう、プラ音がすると、味までプラスチックになる」
「ご主人も面白い人ですね」
「旦那ではないです」
「あら、てっきり。それは失礼しました」
黒い漆塗り風のお膳。再加熱したお粥は陶器のお茶碗、海苔の佃煮にサケフレークを乗せて色味を添える。おでんは具材を半分くらいに切り、ゆで卵のマヨネーズ和えと一緒に平皿に入れて、主菜感を出す。茶わん蒸しは小鉢に移して、花模様の麩を散らす。オレンジゼリーはガラスの器に伏せて、プリンのようにした。
「わあ、きれい。美味しそう」
栄養士さんが目を輝かせた。
「リンダが食べてくれればいいけど」
リンダさんのベッドに食事を運ぶ。三人が見守る前で、リンダさんは拒食症とは思えないくらいの食欲を見せた。
栄養士さんも喜んでいる。
「君島さん、ありがとうございます。今度、お店行きますね。噂で聞きました。メニューにないカレーがあるんでしょ。絶対に食べたいです」
僕が「絶品ですよ」と添えると、リンダさんが「私も食べたい」と言った。栄養士さんが「カレーは刺激物で、油も多いのでもう少し元気になってからにしてくださいね」と言い、三佐子さんと顔を見合わせて微笑み合った。
「この調子なら、明日には退院ですね」
「やっぱり、私、サンザがいないと生きていけんみたい」
「リンダ!」
二人のミサコは、抱き合って涙を流しながら、笑っている。二人の不思議な関係を感じた。
「ずっと店、休んどるけん、明日は定休日じゃけど、開けたいの」
「ごめんね」
「ううん。一旦帰るけど、もう、おらんくならんのよ」
「うん、おらんくならんよ。信じて」
「うん」
リンダさんを病院に残して、軽バンで店に戻る。
途中、あの工場の前を通った。
「朝の常連さん、この工場の工場長みたい」
「よく知ってるね。私にはそんな話したことないよ」
「こないだ、仕事がないなら、うちに来てもいいよって名刺をもらった」
「気に入られたんじゃね」
「うん。うれしい。今朝も店の前で会って、自転車直してもらいながら、ちょっと話したんよ。でね、こないだのグエンさんたちの彼女」
「ホーさんとレーさんだっけ」
「じゃったっけ。彼女たちも。この工場で働いてるんじゃないかと思うんよ」
「そうなん。よく分かったね」
「確定じゃないんじゃけど。妙に話が符合するんよ。でね、恋愛禁止とか言うてないのに、公民館で変なことを吹き込む奴がおるけん、行かんように言うたって」
「え、そりゃ、誤解が複雑骨折しとるね」
「みんないい人じゃけん、どうにかしてあげたい」
「お兄さんも、伊藤家の人じゃね」
「え、武瑠もそんな感じじゃったん?」
「そうじゃね。いつも、他人を優先して、自分のことは後回し」
「あいつ、そういう奴じゃったんじゃ。知らんかった」
ちょっと気になっていることを聞いてみた。
「あの工場長さんとか、常連さんたちは、三佐子さんと武瑠のこと知らんのん?」
「お客さんは、武瑠君自体を知らんと思う。塾長がやりよる頃から、店に来るのは閉店後じゃった。私とのことは誰にも言うてないよ。叔母ちゃんにも言うてなかった。占い師のくせに口が軽いけん」
「そうなん」
「あ、一回、七海ちゃんに『好きな人がおるじゃろ』と聞かれて、言いそうになった。あの子、誘導尋問がうまい。刑事向きじゃね」
「誘導尋問とかせんよ」
「お兄さん、高校の時、七海ちゃんと付き合いよったんとね。その時、聞いたよ」
「え、それ、知っとったんじゃ」
店に着いた。午後の後半、もうこの日は臨時休店のまま。
三佐子さんが、三階にリンダさんのスペースを作るというので、家具を動かすのを手伝った。夕方になり、僕は、自転車で家に帰った。
母親はインスタントラーメンを作ってくれた。我が家のラーメンは、正方形の袋に入ったちぢれ麺ではなく、細長い袋に、ソーメンのように束ねたまっすぐな麺。インスタントという言葉が使われる前から存在する「即席ラーメン」というものらしい。沸騰したお湯に麺を落とし、シンプルな粉末スープを入れるだけ。
「このラーメンには、ほかに何も入れない方がいい」
「いろいろ入れたがる母さんにしては珍しい。あ、ただの手抜きじゃろ」
「バレたか」
食べながら、病院食をリメイクした話をすると、母親は食いついた。
「海苔の佃煮のお粥、やってみよ」
面倒くさそうにラーメンを作っていたのに、米からお粥を炊き始めた。
ラーメンのあとに、僕も食べたが、佃煮の甘みと酸味が良く、いくらでも食べられそうだ。
「これ、お米の量が少ないけん、ダイエットになるかもね」
この日は、病み上がりにも関わらず、結構な距離を自転車に乗ったので疲れた。
薬を飲むと、眠くなった。
こないだの夢の続きか、ぐっしょり濡れたリンダさんを背負って、山道を歩いている。大蘇鉄の口移しで息は吹き返したものの、ぐったりとしている。
耳元で何かを語り始めた。
―矢野城は毛利元就の攻撃に炎上したが、勇者タケルや忍者サンザら妖術で、戦況を逆転させ、最終的には毛利を撃破。矢野城当主を継いだアゲハ姫は、毛利を滅ぼさず傘下に入り、参謀として毛利を操った。―
「それは、塾長の小説?」
答えはなく、ナレーションが続く。
―そのような折り、領内に不思議な女が現れた。未来を言い当てるというその女を、人々は極楽からの使いと畏れ、崇めた。―
「未来人…」
―女の予言に従うことにより、毛利とアゲハ姫の連合軍は中国を平定、西国の覇者へと目標を進める。女は重く用いられ、連合軍の庇護のもとに矢野城跡に神殿を建立。しかし、女の霊力はさらに増し、何者の口出しも許さぬ者となっていく。矢野城跡周辺は独立不可侵の宗教都市となり、女は「教皇」と呼ばれるようになった。―
「女の教皇…」
―目を閉じよ。―
僕が目を閉じると、脳裏に映像がフェイドインしてくる。壮大な神殿の俯瞰から、建物の中に移る。
神主のような恰好をした大勢の神官が、梯子や竿を使って、巨大な地図を祭壇の最上段に掲げている。ドクロや気味の悪い動植物で、おどろおどろしく装飾された絵地図、儀式にでも使うものなのか。
「教皇様のお出ましーー!」
大司教が高らかに告げると、神官たちは跪(ひざまず)き、顔を伏せた。
金銀、螺鈿(らでん)をあしらった漆塗りの木靴が、中央の通路を進み、玉座に着いた。
大司教が参集者に向かって、「頭(かしら)を下げたまま、拝聴せよ」と言う。
「皆の者、朕(ちん)の言葉、心静かに聞き給え」
一斉に「御意」の声が上がった。
教皇が話し始めた。
「朕はこれより、この地を、いや、この世を去らねばならぬ!」
拝殿がどよめいた。
「皆も、一旦は亡者となりながら極楽天神に蘇った者たちであろう。朕はさらに遠い未来よりここに現れた。かぐや姫のお伽話を知っておるか。朕も元の世に戻るときが来たのじゃ」
大司教が「教皇様が去られた後の、この世は如何に?」と尋ねた。
「勇者タケルと魔女サンザの言葉を聞くが良い。彼らが、この世を未来に導くであろう」
木靴を蹴りだして裸足になり、瀟洒な衣装を脱ぎ捨てると、真っ白い死装束が現れた。
「梯子を!」
そう言って、祭壇の階段を駆け上がり、立てさせた梯子を最上段まで登る。
右手で懐剣を抜いて、向こうを向くと、血しぶきが飛び散った。左の手首を切ったようだ。
「教皇様!」
神官たちは堪らず、顔を上げて立ち上がった。
教皇は鬼気迫る表情でこちらを向く。
傷口を押さえている右手を離し、地図の一点に血の掌紋を押した。
「朕はこれより、ここ、極楽天神より未来に戻る!」
光に包まれる。宙に浮く。
「さらばじゃ!」
天井をすり抜けて消えてしまった。
「教皇様!」
嘆きの叫び声が、拝殿のあちらこちらから上がる。
ナレーションが始まった。
―女は天高く舞い上がる。息ができなくなり、氷点下の寒さに晒される。おそらく一旦死んだ。―
…一旦、死んだ?
―凍った体から人間大の蝶が羽化、降下して里の上空を舞う。光の鱗粉は金色(こんじき)のダイヤモンドダストとなり、木々に降り注ぐ。さらには水に、土に滲み込んでいく。―
…美しい…。
―天女の声が聞こえる。―
「これより、この地は不可思議の氣(き)を纏(まと)う竜都(りゅうと)となる」
…シュールな…。
―やがて蝶は力尽き、ヒラヒラと回転しながら滝壺に落ちた。人の姿に戻ったが、身動きもなく水に沈んだ。滝壺は底の栓を抜いた樽のように渦を生じる。女の体は半透明になり、それに吸い込まれていった…。―
異世界。いろんな不思議な夢を見たが、この夢は異質だ。リンダさんの経験なのか、僕の妄想なのか、塾長の創作なのか。いずれにしても、七夕の夜に見た夢の、その前に起こったことのようだ。あちらの滝壺に消えたリンダさんが、こちらの滝壺に浮かび上がったということではないか。
僕は一昨日、極楽天神の滝壺から、血に染まった死装束の女を、抱え上げる夢を見た。そして、今はその女を背中に背負い、この映像を脳裏に注入されている。
映像はブラックアウトして、最後のナレーションが入った。
―教皇は『極楽天女』と諡(おくりな)され、伝説となった。あの地図は、すでに勇者ヤマショウの手にある…。―
僕は目を開けた。
「勇者ヤマショウとは僕のこと? 地図、もらってませんけど」
背中を振り返るが、リンダさんはまだぐったりとして、眠っている。
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